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鼻の奥が痛かったのは、きっとプールの塩素のせいだ

その感情の名前が嫉妬だったと気付いたのは、2年後、中学生になってからのことだった。

小学校4年生。
同じクラスの彼女とわたしとは、「ニコイチ」といってもいいくらい、常に一緒に行動していた。

特定のグループに所属しないわたしにとって、それはとても珍しいことだ。彼女が誰かと行動をともにするタイプだったからかもしれない。ただ、常についてこられることを疎ましく思うことはなかった。彼女とはどれだけ一緒にいても疲れることはなかったのだ。

そんなやり取りはしなかったけれど、親友といっていい仲だった。表面的な「わたしたち、親友だよね」ではなく。

「交換日記、しない?」と言い始めたのは、どちらからだっただろう。今では、よく覚えていない。ただ、ビニール製のカバーがつけられた、サンリオのバッドばつ丸の表紙は今でもはっきりと覚えている。どちらが買ってきたのか、きちんと割り勘して買ったのか、そうしたことは覚えていないのに。

「今日あったこと」「秘密のこと」「嬉しかったこと」など、細かくフォーマットが決められている交換日記を、わたしたちは頻繁に交換した。「〇日以内に書いてくること」というルールを最初のページに書いていた気がする。わたしも彼女も、その約束を律儀に守っていた。毎日会ってしゃべっているのに、それでもなお伝えたいことがあったのだなあ。

夏頃、交換日記には別の子――Rちゃんが参加した。わたしたちが交換している様子を見て、「入れて」と言ってきたのだ。わたしも彼女も「いいよ」と快く答え、そうして交換日記のメンバーは3人になった。

「いいよ」といったくせに、途中からわたしは何となく3人で回す交換日記が嫌になっていった。それは、たとえばRちゃんがわたしたちの話題に入ろうとする書き方に対して感じる違和感であったり、回す日数のルールに無頓着で、たびたび交換日記が止まってしまうことへの不満感であったりといった小さなことだ。

今思い返すとほんの小さなことなのに、当時のわたしには一大事だった。

当時、教室にはクーラーがなかった。肌にまとわりつく湿度も、わたしの心のなかに巣くうモヤモヤやイライラも、うっとうしくて仕方がなかった。

そして、そのモヤモヤやイライラを抱えているのが、わたしひとりだということも、わたしの不快指数を上げた。彼女は、何も不満を抱いていない様子だったのだ。

嫌な感情をすべて洗い落としてしまいたいのに、プールのシャワーは冷たすぎるし痛すぎるし、先生にぼとぼとと放り込まれる塩素のせいで、プール上がりの肌や髪はがびがびだ。舌先にほのかに感じる塩素の混じった水の苦さも、へばりついてなかなか脱げないスクール水着も、全部ぜんぶ嫌だった。

Rちゃんのことを、嫌いではなかった。だけど結局、2学期に入り冬休みに入る前頃には、また交換日記は2人のものになった。あまりにも毎回Rちゃんで交換日記が止まる事態がつづくから、「ルール違反」として脱退する、といったことになったのだ。

「ごめんねえ」とRちゃんはあっけらかんと言った。その笑顔が本心からのものだったのか、ルールに対して面倒だと内心不満を感じていたのかはわからない。

5年生。わたしは彼女と別のクラスになった。Rちゃんとはどうだったのかは覚えていない。

数歩先の隣のクラスが、遠かった。新しいクラスで、彼女はどんどんわたしとはまったく違うタイプの友達と仲良くなっていく。そのことだけが何となくわかった。わたしもそれは同じなのに、そのことがひどくさみしかった。

2、3冊目に突入していた交換日記は、そうして何となく途絶えた。最後がどちらの番だったのか、覚えていない。

再び夏が来る頃には、わたしと彼女とは全然話すこともなく、放課後に遊ぶこともなくなった。仲たがいしたわけではない。嫌いになったわけでもなかった。嘘みたいに小さなことで、今までの関係がなかったかのように、わたしたちは無関係になった。

彼女とまた話せるようになるのが、中学校に入学してからのことだ。2年ぶりにまた同じクラスになり、徐々にまた話すようになった。2年間で彼女は仲良くなった友達に影響されてギャル系になり、一方のわたしは何も変わっていなかった。だけど、話してみた彼女は、やっぱり彼女だった。

抗えないほどの強い感情は、はじめての嫉妬心だった。そのことに、わたしはようやく気付く。2年間で、少し成長していたのだろう。気づいたときの、「うわあ」という居たたまれない感情を、今でも生々しく覚えている。

水中にいるときのように、息をするのも苦しかった。そして、自分のことは棚に上げ、彼女がほかの子と仲良くなっていくのが、たまらなくさみしかった。塩素の入った水が入ったときの、ツン、という鋭い痛みが鼻腔に宿る。「嫌だ」も「さみしい」も、わたしは最後まで彼女に伝えられないままだった。

わたしが交換日記を交わしたのは、彼女とRちゃんだけだ。


お題:【プール】【交換日記】

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