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ゼロをゼロとして見ること

何かに一生懸命な人が好きだ。すきなことであっても、やらなくてはならないことであっても、がんばっている人からはいいエネルギーをもらえるし、単純に「素敵だなあ」と思える。

芸能人やスポーツ選手に対して多くの人が「感動します」と言うのも、素晴らしい結果に対してがすべてではない。彼ら彼女らがそこに辿り着くまでの道のりに想いを寄せ、より一層心を動かされているのだ。

努力が目に見える・見えないに関係なく「何かをしている」人を「いい」と思う気持ちが強いのだけれど、それは一方で「していない(ように見える)」人に対して、冷めた目で見てしまうことにつながってしまうのではないかと危惧している。

なお、ここでいう「していない」は、「出勤する」であるとか、「食べて寝る」といった最低限のことは「している」ケースを含む。では何をもって「している」「していない」と判断しているのだろうと考えてみたのだけれど、たぶん「未来志向で物事を考えている、動いている」ことを「している」と捉えているのだと思う。

たとえば、昔勤めていたバイト先。職場の文句ばかりを言って、自分の状況を改善させようとしていない(ように見えた)人のことを、わたしは内心卑下してはいなかっただろうか。

わたしは「ここは長く働けるところではないな」と思ったから、どうにか自分の状況を変えようと調べ動いて今に至るのだけれど、だからといって、彼女を否定していいのかと問われたらNOだ。まあ、非建設的な愚痴は聞いていて気持ちのいいものではなかったし、「だったら別の仕事探したらいいのになあ」とも思ったのだけれど、それくらいはいいだろう。

ただ、もしかしたら口だけを動かして何もしていなかったわけではなく、実は動いていた、動いてみたことがあったのかもしれないのだ。その結果、「動けない」と判断して今に至っているのかもしれない。それでも働き続けなければならない状態を、愚痴を言うことでやり過ごしていたのかもしれない。どれもわたしの勝手な想像だから、真実はわからないけれど。

愚痴はほとんどが非建設なものだから決して聞き手としては気分がよいものではないけれど、何もかもが建設的でなくてもいいのだ、と思うことは大切なのではないか。非建設的なものから生まれるものだってあるのだろうし。

結果の出ている出ていないに関わらず、もがきながらでも動いている人は問答無用で素敵だと思う。なかには「結果が出ていないからムダだ、素敵じゃない」とする人もいるだろうけれど、わたしは「している」ことを素敵だと思っている。

だからといって、「していない」を不快だと捉えてしまいそうになるのは怖い。特に怖いのが、親しい人や身内のときだ。

たとえば、子どもが「何もできない、したくない」状態でいるとき、そこに「病名」というお墨付きを得ぬ段階で、わたしは素直に受け入れられるだろうか。ただ堕落しているだけ、怠けているだけだと判断しやしないだろうか。

「できなかった」時期が、わたしにもある。いや、今でもある。そんなとき、わたしは「できない」ことがつらい。「できない」は悪だ、「できない」は怠けだ、甘えだ。そうした思いに駆られる。

「がんばれている自分」だけを認めて、「がんばれない自分」を叩き潰そうとしてしまう。でも、自分を叩き潰すのは案外難しいから、「いや、これでもがんばっているんだよ」と自己弁護に走る。何かをしていなければという思いが、おそらく強迫観念になっているのだろう。

それは、「ちゃんとする」ことを殊更よいこととする育て方をされたからかもしれないし、わたしが完璧主義気質をもって生まれてきたからかもしれない。どちらにせよ、生きづらい思考回路だ。

本来ならば、がんばっていてもがんばれなくても、人は存在していい。だけど、わたしには「せめてがんばろうとしていなければ、いてはいけない」という思いが強いのだ。そして、その思いは知らず知らずに身内にも向けられてしまうのではないかと思っている。口に出さずとも、苛立ちとして現れているのでは、と。

「している」のは、素敵だ。打ち込んでいる姿には心を動かされるし、仕事柄いろいろな人に取材をしているけれど、いつもいいエネルギーをもらってばかりだ。

だけど、いや、だからこそ。「していない」ことを、否定しない自分になりたい。「している」の素敵さで「していない」を追い詰めないよう意識したい。

「している」になれと強要するのは、たとえ自分に対してであっても時に酷なことなのだ。身内であっても他人に強いるのはなおさらだろう。ましてや、「していない」相手を見ていて不満を溜めるのは、ただ自分がしんどくなるうえに関係性を悪化させるだけ。いいことなんてない。

わたしの「これでもがんばっている」の「これでも」の裏側にあるのは、責められたくないという自己防衛意識。言い訳めいたことを言って自分を守りたくなるということは、「がんばっていない」状態をよしとしていないからだ。

自己否定は心を蝕んでしまう。だから、「がんばれない自分」をシンプルに受け止められたらと思う。「していない」ことを否定するのではなく、自嘲するのでもなく、ただただまるっとそのままに。

「していない」状態は、前にも進めず、何かを生み出すわけでもなく、限りなくゼロなのかもしれない。だけど、決してマイナスではない。わざわざマイナスに押しやって、苦しみを自ら招かなくていいのだ。

誰かの「していない」を受け止められるようになるには、まずは自分の「していない」状態をそのまま認められるようになることからだろう。なかなか根深い思考回路だけれど、少しずつでも変えていきたい。

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