見出し画像

新年、厄祓い、友人のこと

年末、「年明けに厄祓いに行こうや」と友人に誘われた。数え年で33歳。女性の本厄なのだと聞かされる。

昨年が前厄だったことも把握していなかった体たらくなのだけれど、「行く行く」と返事をする。厄祓いは父のときに家族で行った以来だ。

厄年を信じているわけではないのだけれど、父のときに聞いた「何かあったときに“行っていたら”と思わずに済むため」の言葉が記憶に刻み込まれていた。

父も「後悔するよりまし」と周囲に言われて厄祓いに行った。厄祓いに行かなかった父の同僚が、本厄の年に両親を立て続けに亡くしたという話が堪えたと言っていたのを覚えている。彼に起こった不幸は偶然なのだろうけれど、頑なに厄祓いを拒む必要もない。行くことでわたしが失うのはお布施の5000円だけなのだから。

厄祓いよりも、20年来の友人ふたりと子なしで出かけられることの方に気持ちが華やいでいた。「厄祓い後に温泉でも行こや」「うち車出すわ」「おー、助かるー」3人のグループラインが盛り上がる。


1月3日。標高の高いところにある寺に流れる空気は、実家付近よりも冷たい。ただの冬の朝の空気なのに、新年特有の澄んだ空気に思えるのだから不思議なものだ。

本堂までの階段をのぼりながら、「寒い」「やばい」とはしゃぐ。いい大人なのに、小学生時代から変わらない。ゆるゆるといい距離感で付き合い続けられる彼女たちを、本当にありがたい存在だといつも思う。

厄祓いをする本堂は想像以上に寒くて、「最中は上着脱がなあかんのちゃうん」と話していた言葉はなかったことにされた。ほかの人たちも上着を着たままだったから、非常識ではなかったのだと思う。

見よう見まねで合掌をして厄を祓われ、お参りを済ませておみくじを引く。誘ってくれた彼女は大吉で、もうひとりは凶。わたしは小吉。可もなく不可もない中途半端さが、個性の強いふたりのなかにいるわたしを表しているようにも思えた。彼女たちが何と言うかはわからないけれど、3人のなかでは、わたしが一番小さくまとまっていると思っている。地味というか、無難というか、ただの真面目というか。


年々、過ぎ去る時間のスピードが早まっていく。「まだ夏になったばっかや。暑さの本番はこれからや……と思ってたら、気付けば9月になってんねん」の言葉に、「いや、マジで。うちもやわ」と同意を得る。

「最近めっちゃ体力落ちた気ぃするんよな」「昔の写真見てたら、頬の位置が下がっててショックやった」

出会った9歳、10歳の頃と何も変わらないようでいて、確実に変化も訪れている。あの頃イメージしていた大人には程遠いけれど、それでもわたしたちはいつの間にか子どもではなくなってしまったのだなあ。

いろいろなものが変わりゆくなかで、変わることなく友人関係を継続できるのは、実は恵まれていることなのだと思う1年だった。糸がほつれてばらけてしまうように、いつしか関係が途絶えてしまった友達も少なくないし、何らかしらの原因で意図的に疎遠にされてしまったのだろうなと感じている友達もいる。

特に女性は結婚や出産によって受ける影響が男性よりも大きいのかもしれない。夫や子どもに対する優先度が高いのだろうなという子は、自然と独身時代の友人との付き合いが減っていったから。自分の状況によって付き合い方や付き合う人が変わることは悪いことではない。わたしだって多少なりとも変わっているのだ。けれども、何となく付き合いが消えていってしまうのは、やっぱりどこか寂しい。

彼女たちとの付き合いが続いているのは、互いの立場を理解しようとしていたり、尊敬したりしているからのように思う。働き方も家族状況もバラバラだけれど、違いを尊重しつつ付き合いを続けようという意思が(おそらくそれぞれに)ある。自分の物差しに相手を当てはめてジャッジしないから、相手の人生の否定にもつながらない。素敵な人たちだと思う。


厄祓い帰りに立ち寄ったスーパー銭湯の露天風呂に浸かりながら、「また風呂行こー」と言い合う。今年で出会って23年。彼女たちにとって、厄が降りかからない1年であったらいい。来年、厄祓いのお札を返しに行くのを忘れないようにしようね。

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。