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【小説】線香花火は消えない

「……あ」
「何?」
「ううん、何でもない」

 ふうん? と小首を傾げて、水穂は歩みを再開させた。わたしの半歩先を、つま先をちょっぴり蹴り上げるようにして歩く水穂の背には、以前のように左右に揺れる髪がなくて、まだ見慣れない。

「髪切ったんだ」

 待ち合わせた駅前で、水穂は耳の上の髪を軽くかきあげながら笑った。理由は尋ねなかったのに、水穂は勝手に「別れたんだよね」と言った。

「今どき、別れたから髪切る人っているの?」
「いるよ。ここに」
 そうして、「似合うと思わない?」と唇を引っ張るようにして笑った。そうしていると、まるで子ども時代に戻ったように思えた。

 水穂が別れたのは彼氏じゃなくて、夫だった。いつのまにか既婚者になって、知らぬ間にバツイチになっていたことに、わたしは驚く素振りをして見せた。実際のところ、急にどこか別の国の人をパートナーとして連れて来たとしても、性別が突然変わったとしても、水穂なら驚かない気がする。

 それよりも、トレードマークだったはずのポニーテールを切り落としたことの方に驚いた。それほどまでに大切な夫だったのか、はたまた壮絶な別れだったのか。

「子どもができてね。彼はいらないって言うから、別れた」
 チェーン店の焼き鳥屋で、食べ終えた串を気だるそうに串入れに突っ込みながら、水穂は言った。

「え、ちょっと、なんでじゃあ居酒屋チョイスしたの」
「焼き鳥食べたかったから。飲んでないし、飲まないから気にしないでいいよ。ほら、何気に分煙だし、ここ」

 手に取ったネギ間の串をひらひら上下させる。

「産むんだ」
「うん」
「で、別れたんだ」
「だね」

 目の前がくらっとしたから、ジョッキをつかんでハイボールを勢いよく飲んだ。のどを通ったはずの冷たい液体は、どこか遠くへ吸い込まれて消えていく。

「水穂がママとか」
「ねえ?似合わなさすぎる」

 まあ、欲しいわけでも欲しくないわけでもなかったからさ、と水穂は続けた。
 素面のはずなのに、とろりとした目をしている。組んだ手の上にあごをのせて、水穂は笑う。表情が妙に色っぽくて、曖昧に視線を外した。わたしには、きっとあんな表情はできない。

 焼き鳥屋を出たあと、ふたりでふらふらと歩いた。わたしは水穂の半歩あとを歩く。揺れるトレードマークは、今はない。線路沿いの道から住宅地に入ったところで、ふわりと蚊取り線香の匂いがした。

「……あ」

 思わず小さな声を出すと、水穂が足を止め、「何?」と振り返る。

「ううん、なんでもない」
「ふうん?」

 水穂は再び歩き出す。おなかの膨らみは、まだまったくわからない。トップスはふんわりしているけれど、下はスキニーだ。見た目からは、妊婦だとは全然わからなかった。

 蚊取り線香の匂いが消えない。わたしは、この匂いが好きで、嫌いだ。

「なら、また近々会おうよ」

 前回もそう言って別れて再会までに数年が経過したのに、水穂はひらひら手を振って帰っていった。そういえば、今どこに住んでいるのかも聞かなかったな。

 水穂と過ごす時間は、いつも底なしの容器に水を注いでいるみたいだ。何も溜まらず、残らない。溜まらないから淀むこともなくて、目に見えるものもない。それでも、つかず離れず、こうして付き合い続けている。連絡を寄こすのはいつだって水穂だ。次の再会が近いのか遠いのかはわからないけれど、きっと切れる日はこないのだろう。

 あっけらかんと子どもを産むことを告げた水穂が、羨ましかった。いつだって、水穂はわたしがほしいものを手に入れていくんだ。ねえ、あなたもそうだったよね。

 蚊取り線香の匂いがする。パチパチと、花火が爆ぜる音もする。花火に照らされたあなたの頰の色を、わたしは今もはっきりと思い浮かべられてしまう。

 首筋を夜風が撫でていく感触が生ぬるくて、思わず手をやった。

 あなたと先に出会ったのは、わたしだった。大学の英語クラスが同じで、学部も同じだったから、たまたま話すようになったんだ。

 あなたは見た目が良かったわけではなかったけれど、きっと一目惚れだったのだと思う。笑うとき、くしゃっと目尻にしわが寄るところが大好きだった。

 小さく爆ぜだした胸の火は、わたしの中で勝手に大きくなっていった。あなたは何もしない。何かがあったわけでもない。それでも、一度火をつけられた花火は、どんどん光を強く大きくさせていく。わたしはあなたに恋をしていた。

 英語クラスは仲が良くて、夏休み前の花火大会にみんなで行こうという話になった。わたしはすっかり浮き立って、柄にもない浴衣をほかの女子たちと買いに出かけた。藤色に朝顔が描かれた浴衣は、「似合うよー!」という友達の言葉が素直に受け入れられるくらいには似合っていたと思う。

 花火大会の当日、「終わったあとに花火やろう」と男子たちが花火を持ってきた。「ドンキで買ってきた」「どこでやるの」「俺ん家の近くの公園でやれるよ」どの声も熱を帯びていて、自然とわたしも声が大きくなっていた気がする。掛け合いのように盛り上がる会話のスピードにも、難なく合わせることができた。

 花火大会が終わったあと、公園に立ち寄る前に寄ったコンビニに、Tシャツにジーンズ姿の水穂がいた。

「あれ」
 みんながきょとんとする。誰かが何かを言う前に、「あ、水穂」と声をかけた。
「珍しい、はずみ。浴衣着たんだ」
 水穂はポニーテールを揺らしながら、コンビニのアイスケースの蓋をガコンと閉めた。「くじでね、ガリガリ君が当たったんだ」
 左手に提げたビニール袋を軽く持ち上げて、「ラッキー」と唇を引っ張るようにして笑う。
「もう帰るの?」
「ううん、今から花火やりに行く」
「えー、いいな。わたしもやりたい」
「え」
 水穂の言葉に思わずみんなを振り返ると、女子のひとりが、「いいんじゃない?」と頷いた。お酒が入っているからか、「いーんじゃない」と声が続く。
「飛び入りさせてもらえるなら、アイス奢るー」
 水穂は頭をゆらゆらさせながら、アイスケースを再び開いた。
「何がいいですか? ハーゲンダッツ?」
「マジでいいの? 太っ腹!」
 ぼんやり立ったままのわたしを置いてきぼりにして、水穂は大量のハーゲンダッツ(ミニカップだけれど)をカゴに突っ込み、会計を済ませた。

 今思っても、なぜ花火大会の日、あのコンビニに水穂がいたのかわからない。

 男子が買ってきた花火は、安物だからか妙に線香花火が多くて、大半の時間を線香花火に費やすことになった。

 線香花火は静かだ。火を灯すうちに、自然とわたしたちのテンションも落ち着きを取り戻していった。むしろ、湿っぽい雰囲気にまで落ち着いてしまっていた気もする。自然と声は小さくなり、膝を抱えるようにして線香花火をし続けた。

「燃え尽きるまで落とさなかったら、願いが叶うんだよね」

 誰かがそう言って、「願い事はどうでもいいけど、最後まで落とさない勝負をしよう」という流れになった。わたしは、一度も最後まで保たせられなかった。何度も最後まで落とさなかった水穂は、初対面のメンバーばかりのグループにもすっかりなじんでしまっていた。

 いつだって、わたしの線香花火は先に落ちてしまうんだ。願い事だって、いつも叶えられない。

「蚊がいるから」と焚かれた蚊取り線香の煙が、風の吹かない公園に漂う。あなたはわたしの目の前で線香花火を持って、笑わそうと茶々を入れる友達に楽しげに文句を言っていた。

 そんなささやかなことを今でもこんなにはっきり思い出せることが、悲しくて、うれしい。

 あなたと水穂が付き合い始めたのを知ったのは、夏休みが終わってからだった。ああ、そうか、と諦めにも似た気持ちになったのは、たぶん水穂もあなたを知れば好きになるだろうと、どこかで思っていたからなんだろう。わたしたちは似ていないけれど、似ていたから。

 いつだって、手に入れるのは水穂だった。わたしが渇望するものを、いつも水穂は軽やかに掴んでいく。

 それなのに、懲りないわたしは、やっぱりあなたのことが好きだった。刷り込みみたいだ。恋が生まれたとき、目の前にあなたがいた。ただ、それだけのこと。きっかけなんてその程度のもので、だからきっと、わたしはあなたのことを好きだと言っていいのか、本当はよくわからなかった。だけど、それでも、ほかの人ではダメだったんだ。……バカみたい。

 あなたが水穂といるときにどんな表情を浮かべて、どんな風に笑って、どんなことを話していたのか、わたしは知らない。別れたのがいつだったのかも、なんで別れたのかも、知らない。水穂と付き合い始めたことを知ってから、わたしはあなたから遠ざかったから。あなたは、わたしの目の前で光っていた花火から、打ち上げ花火になってしまった。

「同じ顔立ちなのに、全然違うね」

 水穂が彼女だった頃にあなたが言ったひとことが、今も耳の奥に残っている。そうだよ。違うんだよ。わたしが持たないものを、全部水穂は持っているの。

 あれから、もう10年近くが経つ。確実に胸の中の火は小さくなっているけれど、まだ消えない。手を揺らせばきっと火の玉を落とせるのに、わたしはじっと佇んだままだ。

 姉がそんなことをしている間に、水穂は何度も出会い別れ、結婚し離婚して、今度は子どもを産むらしい。なんてバカらしくて、なんてまばゆいんだろう。

 首筋に触れる。わたしたち双子の唯一違った見た目が、髪型だった。なんで、今になって水穂は髪を切ったんだろう。あのとき、わたしがポニーテールだったなら、あなたはわたしを好きになってくれたのかな。

 胸の奥の線香花火は、今も消えない。


(了)

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