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正しさが過熱した先

小学生の頃、“チクリマン”と揶揄されていた女の子がいた。

「いーややこーややー、せーんせーに言ってやろ〜」
「あー、そんなんしたらあかんねんでー」

ほかにも、先生に言いつけたり直接本人に言ったりする子はいたはずなのに、揶揄されたり陰口を叩かれたりする子は案外少なかった。彼女は物言いがキツくて成績の良さを自慢するようなところがあったから、男子たちに疎まれていたように思う。

わたしもなかなか正義感の強い子どもだったけれど、チクリマンと表立って言われたことはない。そもそも、先生に言いつけるタイプではなかったのだけれど。

ただ、この頃のことを思い返して思うのは、「正義って気持ちいいんだよな」ということだ。別に正義ぶっていたわけじゃなくて、わたしは白黒はっきり系だっただけだ。悪いことは許すまじ、といったタイプの子どもだった。

誰かが過ちを犯したとき、ここぞとばかりに石を投げまくるひとがいる。怖いなあ、と思う。

正義と悪は裏表だ。決して別物ではなくて、行き過ぎると正義も悪になるものだと思う。

「正しいもの」は強いから、扱いには気をつけなければならない。簡単に誰かを潰せるし、場合によっては自分自身のことも追い詰めれる。だって、ほとんどのひとに「正しくなかった」ときがあったはずでしょう?

平気で暴言に近い正しさを投げられるひとは、自らの過ちを忘れ去れるひとなのか、本当に清廉潔白なのか。後者はほとんどいないだろう。自分のことを棚にあげるのがうまいのかもしれない。

自分を守るために過去の過ちを棚にあげたくなることはあるから、わたしも大きな口は叩けない。ただ、だからこそ、過ちを犯したひとに斬りつけたり投げつけたりすることはできない。

「ありえない」なんてありえない。

マンガ「鋼の錬金術師」に出てくるセリフだ。作中に出てくる意味とは異なるけれど、ありえないなんてことはありえない、とわたしも思う。

絶対に目の前のひとが犯した過ちを自分が犯さないなんて、言えない。今のわたしが「ありえない」と思っていても、未来のわたしにとっては「ありえる」ことかもしれない。ひとは変わる。いい方にも、悪い方にも。自分では変わりたくない方向に変わってしまうことだってある。自分の意思が介在しない変化だって、きっとあるのだろう。

悪に転落してしまうキャラクターの多くは、自ら好き好んで悪に進んだわけではない。止むを得ず、であるとか、いつの間にか、であるとか、行き着いた先が崖っぷちだったがためにひっくり返ってしまったなんてケースが多いように思う。

行きすぎた正しさは、時に過ちだから。

正しさで憂さ晴らしをするかのような雰囲気が苦手だ。正しさからはみ出たひとを叩きのめす様は、とても怖い。暴走する正しさは、凶器と変わらない。

正しいことは、悪いことと同じくらいに、きっと快感だ。きっぱり、はっきり、わかりやすいものは気持ちがいいから。ただ、酔いしれるための正しさは、正しいものではないだろう。

わたしは揺らぐグラデーションだ。完璧になれたらいいけれど、完璧になんてなれないから。

恍惚とする気持ちよさは、目の前しか見せない。結果、視野や価値観が狭く小さくなっていってしまう。正しさにも過ちにも依存せず
、視野を広くもっていたい。熱狂する正義のひとたちを見ながら、わたしは気持ちを冷めさせていく。

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