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誰かの“自己責任”を問わない

自分で選んできた。結婚も、出産も、仕事も。

仕事を始めたきっかけこそ家計的にやむを得ないというものではあったけれども、それでも働くことを決めたのはわたし自身。誰かに何かを強制されたわけではない。


自己責任という言葉が、少し苦手だ。「自分で選んだんじゃん」と他人が誰かに放つ言葉が嫌いだ。

「決めたのはわたしだ」という意識は、本人が持ってさえいればいいと思っている。決めたのはわたしだけれど、それでも「つらい」し「しんどい」し「いっぱいいっぱい」。それは別におかしなことではないし、むしろ吐き出してバランスを取れている方が幾分かマシなのではないかと思う。

そもそも、いくら自分で決めたからといって、始めてみなければわからない実情はあるものだ。「あなたが決めたことなのだから、愚痴らずやるべきだ」というのは、ちょっと乱暴ではないだろうか。

「愚痴るくらいなら、やめれば?」も同様。なぜ、白と黒の2極に振り分けなければならないのだろう。別に、「愚痴っていれば継続できる」があったっていいじゃないか。空だって雨が降りそうで降らない曖昧な色をしていることがあるのだから。

「自分で決めた」を放り投げて、「ぜーんぶあなたのせい。社会のせい。何かのせい」としてしまうのはいただけないけれど、「決めたのはわたしだけれど、しんどいんだわ」とぼやくことは、健全だとすら思う。前を向いて進むためには、後ろを振り返りたくなる荷物を適宜捨てた方がいいと思うから。


自分で決めた。だからこそ、また自分で選べるんだよ。愚痴や泣き言を言いながら踏ん張ることも、撤退を決めることも。

それは、他人にとやかく言われることではない。「でも、自分で選んだんでしょ?」の言葉は、すでに自覚している人間にとっては、ただの凶器だ。後退も進路変更もできなくさせ、前進しか選択肢がないと思わせる、刃だ。

自己責任は、自己の中だけにあるべき言葉だ。それぞれが、それぞれの自己責任の中で生きればいい。他人の自己責任を問うくらいなら、自分の判断でその人から離れるなり適当にやり過ごすなりすればいい。その人の、自己責任で。

これが、もし迷惑を被った被害者ならば話が変わる。その場合は、他人ではなく当事者のひとりになるわけだから、「いや、勘弁してよ」と言う権利はあっていいと思っている。だから、これはあくまでも無関係の「第三者」であるときの話だ。

他人の愚痴に付き合えるタイプならば「聞くよ」と言えばいいし、無理ならば「ごめん、愚痴聞きは苦手なんだ」と言えばいい。愚痴を言う相手に、「愚痴るのってどうなの?自分で決めたんでしょ?」と言うくらいなら、「ごめん、無理」と伝えてもらった方が、よほどいい。


すべてが自分の意のままになるわけではないけれど、わたしはその中で選んでいく。時には「無理ー。しんどいー。つらいー」と泣き言を言いたくなることもあるけれど、それでも前に進みたいから、泣きたくなるのだ。

「これが自分が決めた道」だと自分には言い聞かせながら、誰かが自分の選んだ道で佇んでいたら、ぽんと肩をやさしく叩ける人間でありたい。がんばるのも、がんばりたいともがくのも、がんばれないと決めるのも、続けるのも、やめるのも、自分の自由なんだよ。

前言撤回を恐れるな。誰かの言う“自己責任”に溺れるな。その時々で、わたしにとっての最善を、わたしは選び掴んでいきたい。


#エッセイ #コラム #雑記 #わたしのこと #考えていること



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