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聴くことしかできないけれど、聴くことはできるよ

「何かわたしで聴ける話があるなら聴くよ」

タイトルの言葉と合わせ、わたしがよく誰かに言ってきた言葉だ。相手は友達であったり、仕事仲間であったり、家族だったりとばらばらだけれど、いつだって、わたしが好感を抱いている人だった。

おそらく小学校高学年頃から言ってきた言葉だと思う。たぶん、わたし自身のなかに「外にむやみに出せない感情」が芽生え、自覚し始めてからのことだったのだろう。出せる相手がいるありがたみがわかったから、その誰かになれるのであればなりたいなと思ったのだ。

そういえば、「相談にのるよ」という言い方はしてこなかったなあ。「相談してもいい?」と訊かれ、それに「いいよ」とは答えていたけれど。

相談にのりたい、とは違う感情なのだろうなあ。わたしは、ただ話を聞いて、時に問いかけて、相手が必要そうなら話したいだけなのだろう。

これが相談と何が違うのかと訊かれると説明が難しいけれど、何となく、わたしにとっては「相談」を名乗ることがおこがましいもののように思えている。

話をするだけで本人が整理できることって、案外多いものだと思う。そして、整理して見つけたものが、本人にとっての何よりもの答えなのだとも思う。

特に、誰かに与えられた一意見を正解にしてしまいやすい人ほど、他人に相談して答えを得ようとするのは危険と隣り合わせだと思っている。そして、誰彼構わず言葉を差し出すのは、そうした人のためにならないような気がしている。


「誰かのためになることをしたい」という想いが強い。特に、つらさや生きづらさを抱えている人のためになることをしたいと願い続けている。でも、その「何か」は、相談ではないのだなあと思った。

わたし自身が、結局自分が納得して決めたことでないとダメなタイプだからかもしれない。「こうしたらいいんじゃない?」よりも、「わたしならこうするかなあ」の方が興味深く聴けて好き。まあ、話の内容にもよるけれど。

困りごとの解決につなげるための記事を仕事で書くことがあるけれど、それも、「こんなサービスや支援が利用できます」と、ただそっと置くだけのスタンスで書きたいと思っている。最適解は人によって違うものだから。


「つらいなあ」には「そうかあ、つらいねえ」と答え、「どうしたいんだろう?」と尋ねる。夫にも、子どもにも。「なら、こうしたらいいよ」という答えのひとつを自ら求める前に出されると、「いや、それは違うんです」と突っぱねたくなることがあるよね、と思うから。わたしが頑固な天邪鬼なだけともいえるけれど。

答えを与えられるよりも、共に考えてもらえる方が嬉しかったりする。だからわたしは、わたしを求めてくれる人にとって、そんなひとりであれたらなと思う。ただ、そこにいて、求めてくれる相手に寄り添えたらな。

押し付けがましくなりたくないし、独りよがりにもならないようにしたいなあ。


#エッセイ #コラム #雑記 #わたしのこと


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