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背中を通して世界を見る

子どもには無限大の可能性がある。大人になるにつれて、ひとつずつ可能性の芽を失っていき、そうしてわたしたちは大人になる。

……と、言われて育った。「いいねえ、まだまだ可能性だらけなんだよ、若菜は」。10代の頃に親に言われたセリフだ。「そうなのかあ」と思いながら、どこか釈然としない気持ちも抱えていたことを憶えている。

「子どもは夏休みがあっていいなあ」と毎年のように言っていたのは父だ。でも、わたしは「子どもの方がそんなにいいものかなあ」と疑問に思っていた。ただ、あまりにも「いいなあ」と言われ、仕事のつらさや大変さばかりが伝わってくる環境にいたため、将来働くことに期待感や楽しみは感じられなかった。

確かに、わたしたちは可能性を失いながら大人になる。大人になってからでは目指せない夢があるのも事実だ。たとえば三十路をすぎたわたしが、今からスポーツ選手になりたいと思っても、まあなれない。(例外的なスポーツもあるかもしれないから絶対とはいわないけれど)

でも、本人の姿勢次第では、大人になった方が可能性がある、ともいえる。子どもの頃は知らなかった世界を、大人になれば自分の意思と行動次第で知れるのだから。

子どもは親の庇護化にいる存在だから、自由のようで不自由だ。世界だって狭い。学校や家庭で行き詰まってしまうと、すべてが終わってしまうように思うことさえあるのだから。


だから、わたしは子どもの方がいいなあとは思わない。「今が一番いいときだよ」と言われたことがあるけれど、わたしはそうも思わない。そのときにはそのときのつらさや大変さやもどかしさがあったわけで、それは今も未来もそうなのだから。

……まあ、過去によさがあるとすれば、年々落ちていくであろう体力くらいではないのかな。ただ、体力だって自分次第である程度鍛えられるものだ。(わたしはそこのあたりが全然ダメなので落ちる一方なのだけれど)

子どもが見ているのは大人、幼いうちは主に親の姿だ。親や先生を通して、子どもは大人の世界を知る。そこに希望が感じられなければ、子どもの世界で絶望したときに踏ん張りたくなくなるかもしれない、と思う。だって、大人になっても大変そうなら、わざわざ大人になるまでがんばりたくないよね。

子どもがもっている可能性の芽は、自然と失うものばかりではなく、奪われるものだってあるのではないかと思う。親や先生や周りの大人の、無意識かつ無遠慮な言葉に。

「子どもはいいなあ」なんてことは、少なくともわたしは子どもに言いたくない。むしろ、「まあ、今は大変だよね。ママも大変だったよ」というスタンスでいたい。「いつかは楽になるよ」とまでは言い切れないけれど、楽に過ごせる方法が見つけられる日がくるかもよ、とは思う。そして、そうぼんやりと子どもが感じられる姿を見せられる親でいられたらなあとも思う。

わたしはメンタルが強靭なタイプではないし、キャパシティもみみっちいし、まあすぐに叱り散らす未熟な親だ。だけど、「何だかんだ大人になってもそこそこ大変そうだけど、でも何となく楽しそうには見えるから、大人になるのも悪くないかも」と伝わったらいいなと思う。

父のように「大人は、仕事は大変なんだぞ。おまえらはいいよな」と言うのではなく、「まあ子どもと一緒で、何事も大変なときもあるよ。でも楽しいよ」と言いたいし、そんな背を見せたい。

大人になっても可能性はあるし、大人になったから開ける世界だってたくさんある。新しい世界に飛び込もうとする姿勢があれば、いつだって世界は広い。そのようなことを、未熟ながら背中で伝えられたらなあ、と思う。

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