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06:『うしおととら』を最後まで…。(花咲ガニの章)

 ——花咲ガニが食べたいなぁ。
 都内にある百貨店の北海道産直市会場で、いとこの声が聞こえたような気がした。
 香奈(かな)は、お目当ての「ロイズ」のチョコがかかったポテトチップスは後回しにして、根室のブースを探した。
 母方の故郷・北海道。北海道ハーフとしては、この産直市は見逃せない。それに一度、勤務先に「ロイズ」のポテトチップスを持っていったら後輩の女子達がものの見事にハマってくれた。何かあるごとに「ロイズ」「ロイズ」とリクエストしてくる。「通販でも買えるよ」と教えると「自宅用だけ」ネット注文しているらしい。20代、30代女子にはチョコレートの甘さとポテチの塩味が絶妙のコンビネーションなのだろう。40代の香奈にだってかなりのツボだった。
 いや……でも、ロイズは今日はおいとこうかな。
 花咲ガニが無性に香奈を呼んでいるような気が……呼んでいるのは、いとこの弥生かもしれない……。
 花咲ガニは、根室ブースの一角で、タラバガニの隣にちょこんと並んでいた。ヒモで縛られてはいるが、タラバガニよりも脚が短いのが見てとれる。トゲはタラバよりも長くて鋭そうだ。
 花咲ガニは北海道名産のカニだ。その名の由来は、根室市の「花咲漁港に水揚げされるから」と、「甲の突起が花を咲かせているように見えるから」という二つの説を聞いたことがある。埼玉出身でも母方の親戚が北海道にたくさんいる。それぐらいは香奈も知っていた。
「花咲ガニ、おいしいですよ。いかがですか」
 根室ブースの売り子の中年女性が慣れない感じで遠慮がちに勧めてくれる。それがまた、香奈の心をグッと捉えた。もう、手ぶらじゃ帰れない雰囲気だ。
「……身体に良さそうですよね」
 香奈は何か話そうと口を開いたが、とんちんかんなことを言っている自分に気づいた。赤面しつつ、ドギマギした。
「カルシウムが豊富ですよ。骨が丈夫になるだけじゃなくて、イライラを抑えてくれます」
「えっ、そうなんですか」
 目から鱗の情報だ。身体に悪いわけはないが、カニにそんな栄養があるなんて、今まで考えながら食べたことがなかった。
 その時!
「おまけに、ビタミンEも豊富だから高血圧や動脈硬化とかガンも予防する作用があるんだぜぇ〜」
 脇から口を挟んできた中年男性がいた。恰幅がよいが、中年太りとは違うような骨からガッチリした柔道体型だ。肌は黒光りしていた。
 馴れ馴れしい口調で会話に割り込んできたわりに不快な印象は受けなかった。人懐っこい笑顔のせいだろう。
「身だけじゃなくて、ミソにも栄養がたっぷりだ。それにさぁ、殻でダシ取ると旨味成分もたくさん出るし。カニに捨てるとこ無しってワケだぁ!」
 楽しそうに笑うその中年男性につられて、売り子の中年女性も笑っている。
「ガンの予防に……」
 香奈は、笑顔で対応しながらも、ぼんやりと想像した。
 ——花咲ガニ、もっと……いっぱい食べときゃよかったよ。
 いとこの弥生(やよい)ねえちゃんが知ってたら、きっとそんなことを言いそうだ。

    * * * *

 遡ること10年ほど前、香奈のいとこである弥生は、都内のキャンサーセンター病院に入院していた。
 キャンサー……つまり、日本語でいうと「ガン」である。その病院の入院患者は「がん告知」を受けているということになるのだ。
 弥生は大腸ガンだったようだ。当時、彼女は30代後半。ガンを発症して、すでに大きな手術も受けた。香奈が母から聞いて知った時は手術後で、根掘り葉掘り聞くのも躊躇われたため、病症の詳細は分からなかった。
 香奈より10歳以上年上で、姐御肌の弥生は性格も豪快だった。香奈は「弥生ねえちゃん」と呼んでいた。
 加奈は病室入口のネームプレートの中から「風間(かざま)」という苗字を見つけるとおずおずとドアを開けた。
 病室に入るなり、「おー、香奈ちゃん、こっちこっち!」と明るく手招きしてくれた。
 暗く静かな病室だろうと心の準備をしていた香奈はちょっとホッとした。6人部屋は窓からの明るい陽射しも入る。他の入院患者も仕切りのカーテンを開け放って、読書したりおしゃべりしたりしている。
 多分、弥生の雰囲気づくりの効果なんだろうと香奈は察知した。
「香奈ちゃん、久しぶりだねー。うちに遊びに来てから何年経つ? うちのダンナも遊びに来ないのかなって言ってたんだよ」
 弥生は、中学校で教師をしている夫と2人暮らし。子供はいなかった。
 久しぶりに会う従姉妹の様子に香奈は動揺していた。明るく元気に振る舞ってくれるのだが、明らかに弥生の体型が変わっていたからだ。
 以前はふっくらし、豪快な性格らしく、堂々たる恰幅の良さだった。
 勤務先では女ながらに仕切りまくり、みんなに慕われ、「海山商社の女帝」「人の好いイメルダ」とあだ名されていた弥生が、スラッとスマートになっていた。
 いや、やはりやつれていたのかもしれない。香奈はあまり弥生の顔をじっと見られなかった。まるで初対面のような気がした。
「弥生ねえちゃん……体調は……大丈夫だよね。手術したし……入院してたら……治……るんだ……よね?」
「ううん、死ぬよ!」
 明るくハッキリと微笑みながら答える弥生に、香奈はウッと言葉を失った。
「香奈ちゃん、アタシね……もうすぐ死ぬんだよ!」
 香奈は何と答えてよいか全く分からず、ただただ涙を堪えるので精一杯だった。
「それよりさー、その紙袋……お土産なんでしょ。 何? 何?」
 香奈が持ってきた紙袋を指さし、弥生はいたずらっ子の様な表情をする。
「あ……弥生ねえちゃん、マンガ好きだったよね。少年マンガって好みかどうか分からなかったけど、これ面白いから……今、出てる31巻全部持ってきたよ」
 当時、まだ「週刊少年サンデー」で連載中だった人気マンガ『うしおととら』のコミックス……発売されている分だけ……つまり、香奈が自分の本棚から全部持ってきたのだ。
 持っていく時にやはり相当悩んだ。内容的に「入院している人に合わないのではないか」「読んで傷つかないか」「死について考えるのではないか」……。
 だが、マンガ『うしおととら』は少年・蒼月潮(あおつきうしお)と妖怪とらの友情の物語だ。ともに邪悪な妖怪と戦う、勇気が湧いてくる話だ。展開もドキドキハラハラだけじゃなくて、コミカルな間(ま)も楽しい。香奈は思い切って、紙袋に31冊を詰めたのだった。
 マンガは連載中だったために完結はしていなかった。だが、それも香奈の意図するところだった。
(「マンガの続きが読みたい」と、先の楽しみを持ってほしい……)
「さすが、持つべきものはいとこだね〜!」
「へ?」
 『うしおととら』の一冊を手に取り、すでに読み始めていた弥生は、慎重な面持ちの香奈とは裏腹に、嬉しそうに声を上げた。
「これよ、これ! 私が読みたかったのはこういうマンガなんだよ!」
「ホント? 少年マンガって好き?」
「大好きだよ! やっぱり血筋だよね〜。私の好みを分かってるじゃないの。うちのダンナなんか全然分かってないのよ。辛気くさい闘病記なんて買ってくるんだもん。読まないよ、そんなの。やっぱマンガだよ。断然、面白いマンガ!」
 香奈はホッとした。
「じゃあ、続きが出たらまた買ってくるね」
「もちろん! これからじっくり読むからね〜。うわぁ、楽しみだよ。ありがと、香奈ちゃん」
 少し肩の力が抜けた香奈は、弥生に病院内の食堂に誘われた。
 閑散とした食堂のど真ん中のテーブルに向かい合わせ。弥生はテーブルに突っ伏すようにしている。彼女にいつも寄り添っている点滴スタンドが否応なしに目に入った。
 弥生は自分が何か食べたいわけではなかった。いや、食べたいのだが食べるわけにはいかない。食事制限がある。
「香奈ちゃん、何食べたい? 食券で買ってくればいいよ」
「お……おねえちゃん……は?」
「アタシは食べられないから、いいよ」
「え……でも……」
「いいの、いいの。アタシは食べられないから、ひとが食べてるところが見たいの。アタシの目の前で食べて!」
「…………」
 香奈も食べたくはなかったが、仕方なくランチの定食を頼んだ。
 定食の皿には鮭の切り身とポテトサラダ。そして、俵型のコロッケが乗っていた。申し訳程度にカニの風味がするカニクリームコロッケだった。
 それを見て、弥生がつぶやいた。
「花咲ガニが食べたいなぁ〜」
「根室にいた頃はたくさん食べてたの?」
「あんまり身近すぎてありがたみなかったね。でも、上京してから食べる機会もなくなると無性に食べたくなるのが人間じゃん」
「そうだね……」
「どんな味だったかな、花咲ガニ。むき身でも旨いけど、焼いても、天ぷらにしてもおいいし……甲羅揚げもあったな。あーっ、鉄砲汁にして食べたいっ! それから! シューマイにしたのが最高に旨いのよっ!」
「シューマイに入れるの? カニ・シューマイはよくあるけど……」
「そんじょそこらのカニ・シューマイと一緒にしてくれるな、香奈ちゃんよ〜。花咲ガニのシューマイは極上の旨さなんだよ!」
 弥生の語るところによると、花咲ガニのシューマイはこうだ。
 具の中身は、カニのむき身と卵、シイタケや長ネギ、鶏卵をホイップして、これらをたっぷりの北海道バターで炒めたもの。つなぎは、マダラのすり身と牛乳で作る。つなぎを加えたら皮で包んで蒸す。
 香奈は聞いているだけで、花咲ガニの良い香りを感じた。濃厚で鼻から舌に染み渡るような芳醇な香り。聞いてるだけでウットリする。
 途端に目の前の「カニ風味付け」コロッケはつまらないものに感じた。
「あ〜、すっかり忘れてたなぁ。あのコクのあるカニ・シューマイ!」
 香奈は「治ったら一緒に食べようよ」という言葉は飲み込んだ。言ってはいけない励ましの言葉のような気がした。もう、どうしていいか……何を言ったらいいのか皆目見当もつかない。
 弥生はテーブルに突っ伏すような体勢から顔だけ上げて、微笑んでいた。

 次に弥生の病室を訪ねた時、彼女はベッドに横たわっていた。
「おー、香奈ちゃん! 待ってたぞー!」
 言葉遣いは元気な時の「海山商社の女帝」のままだったが、弥生の見た目はもうげっそりとやつれていた。それでも明るさを振り絞っている姿に香奈は胸が締め付けられた。
「弥生ねえちゃん! 『うしおととら』の32巻出たよ〜! ほら!」
 わざと元気よく声をかけた。コミックスの新刊を取り出すと、少し上体を起こし、腕を伸ばしてきた弥生。
「待ってましたぁ〜。もう何回も1巻から読み直してたんだよ。早く次が読みたいよぉ!」
「まだ、次も出るからね。うかうかしてらんないよ!」
「じゃあ、次の指令じゃ! 続きをまた買ってくること!」
「ラジャー!」

 ——弥生は、『うしおととら』33巻を読むことはなかった。

 くしくも33巻は最終巻だった。弥生は最後の1巻だけ読まずに……逝ってしまった。
 香奈は母親からの電話で、弥生の旅立ちを知った。一人暮らしの部屋で一日中泣いていた。
 葬式に行かなければ……でも、行きたくない。
 葬式に出たら弥生ねえちゃんが死んだことが事実だと分かる。今なら人伝えにすぎない。ハッキリと彼女の死を見たわけではない。葬式に行ったら弥生ねえちゃんが死んだことを認めてしまうことになる。
 そうだ! 弥生ねえちゃんはまだ生きているんだ。
 会ってないだけで、遠くで生きているんだ。
 そして、『うしおととら』の最終回を知らないんだ。
 ずっと待ってくれているんだ。
 香奈は涙をぬぐって、顔を上げた。
 弥生の葬儀には行かないと決めた。
 頭のどこか片隅で「不義理なこと」「馬鹿な自分」と分かっていながらも……香奈の中では、弥生はまだ生きていることになった。

    * * * *

「試食してみませんか?」
 ハッとして、香奈は顔を上げた。
 北海道産直市で、根室ブースの中年女性は大きな鍋の蓋を開けてみせた。
「おっ、鉄砲汁! オレもオレも!」
 鍋の中身を覗いた途端に先ほどの人懐っこい中年男性が歓声を上げた。
 香奈はぼんやりと、鉄砲汁を発泡スチロールの椀によそってくれる手元を見ながらつぶやいた。
「あの……カニ・シューマイってありますか。つなぎにマダラと牛乳が入ってて……」
「あーっ! 知ってる知ってる! 『花えん亭』の花咲ガニ・シューマイだろ? オレ、自分の本にも書いたことあるなぁ。あれ、本当に旨いよな〜。鼻孔のくすぐり加減がたまらん!」
「あら、お客さんは作家さんなんですか?」
 中年男性はごそごそと名刺を出して、香奈と売り子の中年女性に手早く渡してくれた。『魚食コラムニスト 海野月生(うんのつきお)』と書いてある。
「まぁ、すごい」
「いやあ、道楽に毛が生えた程度の与太商売だ。日本全国を旅して、旨い魚介類を食べ歩いてるよ。世間に申し訳ないぐらい最高の幸せもんだな。昨日は青森に行ってきたよ。で、今日も旨いもの食べにココに来た!」
 そう言うと海野は高らかに笑った。
 香奈は差し出された鉄砲汁をひと口……思わず声をもらした。
「おいしーい!」
 花咲ガニのこれでもかという程のコク。身体に染み渡る旨味成分。海野の言う鼻孔のくすぐりも感じた。身の歯ごたえに、口の中で歯も舌も喜んでいる。何度も反芻していたい。
(この産直市の期間中にお母さんを連れてまた来よう。お父さんが一日中家にいるようになってストレス溜まってるだろうからなぁ)
 鉄砲汁を一生懸命味わっている香奈の様子を見て、海野がいたずらっ子のような表情でつぶやいた。
「花咲ガニもタラバガニもカニじゃないって知ってる?」
「えっ! ウソぉ〜! だって、カニって呼んでるのに……」
「ほら、毛ガニを見てごらんよ。ハサミを入れて全部で脚が10本。これがカニ」
 海野は花咲ガニの隣に縛られている毛ガニを指差した。首をかしげながら香奈は脚の数を数えた。
「ねっ。次に花咲ガニを見てごらん。脚は左右合わせて8本だろう?」
「ホントだっ!」
 海野は素直に驚く香奈に、嬉しそうに笑った。
「実はね、脚が全部で8本しかない花咲ガニもタラバガニも『ヤドカリ』の仲間なんだよ。カニって呼んでるけど……どう? 驚いた?」
「ビックリですよ! 知らなかったぁ!」
(弥生ねえちゃんは知ってたかな。知ってるよね。だって、根室出身だもんね……) 
「でも、カニと同じぐらい旨いでしょ!」
 そう言うと海野は試食の鉄砲汁をおかわりしている。売り子の中年女性も仕方なさそうに笑いながら応じている。
 香奈もそれに乗じて、黙って空っぽになった椀をグイッと差し出した。
 香奈と海野と売り子の中年女性は3人で顔を見合わせて大笑いした。

 2杯目の鉄砲汁を味わいながら、香奈は想像していた。
 雲の上で、弥生が蒼月潮に「花咲ガニが食べたい。調達してこい!」と言ってるところを……。
 妖怪とらに「最終回、あんたらはどうなったんだ!」と詰め寄っている弥生の姿を……。
 うしおととら……2人を困らせて、豪快に笑う海山商社の女帝を……。
 香奈はちょっと微笑んだ。
 弥生ねえちゃんは弥生ねえちゃんだ。
 どこにいても、もう二度と会えなくても弥生ねえちゃんだ。
 ずいぶんと年月が経って、ようやく言えるかもしれない。

 ——さよなら、弥生ねえちゃん。

(花咲ガニの章 ◆ 終)
表紙イラスト:布施月子(日本画アーティスト)


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