見出し画像

先入観×知識=不自由な枠

「かわいい、かわいい」と花の苗に言い続けていると、きれいに咲いてくれるらしい。

何で聞いたのかは忘れてしまったけれど、そんなことを聞いたことがある。

人も花と同じらしい。「かわいいねえ」と言われ続けた人は、かわいらしい人になる。「賢いねえ」と言われ続けた人は、より賢くなる、らしい。

こうした言葉がけの怖いところは、ネガティブな発言でも効いてしまうことだ。「バカだなあ」と言われ続けた人は、「バカなんだ」と思い込み、結果伸ばせた芽を伸ばしきれなくなる。バカになるわけではないけれど、賢くなれたチャンスを奪われてしまうのだろう。悲しいことだ。

思い込みは、思っているよりも強い鎖になる。わたしは、「バカじゃないと思っている」という褒めているのか貶しているのかわからない言葉と、「かわいげがない」と「マジメ」と「メンタルが弱い」を言われ続けて育った。

きっと、親はあまり深く考えて言ってはいない言葉ばかりだ。だけど、今でもわたしは自分のことを「かわいげがない」と思っているし、決してメンタルが強いとは自称できない。


「子どもには先入観がない」という話を、ベテラン保育士さんとしていた。障がいがあろうがなかろうが、子どもには関係ない。その子をそのまま知り、深く考えずに接する。

カテゴリー名(病名だとか)を知らないから、「こういう子だからこうしなきゃ」も、まだない。逆に、目の前の子に集中できるから、縛られない接し方ができる。

幼稚園年少頃なんて、男女の先入観もゼロに近いもんね。「男だもん」と息子が言い始めたのは年中組になってからだった。もちろん、個人差はあるけれど。


こうした「まるっと受け入れる」力は、成長とともにどうしても減っていく。「まるっと受け入れる」を意識するようになる。それは、知識を得たうえで適切な対応ができることにもなるけれど、同時に知識だけで判断してしまうリスクをはらんでもいる。


先入観は、自由を奪う。その形に当てはめなければならないと思わせてしまう可能性がある。

それは、ポジティブな内容だと思える言葉でも同じだ。「いい子だね」と言われ続けた子が、「いい子」から外れることに強く恐怖感を抱くことがあるように。「その子が」という言い方になると、その言葉は本人にとっての枠組みになってしまうのだろうと思う。ポジティブな言葉をかけるときも、ネガティブな言葉で人格否定をしないのと同様、具体的に伝える方がよいのかもしれないなあ。


できることなら、長い間先入観なしに物事を見聞きできる環境にいてほしいなあと思う。自分自身の感じ方を大切にできる時間は、その後の人生にも役立つものだと思うから。

件の保育士さんのお話は興味深いものばかりで、こんな保育士さんに恵まれた子どもと親はラッキーだなあと思う。

子どもを「子ども」で括らずに「ひと」としてまっすぐ見つめることを大切にされている方だった。……当たり前のことだと思うかもしれないけれど、縛られがちな大人には、「まるっと」は難しいことだと思うから。



お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。