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soarのクラファンイベントで体温が上がった話

前に進むために必要なのは、小さな「いいね」や「わかるよ」や「すきだよ」なんだろうな。そして、自分の「いいよね」「すきだな」は、やっぱり大きな推進力だ。そんなことを思った2時間だった。

クラウドファンディングで、目標額の800万円を達成し、ネクストゴールの1000万円をも突破したsoar。わたしも微力ながらはじめて支援をした。今日は、そのクラウドファンディングの支援者のためのトークイベントだった。

ゲストはヘラルボニーの松田さんと、やる気あり美の太田さん。ヘラルボニーは知的障害を抱えている方のアートに関する活動を、やる気あり美はLGBTとの接点を増やす活動をしている。

濃密で、笑えて、あっという間の2時間だった。笑いすぎて体温が上がった気がするのは、きっと気のせいではないと思う。笑いも盛りだくさんだったなか、しっかり心の深くに届いた言葉がたくさんあった。だから、帰りの電車内で今これを書いている。

soarがクラウドファンディングに至った経緯やこれまでの記事をあらためて振り返り、ヘラルボニー、やる気あり美についての紹介を経て、トークセッションへ。備忘録として、noteにしたためておこうと思う。

届けるために、デザインを活かす

まず印象に残ったのは、「デザインを活かす理由」だった。太田さんも松田さんも、「そのまま伝えるだけでは、受け手に届かない」という。太田さんは「感情ののりしろ」と表現した。あまりにも立っている位置が異なる相手には、そのまま伝えても「へえ」で終わってしまう。だからこそ、「おもしろい」や「うわ、オシャレ」といった要素が届けるために重要だと考えているという。

松田さんも、「福祉とアートだけを出すのでは、“わたしには関係ない”とされてしまうことがある」といった。だからこそ、ヘラルボニーはデザインをモノに落として発信している。

共感しあえる人たちと過ごしていると、自分が寄せる興味関心に対して、ほかの多くの人も同じなのだろうと思い込んでしまうことがある。わたしもそうだ。

たとえば、soarのイベントに参加している人は、一定の共通した価値観を持っている可能性が高い。松田さんは、「周囲にいる人は、このことに関してリテラシーの高い人たちなんだということを忘れてはダメだと思っている。その先にいる、理解や知識がない、たとえば地元の友達に届くところまでどうやって届けていくのかを考えている」といった。(松田さんの地元は岩手。青森が地元だという瑞穂さんも「そこなんですよね」と同意していた)

キャッチーさと必然さ

ふたつ目に印象に残ったのは、「人に届けるために大切なこと」。

松田さんは、「タオルに水が染み込むようなやり方を選ぶこと」だという。裏を返すと、「怒りによる強い論調で発信しない」ことだ。

怒ることがダメなわけではないと思う。松田さんも怒ること自体を否定しているわけではなかった。ただ、怒りをそのままの形で外に出すことは、かえって壁や線引きをしてしまうことにつながりかねない。

これは、強いエネルギーに対する耐性が弱い人ほどわかるのではないかと思う。怒りのメッセージは、本来の共感者を時に遠ざけることになってしまうし、理解しようとしている人を怖がらせてしまう。強いものは、正しくても怖い。正しいだけに怖い、ともいえる。

「だから、僕たちは単に“これ、イケてるよね”というスタンスでやっています」という松田さんの言葉を、いいなあと思った。

怒りには対象がいる。だから攻撃的だ。誰しも攻撃されると身を守りたくなる。だから牙を剥く。針を立てる。だけど、「これいいよねー!」というスタンスの人には、近づいていける安心感がある。結果、理解が進むのだと思う。

太田さんは、「キャッチーさと必然性の両立」だと答えた。ヘラルボニーの活動にそのことを感じているという。第一印象の「わ、オシャレ!」のキャッチーさ。そして、中身を見たときにわかる必然性。「表紙をめくると、違った香りがする」と表現されていた。中身を知ることで、より一層ファンになる人が増えるのだと思う。

主語を大きくしない

わたしには、わたしのことしかわからない。わからないからわかりたいと思えるし、わかり合いたいと思える相手がいることをありがたいと思う。

太田さんが「やらないこと」に挙げていた「主語を大きくしない」こと。たとえば世代とか、性別とか、立場や職種。「みんなそう思っているんですよ」の「みんな」の誰だ感。いや、それあなたでしょ? という太田さんの感じ方に共感した。

なかには、主語を大きくすることで自分を守っている人もいるのだと思う。「いや、わたしがそう思っているんじゃないですよ、“みんな”が思っているんです」という言い訳が立つというか。ただ、わたしは「そうは思わない“みんな”」の存在を思うと、逆に「わたしがそう思う」のほうが危なくないと思うんだけどなあ。

わたしは、「自分のことばかり」と言われたことがあるのだけれど、やっぱり大きな主語は怖くて使うのは苦手だ。

センスはみんなにある。違いは、それを把握しているかどうかだ

才能だとか、センスだとか。特別なもののように語られる「与えられたもの」。

太田さんは、「人間、みんなどこかにセンスはあるんですよ」という。そして、「僕が“やる気あり美”の事業につなげられたのは、どこにセンスがあるか把握していたからなんだと思う」と続けた。

たとえば、やる気あり美のようなことをしたいと太田さんに伝えてくる人のなかには、明らかに笑いに興味がさほどない人もいるのだという。

やりたいことと向き不向きは時に異なるものだ。適材適所といわれるように、置かれた場所で咲こうにも、日向が好きな植物が日陰に置かれては綺麗に咲けやしないし、その逆も同じだろう。

以前にも書いたけれど、わたしにはユーモアセンスが悲しいかな不足している。だから、今もマジメな文章を書いているのだけれど、これはもう、こちらを磨くほうがいいのだろうなあと、またあらためて思うことになるのだった。

フィーリングが合う人がいい仲間になる

割と直感で生きている。損得よりも好き嫌いで動いてしまうタイプだ。

「合う」ことは具体的に説明するのが難しくて、「どこが」と言い始めると途端に嘘くさくなるなあと思う。思うのだけれど、この「合うな」はやっぱりバカにできないし、直感を信じることは大切なことなんだろうなとも思う。

松田さんも太田さんも、共に働けるかどうかの判断はフィーリングがメインだという。必要なスキルを持っている人、という段階もこないわけではないけれど、根底にあるのは「合う人」なのだ。

瑞穂さんは、soarもヘラルボニーもやる気あり美も、集まっている人が素敵だといった。なお、soarは「スイスの高原の空気のよう」といわれているらしい。みずみずしく、クリアなんだなあ。

このまま行こう、と思えた2時間だった

「“人間、みんな尊い”といえてしまう人が集まっている」と語っていた太田さん。この言葉に、「うわー」と思った。わたしは、何の拍子にそうなるのかはわからないのだけれど、突然「みんな生きてる…素晴らしい…」と胸が詰まることがあるからだ。(なお、“みんな”は本当に“みんな”だ。その辺ですれ違うだけの老若男女だ)

とはいえ、もちろん個人に対して怒りを抱くこともあるだろうし、好き嫌いもあるのだと思う。人間だから。わたしにもあるし、ない人はもはや神さまだ。

この「わあい、人が好き〜!」みたいな部分は、これからも大切にして生きたいなあ。わたしは性善説派で、性悪説の人には「いつか騙されるぞ」といわれたことがあるし、わたし自身も「いい人ばかりではないぞ」と思ってみることはあるのだけれど。だからこそ、悪意に弱いのかもしれないけれども。

何なら、こうやって思っていること自体、「いい子ちゃんなのでは?」と思わないでもない。だけど、これがわたしだから仕方ないんだよなあ。

自分を、自分として受け入れる。そのうえで、よりよい自分になれるように進んでいく。できれば、少しでも楽しみながら。

たくさんの感情や思考をもらった、2時間のトークイベント。soarのサイトリニューアルは、目下進めているところだという。

これまで、単に腰が重くてなかなか始められなかったサポーターにもなった。小さな力だけれど、応援していきたい。

ひとまず、今日の夜は購入したお茶を飲みますね。瑞穂さん、スタッフの皆さん、そして太田さんと松田さん、お話した参加者の方々、楽しい時間をありがとうございました。今もまだ、体温が高いです。

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