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自分を大事にすることと、甘やかすことの違い。

自分を大事にしていない。
甘やかしてはいるけれど、それは結局大事にしていることとイコールではない。

胃が弱い。
だけれど何故だか「食べなければならない」という強迫観念のようなものと、ストレスから過食に走る傾向のせいで、夕飯にポテトチップスひと服と開けてしまって次の日は朝から全く胃袋が動いていない状態をよく作る。

自分を傷つけている時、だいたい楽しいのだよね。これは遠回しに見えて結構直接的な自傷行為だ。
目に見えない内臓を攻めてるあたりが自分の卑屈さを象徴しているようでたまに生きるのをやめたい。

ここ数週間規模で、自然な空腹を覚えていない。
一食抜くどころか、休日自宅にこもっていれば一食で済ませることも軽くあるのに、何故だか根底には何かを食べていなければならないという恐怖がうっすらと常にあって、空腹の気配に対して過剰な供給をしてしまう。

完全に悪循環にはまっているのが目に見えるが、それでもやめられないのだからタチが悪い。
たまに、本当にどうしても何も食べたくないことがあって、食べなければならないという恐怖と拮抗して、精神だけが慌てている。

食べなければいいし、食べないと思えば食べないこと自体は平気なのに。
胃袋を優先することがなかなかできない。

消費よりも摂取が多ければ、自然体重も増えてそれがまたストレスになって過食に走る。

目に見える悪循環である。抜け出していた時、どうしていたかいつもわからない。

何かにずっと不安なのだ。ここ数ヶ月の単位で。

最初は力技ポジティブで生きていけるけれど、徐々にその違和感は降り積もって無視できない規模になってから初めて発露する。
もう少し早めに自覚症状が出てくれれば、もう少し早めに限界が来てくれれば、対処のしようもあるのだけれど、その辺自分のことなので一番嫌なタイミングをわかっていると言える。お前もうちょっとそれを他に、さあ。

こういう時はピアノが弾きたい。
これでも小学校1年生のころから高校3年くらいまで10年習っていたのだ。
趣味、と言い切る程度だからコンクールに出たりなんだりはしなかったけど。

夏場に窓を開ける実家の和室で、叔母から譲られたアップライトをゆらゆらと弾いているのを聞いて、近所の子供がピアノを始めたことを成人してから知った。
あのおうちのピアノを弾く人のように、なりたい、と言ったらしい。

中学校が合唱に力を入れていて、合唱コンクールでクラスの伴奏を担当すると音楽の成績が自動的に「5」になったのだ。
だから、1年次を除いて(その時はもっと本格的にピアノをやっている別人がいた)中学の音楽の成績は、クラス替えの時点で決まっていた。
いいこともあるものだと思う。

そういう反応を、どこかでそっと起こしたいのだけれど、なんだかもう今この時点では漠然としすぎていて、空しか見えない。

どうしたって1分1秒先の己は、今ここで呼吸する己の先にあるのだから、過去の積み上げで決まっていく。

思えば「趣味」だと言い切って、上を目指すこともなくゆるゆるとただ己の弾きたい曲を選んで弾き、指練習を好きなだけやっていたあの時期が、一番楽しかった。

いま「好きなこと」は「趣味」ではない。
ああ、これかなあ。

うまい締めがわからないので、今日はここで終わりです。

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