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映画『天安門、恋人たち』二重の「青春残酷物語」/晏 妮(日本映画大学特任教授)

5/31(金)公開。映画『天安門、恋人たち』について、映画研究者 晏 妮先生より寄稿をいただきました。

二重の「青春残酷物語」

 原題の『頤和園』は、人工の湖と山を有する歴代皇帝の離宮であり、現在市民に開放されている公園だ。そもそも本作に登場する「北清大学」とは、名門である北京大学と清華大学の名称をミックスした架空の大学だが、両校とも「頤和園」の近くに位置していることで、北大生と清華大生にとってこの公園はデートに使う恰好な場所なのだ。本作が日本公開時に、おそらく映画の背景となる1989年の天安門事件を意識して邦題『天安門、恋人たち』をつけたと思われるが、原題は作者が青春に捧げるオマージュの時代風景として付けたものではないかと思う。
 
 ロウ・イエは現代中国の青春映画の名手であり、メロドラマの作劇法をふまえる一方、煽情とは一線を画すスタイリッシュなカメラワークで主要人物だけに感情を移入させないように物語を仕上げている。例えば、『二人のベロニカ』にインスピレーションを受けたと言う前作『ふたりの人魚』は、上海の蘇州河をバックに、顔を出さない「俺」を完全にカメラの視線に仕立て、二組のカップルの哀しい恋愛をファンタスティックに描いてみせた。戦争期に敵対関係に立たされた日中の男女と彼らに巻き込まれたもう一組のカップルの破滅に肉薄したのが、次作の『パープル・バタフライ』である。その後、検閲通過の見込みが極めて薄いにもかかわらず、彼は『天安門、恋人たち』の撮影に踏み切った。在学時の同期生、メイ・フェン(梅峰)を初めて脚本に起用したのが、『天安門、恋人たち』を成功に導いた要因の一つでもあろう。
 
 かつて北京電影学院在学時に、ロウ・イエはアントニオーニに心酔し、卒業論文のテーマもアントニオーニを選んだ。卒業後、故郷を撮ることから出発した同期のジャ・ジャンクーとは異なり、ロウ・イエはひたすら都会の青春に拘っていた。おそらく彼らが過ごした大学生時代の記憶の一部を下敷きにした本作では、主人公のカップルはもちろん、彼らの周りにいる若者の群像も個性豊かに生き生きと描かれている。ここで特筆に値するのは、青春群像に溶け込んでいる主人公の日常をリアルに映すために、学生寮が頻繁に登場していることだ。運動場や教室などに比べて、寮こそは大学生たちが食べたり、はしゃいだり、排泄したり、さらにセックスしたりして、自由に生きられる特殊な空間となる。
 この狭くて雑然とした学生寮を個人の自由を謳歌する前半の主要な映画空間にして、ロウ・イエのカメラは狭窄な廊下や散らかっている室内を縦横に行き交う。その多くの場面に観客の目が釘付けになるに違いない。空間を物語の強度を増幅する要素として最大限に活用する、ロウ・イエにしかできない演出が前半では際立っている。
 
 ユー・ホンに退学の決心をさせた直接の理由はチョウ・ウェイとの別れにあるのだが、天安門事件がもたらした自由な空間喪失もその一因だろう。というのも、天安門事件後の北京で起きた政局の急変によって、ユーのみならず、その他の主要人物もことごとく無邪気な青春に別れを告げ、やがて北京を離れて四方八方に逃げたからだ。
 
 作品の後半では、ロウ・イエは古典メロドラマの定番になる「すれ違い」を、青春に決別した主人公たちが場所を移動し続ける中で巧みに生かしている。故郷の図們から深圳、武漢、重慶へと移動するユーは、故郷の恋人、既婚者の男、そして自分に好意を示した貧しい受付係の青年と肉体関係を持つことでチョウを想う悲しみを癒す。ユーのこうしたストーリーは、ドイツに行ったチョウがリーと付き合うシーンと、時には断片的だが、ほぼ平行モンタージュによって示されている。大学近くのバーで恋に落ちた二人の視線コンタクトをカットバックで反復される前半にうまく繋げている。だが、リーはチョウの帰国を聞いて自殺してしまう。これは天安門事件後の初めての死の描写となる。それまで三人の複雑な関係性を表すシーンは二回もある。一回目はユー、リーとチョウの三人が事件後一緒に大学に帰る道中であり、リー、ローグとチョウの三人がベルリンの町をデモ隊とともに歩くのが、二回目だ。男一人と女二人、また女一人と男二人というふうに。
 だが、二つの場面では、同性同士の間にある「絆」というべきものが強く出されている反面、同性への心理描写が極めて抑制的に見える。究極的な異性愛を描写しようとせず、同性愛と異性愛が入り混じった様相に迫る、その後のロウ・イエの一連の作品を予言したかのような場面と思われる。これはむしろ現在にも通じるジェンダー概念を表したロウ・イエ自身の世界観だと私は思う。
 
 恋人が長い離別を経て最後に再会するのは、いわばメロドラマの常套ではあるが、アントニオーニのように、ロウ・イエの映像世界でも「不毛の愛」しか存在せず、ハッピーエンドなんて決してないのだ。『ラブ・ソング』のような結末を彼は意識的に拒絶しているようだ。荒涼たる北戴(ほくたい)河(が)に無言で背中合わせに佇む二人、ホテルで抱き合ったものの、もはやかつての激情が湧きおこらず、青春時代の身体感覚がとっくに時間の流れに奪われてしまったことを二人とも悟る。『第三の男』を彷彿させるラストシーンに至っては、殺風景な京秦高速でのあっけない離別は、シルエットが映し出された、夕方の頤和園でのデートシーンとは対照的で、見る者の胸に刺さる。ロウ・イエとメイ・フェンがきちんと計算したラスト効果だということは言うまでもない。

 上述のように、恋愛メロドラマのジャンル的要素を骨組にした『天安門、恋人たち』だが、長いタイムスパン、空間移動、誰もが知っている1989年前後の世界変動に支えられているので、『存在の耐えられない軽さ』を想起して、一篇の純愛叙事詩として読み取る観客もいるだろう。いずれにしても、当時流行っていた多彩な音楽をふんだんに挿入し、終始ユーによって第一人称の日記を語らせ、また風景を見事にストーリーに参与させるなど、『天安門、恋人たち』はロウ・イエの研ぎ澄まされた映像感覚が全編に充ち溢れている傑作だと言える。

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