それ、本当に「その人」を見ている?

世の中にはいろんな人がいて、どうやらそれぞれ違う価値観、考え、感情をもっているらしい。

そのことに気づいたのはいつだったろう。我が家の5歳児を注意しながら、そう思った。

彼はまだまだ「自分のおもしろい」と「他人のおもしろい」が分かれていることを理解しきれていない。兄に茶々を入れて泣かせるたび、「自分だけがおもしろいのはダメ。嫌がられたら止める!」と口酸っぱく言い聞かせている。

自分の価値観が、多数派であるように錯覚することがある。そして、そうではなかったことを知り慌てることもある。

反対に、他人に言われてきたことが自分の評価だと思い込んでいたら、実はその相手の見方がずれていた、なんてこともある。多くの場合、これは複数の第三者から「え、そんなことないでしょ」と言われて気づけることだ。

誰かに指摘するとき、それは時に「相手にこうあってほしい自分の欲」や「フィルター越しに相手を見ているだけ」であることも多いのではないかと思う。

フィルターというのは、たとえば自分が人を疑いがちだから相手もそうであると思い込んでいる、なんてことだ。「あなたは〜だから」の「〜」は、実は自分なのだ。そして、大抵が耳が痛い欠点であり、下手をすれば自分で気づいていないことすらある。無意識に棚上げにしているのだ。棚上げにしているから他人にやいやい言える、ともいえる。

相手を自分の意のままにしておきたい人ほど、そうやって相手を責め立てるのかもしれないな、と思った。

言われた側が反発できればいいけれど、なかなかそう簡単にはいかない。特に、自分に自信がなかったり責めがちだったりする人は尚更だ。言われた言葉を受け取ってしまい、自分をダメだと思い込む。毒のような言葉だと思う。

誰かに何かを言いたくなったとき、その何かは本当に目の前の人のことなのか、実は自分が当てはまっているからなのか、少し立ち止まることを意識したい。

反対に誰かに思いもよらぬことで厳しいことを言われたときも、できるだけ冷静に受け止められたら、と思う。(苦手なのだけれど)

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