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第四章 アナーキストは日本の死を告げる ‐バカボンブ原発‐


【解説】この対談は『アナキズム』15号(2012年)掲載されたものに加筆修正したものです。雑誌全体の特集が「暴走するテクノロジー」だったので、東京の滓添さんが「テクノロジーとアナーキズム」というテーマで対談をするか、というお話を持ってきたのではなかったかな、と思いますが・・・。しかし、福島原発事故からまもなくの時でしたので、あの頃は誰もそうでしたが、対談に参加した誰もがたいそう怒ってまして。そのため、「日本はもう終わってます」という、かなりどぎついタイトルにしてしまったのだと思います。でも、「もう終わっている」という雰囲気があったので、しかたありません。原発事故に対する政府やらマスコミやらの対応がほんとにくだらなかったので、対談は最初から暴走気味です。フランスからダニエルさんが来て、なんとか話の方向性を前向きにしようとしていただいたのに、結局だめだったのが申し訳なかったです。またもや東京から参加していただいた滓添さんが、「自虐的」とも言える発言を繰り返すところにも注目です(タ)。
タナカさんが触れているように本来は「大阪発バカアナ反原発対談 日本はもう終わってます」でした。しかしこの本にまとめる際に改題いたしました。十年前の対談ですが、今福島原発の「処理水」と名付けられた汚染水を海水に垂れ流す暴挙が、多くの批判を浴びています。「十年一昔」程度の歳月では不可逆的な原発事故にとっては物の数ではないことを意味しています。その核による負の教訓は、日本においてはスケールの大きなものだけ見たとしてもヒロシマ、ナガサキ、ビキニ、フクシマと4回も経験していながら、未だに脱却できず、やれ原発再稼働だ、やれ核武装だとかまびすしいわけですが、やはり突き詰めると資本制の問題に突き当たってくるわけです。本鼎談ではそのあたりのことを話題にしています(乱)。
 
出席者 【の】のん、【D】フランスから来た旅人ダニエルさん、【滓】滓添妖一さん、【タ】夕ナカ 【乱】乱狡太郎
 
 

iPad2のために原発が必要なんです

水蒸気爆発する福島原発


タ 今日の対談は、原発についてアナーキスト的な独自の意見を出してみよう、という趣旨です。事故が起きても除染で何とかなる、といった楽観論があるし、原発はなくならないどころか輸出されようとしています。経団連の会長が「原発を止めたら日本の経済がダメになって仕事がなくなるぞ」と脅しをかけると、「その通りだ」って同調する人がけっこう多い。こんな連中ばっかりなんだから「もう日本は終わってます」ていう前提で話をしたいです。それにしても「エネルギーを膨大に使う今の生活でいいのか」っていう問いかけが、原発事故の前からずっとありましたよね、アナーキストの間でも。これについてどう思いますか。
の それについて一つ思うのはね、いまのグローバリゼーションの中で何が一番大事なのかっていうと経済だよね。だから、少々危険でも、かなり危険でも、「ただちに影響はない」という原則があるでしょ(笑)。ドルもデフォルトする可能性が出てきたし、ユーロも危ない。そういう状況の中でも、経済原則一本槍なんね。だから、なにがなんでも、少々危なくっても、コストが高かろうがなにしようが、推進しないとやっていけない、という状況が出ているし、電気は止められないし、経済動かすためには電気が必要や、と。
タ 原子力は一度火をつければ常に動き続けるから安定供給という意味では一番いいですけど、それはお金もうけという観点からでしかないでしょう。
の 結局、いまのグローバル化の枠組を変えないとどうしようもない。経済が第一優先なんですよ。人間の欲望を基盤にした経済の上に成り立った原発なんやから、大量生産と大量消費を想定した経済システム自体をどういうふうにするかが問題やと思うのだけど。
乱 でも、本当はもう必要なモノなんてないのにねえ・・・。
の いや、必要なものがなかろうが・・・たとえばね、この前、中国で十代のガキが、iPad2(注1)ほしいっていって自分の腎臓売ったって(注2)。


image【引用】https://gooddo.jp/magazine/peace-justice/human_trafficking/1038/

乱 要銭不要命!(注3)すげえなあ(笑)。
の でも必要なものもどんどん出てくるねん。自分の命、健康よりiPad大事なんよ。それ考えたら、経済ってすごいよ。少々被爆しようが、金をもらったほうがええ、って論理なんだろうけど。中国電力かどこかが原発作ろうとして、その現地の人が「命より金やろう」って言ってたけど。それってさあ・・・。
滓 自分の腎臓を売ってiPadを買うんならまだ「勝手にすれば」って話だけど、「人の腎臓で俺がiPadを買う」(爆)。
の そういうことなんだけどね。でもそこまで行ってしまうのですよ。ぼくはそこまでiPadほしいとは思わないけど、iPadの価値が出ちゃうのですよ。だからどんどん出るよ。
乱 よく考えてみたら、誰もそれが出て来るまでには必要でなかったiPadのために原発作るっていうのもおかしいよね。もっとも僕が必要性わかってないだけかもしれんけど(爆)。
タ 僕たちが今飲んでいる「氷点下のスーパードライ」(注4)なんて不要だよね。そのために膨大な電力を供給しろっていうなら、それはやっぱり変だよ。
乱 でも、無理してでも作るでしょ、企業は。
の 作らないと経済動かないでしょ。なんか欲しいもんがないと。「これ欲しい、あれ欲しい」って、どんどん出すんです。
乱 餓鬼道の世界やねえ。

旧河本家本 紙本着色 餓鬼草紙

の そうそう。
乱 観念の飢餓、あるいは幻想としての飢餓かな。
の もちろん観念的。でもみんなそんなこと思えへんもん。
乱 それこそ北朝鮮やないけど、食い物が満足にいきわたっていないというならわかるけど、おおむねは足りてるか・・・もっとも90年代半ばに池袋でリアルに餓死した人もいたけど・・・(注5)。
の ちょっと昔に第三世界でよういわれたのは、メシよりもラジカセや、と。みたいなそういう世界はあったから。いうたって、食べるモノはそこそこはあるのですよ。でもそんなのよりラジカセのほうがいるんですと。いらないですけど、でもいる、みたいな。思いこみみたいなのがある。
滓 ただ、我々がそれを言うと「日本人は金持ちだから、そういうことが言えるんだ」って言われるでしょ。
の そう。実際には腎臓売らなくたって、iPad買えるからね。バイトで生活しようが。
タ 昔タイの国境あたりで、カラーテレビがほしいから子どもを売っていた、っていう話もあったよね。
の 戦前の日本も、東北の人らが娘を女郎屋に売っても、米とかを買わないで違うものを買っていたと、いまでいうラジカセとかiPadみたいなもの買っていたんでしょ。どうなん、人間って。
滓 すべての人がそうだとは、一概には言えないけどね。
タ 共同体なり個人なりの倫理観があって、そのハードルの下げ方の問題じゃないかな。たとえ自分の腹が減っていても娘は売らない、というところの。
乱 でも中国なんかでは、村ぐるみで誘拐した子どもを売ってたとか・・・曰く「豚より儲かる」(注6)ってさ(笑)。
の でも、中国の少年の場合、腎臓とったら痛いでしょ。
滓 欲望に弱い、見せつけられると他のことが目に入らなくなる人も確かにいるよね。
乱 南米で飢餓の村があって、村人のために食糧を取りにいくんだけど、取りに行ったやつが途中で食糧をくすねて、食べて吐いてまた食べる。そこまでするかということやっている例があるよ。だから、アナーキストでも、「四つのリンゴを四人で分けられる」っていう人いるけど、分けられないと思う。一個じゃ足らん、一人で三つも四つもほしがるやつもいるからね。

4つのリンゴを4人で分けることができるのか?


の 
反対に半分でもいいという人もいるかも。
乱 欲望の度合いが違うからね。きれいに分けられない。資本制やからそうだ、というんやけど。そんなことないって。一人で総取りしたいやつはどこにでもいる。絶対他人と分けたくない、っていう人。
の 資本家ってそういうことでしょ。たとえばね、一杯の牛丼を仮に世界の人で分けようとすると、アメリカが99%ぶんどって、残りの人にはショウガだけしか残ってへん、っていう話があるでしょ。ショウガってタダなんですけどね(笑)。
滓 何でそんなに強欲なのかっていうと、彼らはいつも勝つか負けるかギリギリの勝負をしている感覚だからなのよ。勝てば総取り、負けたらゼロ、みたいな。
の ゼロやない、マイナスやもんね。
滓 そういう世界に生きている人には、ほどほどという発想がないんだと思う。「負けたら破滅だから絶対に負けられない。相手破滅させとかないと、次は自分がやられる」。
乱 カジノの必勝理論を研究してそこそこ儲けている知人に教えてもらったんだけど。彼が言うには、結局どうして勝つかというと「弱い奴から取る」んだって(笑)。だから自分より強いやつがいたら絶対負けるって。身も蓋もない結論なんだけど。
の 何やったら勝てるの?
乱 ポーカーでもブラックジャックでもなんでもいいんだけど、勝つための計算式、確率論があって、その戦術を、そういうことにまったく無知なシロウトに使うわけ、つまり圧倒的に有利な条件に自分を置いてカモから巻き上げるかってこと。なるほどそうなんか、と思った(笑)。
の それ、正しいな。
乱 だから、端から自分が弱いと思う人は参加しない方がいいって。収奪できなきゃ勝てない。フェアプレーとか寝言を信じていたら絶対に勝てないんだってさ。
滓 資本主義って、そういうしくみなんだね。
乱 青木センセのおっしゃる「ぼったくり資本論」(注7)ですな。
の そうだとすれば、原発は止められない。
滓 原発には、その性格が象徴的に現れてる。犠牲は徹底的に弱い所に押しつけられる。
の そういうことから言ったら、東電と福島で被災している人との関係に似ているやん。東電かて、福島の人なんかどうでもええねん。
タ 結局のところ力関係だよね。
乱 その力関係から脱しないとね、たとえばディープエコロジーとか、アーミッシュみたいに(注8)。

アーミッシュ


の ただね、ぼく職場で責任者みたいになっているんですよ。事故とか起きたらどうしよう、とかずっと考えてるんですよね。そう考えないのかなあ?滓 創業者なら考えるかもしれないけど、二代目三代目は考えないし、官僚も考えないよ。
の でも、責任はぼくでしょう、ってなるやん。一番上に立っているんだから。
滓 それは組織のあり方の問題だね。自分が全部仕切ってれば当然責任の所在はわかるけど、官僚的な組織だとわからなくなる。
の 東電の会長は? 一番えらいんだよ。
滓 現在のしくみも福島原発も、今の会長が作ったわけではない。たまたま俺が会長の時に事故が起こった、タイミングが悪かった、そう思うだけ。
の そうなんだろうけど、でもそれは普通・・・。
滓 いや、我々の普通と彼らの普通は違うんだよ。
乱 東電の大株主は、大企業とか天皇家とかでしょ。下々はともかく大事なエスタブリッシュな株主様方に損させるわけにはいかないから・・・もう、損失出ちまっているか(笑)。
の でも倒産するかもでしょ。
乱 最後は国民に電気代で穴埋めさせれば良いとでも思ってるんじゃない。の あれだっておかしいよね。そうなったら、被害者も払うことになるよね。
乱 命も取られ、金も取られ。住みかも職も奪われ。こんな酷い話はないよね。
タ 裁判しようとしても、どんどん棄却されてますよね。
乱 「予測不可能な大災害でやむなし」ということになるでしょう。いつものことだ。
の 想定外って言っていたでしょ。ずるいよなあ。
タ でも、御用学者を動員して、「ただちに影響ない」って言わせていたけど、さすがに「これはろくでもない」ってことはみんなわかったよね。
D 飲み屋とかでもみんな普通に「ろくでもない」って言ってますよね。
乱 そうそう。普通はそういう話をしない人も、大体みんなよく知ってて「あれおかしい」「嘘ばっか」とか言ってるよね。
の ただ、おかしい、というのはネットでも一般でも言っているけど、暴動とか起きないし。なんでみんな怒らへんのやろ。
タ そこまではいくんだけど、電力の安定供給という話が出始めると、原始時代に戻るわけにはいかない、という話になってしまうでしょ。そこでとまっちゃうんだよね。ディープエコロジーの話してるわけではないんだけどね。
乱 ブクチンは? エコロジーのことなんか言ってたっけ?
タ ブクチンはね、科学主義者だね。
 共産党っばいね。
タ そうそう。もともとトロツキスト(注9)。ディープエコロジーのほうがすごいよ。ゼルザンってね、売血して生きているんだって(爆)。アメリカってなんかそういうところがすごい。
乱 ブクチンは元トロなん? ならネオコンとは親戚か(注10)(笑)。
の アメリカっていろんなのがいて多様性があるよね。
滓 クレージーなくらい行きつくところまで行ってしまう。
タ ゼルザンが住んでいるオレゴン州には芸術系とエコロジー系のアナーキストがいっぱい住んでいるんだって(注11)。
の でも、あそこに行ったら、結構差別的で、車に乗ってたら「ジャップ!」とか言われるって。
タ エコロジーって保守と革新がいっしょになっているからかも。でも、森林伐採に反対して木に上って生活したり身体を縛っているっていうのはあそこですよね。
滓 アメリカは、60年代・70年代のヒッピームーブメントの頃に、文明に背を向けて「荒野に行け」みたいなのがいろいろあったんだね。
乱 映画化された『イントゥ・ザ・ワイルド』もヒッピーカルチャーの流れやね、主人公の青年は物質的なものは何もかも捨てて・・・でも結局飢え死にしてしまうんやけど(注12)(笑)。

映画『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007)


タ 世代が変わってもやっている人がいて。日本で言えば有機農業みたいなことをやっているでしょう。
の でも、ほとんどは、バイブルベルト(注13)のあたりの保守的なのが多いけどね。キース・リチャーズ(注14)の本読んでいたら、けっこうあいつ狙われていて、とにかく逮捕したろ、逮捕したろ、みたいで。でもピストルズはやられなかったみたいで。えぐいみたいで。普通にドライブインで飯も食えない、60年代に長髪だったらえぐいことになっちゃう、みたいな。
滓 そんな所にいると「荒野に行け」みたいな発想になるのかな。
の イージーライダーみたいな世界だよね。日本でも昔、長髪にしてたけど何もないけど。でも、アメリカでは暴力沙汰になるのは常にあるって書いてある。

映画『イージーライダー』(1969)


乱 アメリカのファンダメンタリスト(注15)に言わすと、核は神がもたらしたものだそうで、ハルマゲドンにとって不可欠なアイテムだってさ。
の なんか横道にそれてきたから話戻すね(笑)。とどのつまりは、原発をなくそう思ったら、経済システム自体を変えないと。
タ 「お前らやめたいんだったら電気を使うな」という推進派の批判は一理あるかな。反対派だってみんな産業社会に相当程度依存している。ユナボマーみたいにはなれない。
D でも、反原発運動を熱心にやってる友人の話で、原発はネオリべには矛盾するという話を冗談めかしてたなあ。スリーマイル事故以降、アメリカは原発は増やしていないでしょう。ネオリべ体制になってからだっていう話です。原発をやると、国家の投資が増えるから、国家を縮小して資本主義を拡大する、というネオリベの論理と矛盾するから、だと。でもネオリベも経済危機を迎えて、オバマになってからの方針転換で、原発をやるって言い始めた。ちょっと本当かよって話です(笑)。
乱 自民党の河野太郎もいっしょでしょ。あれもネオリべでしょう。自由化せなあかんという。
 ネオリべの論理に忠実に原発をやっていくと・・・。
乱 反原発にいきつく、という・・・。
D そうそう(笑)。
タ どうかな。ネオリベって、国家権力を縮小するけど、軍事的に強い国家を作ったり、国家と民間との結びつきを強化することで成り立つ、というのがあるんじゃないかなあ。
D 原子力は軍事的な核と表裏一体ですし、強い国家への意志と結びついているのは確かですよね。ただ、原発は国家が管理しないと成り立たないので、原発をやっていくと国家の投資が増えるから、自律的な資本主義の管理とは矛盾する、という話みたいです。
滓 原発に関してだけはね。
乱 じゃあ、コイズミかイシハラを首相にしたらええやん。「原発をぶっ壊す!」とか(笑)。
の 何いうてんねん! 原発が「ぶっ壊れて」大変なことになってるのに(笑)。
乱 ならいっそみんなでファンダメンタリストになったらどうかな? 信徒の皆様には特典があって、地球が核戦争になっても、「天国移送」(注16)で避難生活させてくれるそうだから。仮設住宅よりよほど快適みたいだし(笑)。
の アホか、俺ら無神論者を信徒にさせるかい(笑)。
 
 
テクノロジーとアナーキズム

【引用】https://www.behance.net/gallery/81659387/Cyber-Anarchy


滓 アナーキストはいま、インターネットをどう考えているんだろう? 一時インターネットをすごく持ち上げてたじゃない、サイバーパンク(注17)の世界が現実化するとか。ところが、実際はグローバル資本主義が加速するのに貢献しただけでしょ。何を間違ったのか・・・。
の いや、間違ったんじゃなくて、ネットと社会がそういうふうになっていかざるをえんかったんやないかな。間違ったのはええんと思うけど、それが、流れに乗ってしまったから。
滓 インターネットは、世界中で誰でも平等に使えるという点よりも金儲けに使える点が圧倒的だった、それがこれほど強力だとは思っていなかった・・・。
タ それは誰もがそう思ってるでしょうね。
乱 グローバル化が進行しているというのは、人間の本性、欲望に根ざしているからでしょう。だからそれに勝たれへん、みたいな部分はある。どんな新しいテクノロジーもそこに行ってしまう。
滓 じゃあ、それこそ万能の何か、例えばインターネットに代わる何かがあったとしても、多分同じことになる?
の ネットのログになかった?「伽藍とバザール」(注18)っていうの。ソフトウエアの作り方で、例えばLinux (注19)みたいにボランティアベースで作ってんのと、MicrosoftとかAppleみたいなのでやっているのと違いを端的に書いているのかあったじゃない。そういう意味では、Linux的な、みんなで作っているみたいなフリーでやっているやつのほうが、資本主義に流れなくっていいんやないかっていうのは、最初からネット社会で提示されていたわけじゃない。でも、今はみんなWindowsなりMacなりを使ってしまったのが問題だっていう論文があったと思うけど。そこの問題が解決されない限り、資本側にやられっぱなしだと思う。

【引用 】https://plaza.rakuten.co.jp/sponta/diary/200703130000/

乱 資本制の社会なんだから、なんでも資本制になじむように変えられてしまうからね。
D でも、そういうアナーキズムに対する批判というのはアナーキスト自身がやる必要があると思いますけど。
滓 2000年以前には、インターネットが世界を変える、イヴァン・イリッチの言うコンヴィヴィアリティのためのツール(注20)になりうる、という幻想を求めた時期があって、アナーキストはそれに期待したんだよね。そういう動きや成果も部分的にはあったけれども、現実には拝金主義の圧勝。そういう意味での甘さというか・・・言ってもしょうがないけど・・・。
乱 資本制は、触るものすべて黄金に変えるミダス王(注21)の世界だからね、それにどう太刀打ちできるかってこと。
滓 それが今日のようなグローバル資本主義につながっているとすれば、コンヴィヴィアリティとは真逆になってしまった反省はあってしかるべきじゃないかな。社会や資本主義に対する見通しが甘すぎたんじゃないかと思うんだけど。
の そうじゃなくて、ネットを使っている人の意識の問題やないかな。みんながネットをアナーキズム的に使っているっていっても、ほんとにちょっとの人だけやないか。あとはネットでエッチな画像がみれるとか、2チャンネルに匿名で書きこめてぼろくそに言うとか、その程度のもんやんか。インターネットって、両義的やろ。マルチチュードがシニカルな存在だっていう人いるでしょ(注22)、だったらマルチチュードはネトウヨだってことになる(笑)。
乱 それ賛成。「マルチチュード」が左翼界隈で言われた時からS学会のよくいう「地涌の菩薩」なんかに似た感じがして胡散臭く思ってたんだけどね。ネットとか大衆運動とかでアナーキズム的なのは少数で、大衆の圧倒的大多数はファシズムの天下。なんかあっちこっちから自発的大衆運動が出てくるとか、楽観的すぎ・・・。
滓 こっちが思うようなのばかりじゃなくて、一方では在特会(注23)みたいな大衆運動も出てくるでしょ。
の それは出てくるよね。
乱 関東軍の暴走だって、当時の日本国民は「がんばれニッポン!」とばかりに自発的に熱狂支持した(注24)わけでね(笑)。

南京陥落を祝う人々


の マルチチュードやから(笑)。だから、そういう意味で言うたら、ネットって使う人のツールでしかない、ということかな。
乱 マルチチュードを賛美した人はちょこっと反省してほしいけどね(笑)。
の ただね、ネットって幻想があってさ、それこそ国境、ボーダーをなくしてしまう、みたいな幻想があったじゃん。でも、実際はボーダーをより強固にしてしまって、例えば日本やったら韓国や中国の悪口ばっか言っているみたいで、ネトウヨが。世界各地でそんなことになってるんじゃない。
滓 知識や知恵を共有するツールとしてより、差別やデマを振りまくツールとして広く使われてしまう。新技術やテクノロジーは、必ずしも想定通りに使われ発展するとは限らない。別の使い方をされて、それこそ想定外の化物に育つ可能性もあるってことを、これからはもっと考えなきやね。
の あとね、言語の問題も大きいとおもうんやけどね。仮にエスペラントでネットがつながっていたら別問題だと思うんだけど。やっぱり、各国の言語があるやん。そこでどうしても齟齬がでる、っていう問題があると思うんよね。そこも一つ言語の問題だと思うんだけどね。今、ネットの90何%が英語でしょ。それもまた帝国主義的な問題でネイティブと非ネイティブの齟齬もあるし。
滓 ネットの悪い面がだんだん見えてきたんだけれども、それを今後どうしなきゃいけないのか、まだよくわからない。中身が誰にもわからない金融テクノロジーなど必要なのかね?
の サブプライムみたいな。
滓 あれもリスクヘッジ(注25)してたんだけど、複雑化してったら全てに毒が廻ってしまったみたいな話でしょ。
の それは、原発も一緒だよね。だから、たとえば五〇年後、百年後にネットがどうなっているのか、想像もつかんよね。
滓 原発は国家意志とかそういうものが強力に進めないと動かないのに対して、ネットは、個人がどう使うかによって大きく動くから、少し違うのかも。
の そうだね。
D 私は今回の原発事故で、むしろネットに希望をもてたかも。私は今回の件で自分が海外にいて日本の状況がダイレクトにわからないので、FacebookやTwitterをだいぶみてました。ツイッターによる「デマ」の拡散が問題視されていたように思いますが、内部でデマ叩きも同時に機能していたと思います。個人個人が、身の回りで見たもの感じたもの好き勝手に書いて、それが政治的な意味も持つ、というネットの良い部分を垣間見た気がします。通常時より、個々人の間の意見の微妙な差異が大きかったように思いました。ネット上にある発言を「群集」と一括りにしてしまうのにはかなり違和感を覚えましたね。
乱 まあでも結局、個人の意識の問題でしょ。ネットの情報で、その危険性に気づいて「反原発」や「脱原発」に変わるとかいう人も、いないわけではないしね。
D 原発についてアナーキスト的な見解は出せないんですか。
の アナーキスト的な見解なんて出せないよねえ。別にアナーキストやからどうのっていうのはないよ。放射能に被ばくするのは、アナーキストだからどうかってことはないよね。
滓 アナーキストはねえ、死ねばええやん(笑)。
乱 「このまま何もせんほうがエエ」というセリフ(注26)が浮かんだなあ・・・。

「このまま何もせんほうがエエ」映画『日本沈没』(1973)より

の 「何もせんでええ」って、老荘? 「無為自然」(注27)ってこと?
D 原発で死にたくないから革命おこしましょう、みたいなのはないんですか。
滓 原発が破滅的だっていうことは学生時代から解かっていたんだけど、ある意味、あきらめて逃げてしまった。それから50年間大事故が起きなかったので、このまんま行くのかなあって思ってたら、やっぱりそうはいかなかった。そのときに、自分自身の生き方考え方は間違っていたというか、反省しなければいけない、って今は思ってます。
D 小出裕章とかどうなんですか。「私は政治は嫌いです」とかめちゃくちゃアナーキズム的なことを言っていますよ。

小出裕章(1949-)


タ あの人運動経由ですよね。
乱 あの人と出会ったのは某左翼系学習会だっけ・・・ようやく、メディアに出てきた。それはある意味不幸なことなんだけど。
 原発ってめちゃくちゃ政治じゃない。だから「政治は嫌だ」と言って逃げられない。
D 「嫌いだ」っていうのか政治的だなと思いますけど。
乱 いずれにしても、どう言われようが「村」に抗って反原発って言い続けたっていうのはね、いいんじゃない。
滓 ぼくは言い続けてこなかった・・・。
の それは違うって思うけど。昔から言ってたけどね。
滓 言ってたけど、そう言える場でだけで、小出さんみたいに、あらゆる場では言ってこなかった。
の だからー、会社勤めてる時にそれ言う人って、「なんやねんこの人?」とかしかならへんやんか。今、ぼくの職場でそんなことを言っても、ぼくが一番権力を握っていても、職場でアナーキズム的なこと言うても、「何、それ?」「何言ってんのこの人?」 「何言ってんのん? 意味わからんわー」みたいな。そういう反応しかないから、そういうところで終ってるのよね、切断されるよね。「なにー? またわけわからんこといってー」 みたいな、「ええかげんにしてよー」とかいう、とこでしかないんよ。そんなもんなんよ。
滓 その通りだけど。でも、それが結局今日の事態を招いた、っていうことはないのかな。
の いやー、違う。仮にね、百万人規模のデモがしょっちゅうあれば違うと思う。でも、そこぐらいになれへんかったら、一緒やな。だから滓添君がかなり動いたとしても。
滓 まあね。小出さんがあれだけ頑張ってもこうなんだから、俺が何したからといって変わるわけでもない。ただ、これからは違うんじゃないの、って気がする。
の 多少違うかなっていう気がするけどね。
滓 原発の話なんてさ、普段、会社の中やお客さんとかに話することないじゃない。でも、ここのところしょっちゅうその話になる。その度に「これはもうとんでもないですよ、次の原発事故が起きたら日本は終わりですよ」って言ってます。
の 今は言えるよね。今なら聞いてくれるしね。
滓 今は話が出る度に、しつこく言うてんのよ。
の アハハー(爆)。
滓 一緒だな、どこでも。
の 今やったら利害が一致するからでしょ。実際に自分が被ばくしたり。
乱 可能性があるからね。なにも起こってなかったなら狼少年扱いだろうけど。
の こんだけなってんのに、言わんとだめだよね。こんな状態になってからは遅いけど、ほんとは。
乱 人間は、想像力があるんだけど、実際に痛い目に遭わんと本当の所は分からんのよね。
の でも、日本って、実害出てるのにもかかわらず、ほんならもうやめましょ、ってなってないやん、まだ。それはすごいよね。もう一回起こらなあかんのかな。ほんとに住まれへんとこまでいかなあ無理なんかな。
乱 それ言うと、日本なんて原爆二個も落とされてさ、それから第五福竜丸の事件があって、で、その流れ変えるために正力なんかが「原子力の平和利用」キャンペーンを張り出したら、次第に流れ変わってしまうでしょ。最も核アレルギーが強くて原発なんて作りにくい国になっても不思議はないのに。しかもこの地震大国で原発五四基、世界第三位だなんて、イカレているね、まったく・・・。

長崎原爆のキノコ雲(米軍撮影)
【引用】https://www.asahi.com/special/nuclear_peace/gallery/nagasaki/012.html


日本の原発マップ
【引用】http://www.gengikyo.jp/facility/powerplant.html

滓 今は岐路なのかなっていう気がするよね。50年後100年後に「あの時の選択が良かった、悪かった」と。そのとき「自分は何してたのか」を後で考えるなら、また同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。ここはやらないといけないだろうと思うんです。
D アナーキズムっていう考えからすると、どうなんですか。
タ アナーキズムって、「支配がいや」というところから始まっているでしょ。その最初の感覚としては、すごくシンプルなんだけど。ただ、アナーキストって名乗るんだったら、それなりの筋を通さないといけないから、厳しいよね、「アナーキストだ」って言った途端に、「おまえどこ勤めてんだよ、権力特ってるやんか」みたいに言われるから(笑)。それでも、一線を超えてみると結構楽しいものもある、ということもあるかもしれない。たとえば、一瞬だけ上司にたてついてみたらけっこうおもしろいこともあった、とか。
乱 アナーキズムを知ると、支配や権力の危険性に気付きやすくなるとか、感度が良くなるとか、そんな効能があればいいんだけど・・・。
D 原子力はあまりにも絶対的な秩序というか権力だからアナーキストは反対する、そこからアナーキスト独自の意見が出ると思うんですけど。
滓 でも、そこはあんまり気負って考えん方が・・・。
乱 原子力も、電気を生み出す科学技術で、生産に役立つし、単純に考えたら、なんか素晴らしいものだと確信/幻想していくのも分からないこともないよ。ぼくも「鉄腕アトム」や「原子力潜水艦シュービー号」の世代だから未来科学の象徴でスゲェなとガキのころは思ってた(笑)。

SF・TVドラマ『原子力潜水艦シュービー号』(1964-1969)


の オイルショック以降、官僚とかが「これからあかん」って考えて原発の導入を始めたっていうじゃない。ぼくはわかんないこともないわ。仮にね、ぼくらがもし当時の官僚やったとしたら、原発導入やっている可能性あるよなー。「あ、これええやん、いけるやん、石油の値段高なったし、こっちいきまひょか、これ安全に運行すればいけるんとちゃうか」と思っているかもしれない。まして、石油とらんでええんやったら「やったりまひょか!」ってなるで。
滓 電力会社に無理やりやらせるために、必ず儲かるシステムにしたり事故の賠償に限度を設けたりする。受け入れる地元には莫大な交付金や利権を与える。そういうことを続けているうちに今度はそれが目的になって、元の目的はどっかにいってしまう。
の アハハー、それはあると思う。例えばね、デモも、大義名分があるやんか。ところがね、逮捕されたら、逮捕されたことのほうが大事になってしまう。それと同じような考えになるんでしょう。
乱 みんな「善かれ」と思ってやっているんですよ。
の ぼくやったら、それはそれで困るねんけど。
乱 「善かれ」と思ってやることが大きな間違いをするんですよ。誰かが言っているやない、「地獄への道は善意で敷き詰められている」ってさ。
の でもー、その大きな間違いがあまりにも多い、今回の場合は。
タ そういうのはわかるんですけど、じゃあ、たとえば京大の小出さんとか六ヶ所村でチューリップを作っている人とかと(注28)、ぼくたちを含めて普通の感覚を持っている人間とどこが違うんだろう、と思う。彼らは文明的な生活をしてどっかで妥協しなから、それでも「反対」って言い続けているでしょ。
の そこは何らかの信念があったり、やっぱり、イデオロギー的になんかあるんだと思う。
タ あるとは思う。だけど、アナーキズム的な発想って、やっぱり、権力のことをすごく「いやだな」って感じる感覚からくるでしょう。九電で「やらせメール」を上司に言われて送らなきゃいけなかった人が「やだな」って思ったから共産党にばらしたんだと思う。でも「やだな」っていう感覚だけで、六ヶ所村でずっとチューリップを作り続けられるか、っていうと、すごい大変なことだよね。小出さんなんて、出世しなかったし。相当リスクがあるでしょう。
の そこはなんなんやろね。
タ まあ、小出さんは腐っても国立大学の先生だから、給料あるし、生きてはいけるけどね。
の 例えば福島の人が責められないのは、「お前らそらー仕事があってええやろ、原発きて俺ら仕事もらってんのに何があかんのん、おまえらはあるからええやろけど」みたいなロジックで返されたらなかなか反論されへんかなー、と思うんよね。
乱 それでも小出さんみたいな人たちは言うんやろうね。ぼく自身は返答に困るやろね。
の ほんまは、ぼくらかて言わんとだめなんよ。ダメなんやけど、言えないよね。実際にそういう人がおって、「お前らは仕事あっていえるけど、俺らはないやんけー」みたいに言われたら、反論できないよね。そら、原発で働いている人に 「原発憎うないの?」って言ったとしでも、「ほなら、お前ら仕事紹介せえ」みたいになる。できるんか、と。
乱 まあ、自分が何をとるか、っていうところで考えた末に、言っちゃうんでしょ。
の だから、反対するほうが簡単なんで、反対するロジックのほうが正しいしー、いいんだけど。
乱 いやー、正しいかどうかはわからへんよ。「正しい」というのは怪しいと思う。例えば福島の人は、「反原発」や「脱原発」は、生活を破壊する「正しくない」考えや行為ととらえるかもしれない。でも、その「正しくない」ことだとしても、自分の考えを言うことかな。だから嫌われるのは当然だとおもうよ。相手の生活を破壊する主張をするわけだから、「そうだとしても、俺らの生活はどう考えているねん」っていう「正しい」反論にさらさられながら。
の 例えばね、もんじゅの地元で「もんじゅ危なくないですか」言うても「知るか!」みたいに返されるやん。ほんまは「ここがアブねえよと思えよ」と思うよ。地元の人だって、ほんとは思ってるかもしれへんけど、言えないんやな~。実際、そんなこと言えるかい。自分が働いてたりしたら。
乱 そこで言うとなったら大変なリスク背負うよね。似た例では、公益通報者保護制度ができたけど、内部告発者は大変な目に遭っているからね、法律が保証していてもこれだから・・・。
の そうそう。ぼくの職場で悪いことしてたとして、「こんな悪いことしてまっせ」って言えへんやんね。辞めてもらうわ、ってなるわな。
タ やっぱり、アナーキスト的な発想でモノが言える人は、組織の中に入ってないとか、自由で縛られていない人では?
の そうなんだけど、その時点で仕事を追われるよね。あるいは干されたり。
乱 必ず言わなきやいけないものでもないんじゃない。
の いや、言わないといけないんだけどー・・・だから福島の人はね、もうひとつ言えばね、局地的なことではなくて、これは日本全国どころか、アジアなり、世界中に放射能を撒き散らしているんじゃない、それで考えたら、てめえらだけの問題でいうのが間違いなんだけどー・・・。
乱 だからー、それができへんのは、アイヒマン実験(注29)でも証明されてるところでね。人間はある意味マイナスの可能性に溢れているわけで(笑)。
タ でも、例えば福島に住んで自然エネルギーを普及する運動をしていた人がいますよね。その人は事故が起きて、家族で福島から出て行ったけど、全国に自然エネルギーを普及するために活動しているそうですよね(注30)。そういう人は確実にいるんだから、システムがあったら必ず人間は型にはまるって考えるのも間違っているんじゃないの。どっかで変わった人がいるでしょ。その人はなぜそうなるのか、ということは考えてかなきゃいけないと思う。不思議ですよ、だって。
の タナカさん、それはほんまにごく少数で、大多数の人は、原発が来て仕事があります、って行っちゃうんですよ。
タ それは行きますよねー。
の だからそこの問題点をーどうするか。
乱 それは無理なんだよ。
の うん、無理なんよね。
タ それがシステムなんですよね。
乱 そのシステムが、電力が必要なわけで、なぜ電力が必要かといえば、大量生産大量消費のためにと、そうなっちゃってるんだけど。もとをただしたら、人間の無際限な欲望から発しているのだから。軍隊があり戦争が発生するっていうのもそれが元型でしょう・・・。
の アナーキストでも誰でも、みんなそこに巻き込まれるやん。
D でもフランスでは第二次大戦後、共産党が労働組合との関係や科学主義から原発推進に回ったのに対して、早くからアナーキストは原発に反対し続けました。どうもここの違いには、システムとか権力への感受性の違いが大きいような気がします。今回の事故でも例えばフランスのアナ連(注31)は、反応が早くて、事故後3月15日にすぐにサイト上に声明を出しました。ともかく原発はカネと権力だからむかつく、という意志が感じられる声明です(笑)。対して、フランス共産党は相変わらず原発擁護です。原発という、国家の肝いりでできる秘密だらけの巨大な装置に対して、アナーキストは、さっきタナカさんが言った「支配がいや」という感覚から反発を覚えるんじゃないんでしょうか。
タ ようやくアナーキストの話が出てきたところで、原発に対するアナーキストの意見を出すっていう本題に戻りましょうか(笑)。
 
 
アナーキズムって実現できるの?
の でも、原発についてアナーキストとしてなんかっていうのは特にないよね。
タ でも、対談のテーマとしては、「アナーキスト的な独自の意見を出す」っていう話だったんだけど(笑)。
の まあ、ちょっと出たんは、経済との関係かなあー、とかぼくは思うんやけど。結局そこが解決せえへんかったらこの状態が続いていくやろし。じゃあ、経済的にどうなるんや、っていったら、それこそ、ファンダメンタルな命題まで入ってしまうから。ネオリベやったら、市場があれば政府はいらんっていうことになってしまう。
乱 関係あるとしたら、個人主義的に動くっていうことかな。さっき言ってた、九電で「やらせメール」情報を流した人いたでしょ。これは個人としておかしい、って考えてやったんでしょ。
の でもあれは共産党にチクったんでしょ。
乱 いや、共産党でも何でもいいんだけど、ああいう、行動をとる人が増えたらだいぶ違うでしょ。
タ いままで自分から行動するんじゃなくて、横並びで人と同じことやってたからね。
乱 あれは今までなかったでしょ。あれでぱっと情報が流れたから。
タ 根本的には、アナーキストが信じているのは、人間の中にそういう要素がある、っていうことですよね。昨日まで社長の言うこと聞いていた人が「なんかおかしいな」と思って突然行動しちゃうっていうところに一縷の望みをかけているんじゃないの。
乱 そういうことでしょうね。一人でもそういう人がいることで大分違うでしょう。
滓 そもそもアナーキズムは、共産主義などとはパラダイムが達うんだよね。
タ もし共産主義者みたいにやるんなら、組織や規約、理念や運動をつくって、「ここからはみ出したことをやったらお前はアナーキストじゃない」って糾弾して、最後は粛清していくわけだから(笑)。
滓 「アナーキストの組織はありません、でもどこにでもいます、九電にも、どの会社の中にも、共産党にも自民党にもいますよ」っていうのか理想。既存のイデオロギーとは別の枠組みで考える人たちが、いろんな所にいる方がいい。
の あのー、ちょっとね、ひとつ思っているのがね、アナーキズム的にやろうとしたら、会社単位とかだったらできるのではと思うけど。今ね、ぼくが職場で権力持ってるから、それでやろうと思ってやってるんですけど。どんな立場でも権力なくそう思って。給料もね、ぼくより、あるときはパートさんより安いんよ。でも、それでもうまいこといかないのですよね。なんでやろなー、思うんよ、悩むんよ。単に文句だけいわれるんですよ。責任だけ一番かかってんのに、なんやろなー、思って、ほんとね、情けないんですよ。権力がないと、責任だけあって、金もないの。それって何かなーっとか思って(笑)。
滓 権力と責任というのは、ある意味で・・・。
の くっつくのやろ。
滓 その通り。ところが、今の国家や官僚と責任がくっつかないからけしからんのよ。中小企業やNPO法人では、ピッタリくっついてるけどね。
の そうなんよ。そのわりには、権力手放してしまうと、単に偉そうに言われるだけで、「なにー、ちゃんとしてよー」みたいに。「してるわい!」って思うんですげと。金だって別にとれへん。パートさんの方が多かったりするわけですよ。でも、そんな状態にしても、結局ね、自分以外の責任のかからん人が偉そうに言えるだけのシステムになってしまうね。難しいんよねー。
乱 逆に言うたら、権力ないかわりに文句言って済ませていた方が楽ということもあるでしょう。
滓 あとは規模の問題だと思う。一定規模以下だと権力と責任が不可分だけど、規模がでかくなればなるほど分離してくる。当然一人では負担しきれず複数の人間で分担するから、組織としては一つでも、何がだれの責任なのかが曖昧になってくる。
の 結局責任だけ取らされて。権力はいらんけど。
滓 権力はいらんってやってると、無責任になるでしょう。
の そうそう。最終的にそうなるねん!アナーキズムって無理やなーって思うたもん。
滓 そうだよね。実際の組織で権力を否定しようとすると、誰も責任を取らなくなってしまう。
の そうなるよね。結局、権力と責任ってね、同じやねん。だから、それはそれで守らなあかんのに、ぼくは権力を手放しちゃって、下の人に「何でも言うて、ええ」てしたの。そしたら、「お前はちゃんとせいや!」だけ言われて、ぼくには責任だけあるねん。金なんて、パートさんの方がいい場合もあるし。なんでやねん!とか思うけど。権力って。ほんとに・・・むなしいわ!(笑)。
乱 だから結局、権力あっても無理ってこと?
の 無理です。しないとダメなことはしないとダメだし。
乱 順繰りに権力を移譲する、とかそんなことみんなしたくないでしょ。例えば、アテネの民主制みたいにくじ引きで権力持つなんてこと。
の でね、アナーキズムとか職員に言うけど、「何この人? 何言ってんのやろ、意味わからんわ」みたいなところで終ってしまうから。えー、そうなんや、とか思って。「何ですかそれは。難しい言葉使わないでください」とか言われてね。それで終わってしまうから。
タ でも、アナーキズムをシステムにしようとするからそうなっちゃうんでしょ?
の うーん、自分のおるところで、イヤでしょう。権力的にやるの。だからどうしたってアンチ・システムみたいなのを考えるんですけど、無理なんやねー、アンチ・システムみたいなんは。
タ できるとしたら完全にまっ平らな状態でしょう。
の でもまっ平らはないもんね。
タ 企業だろうとNPO法人だろうと、まっ平らっていう状態はない。法的にはだれかが権限を持っていて責任も持っている。
乱 それに、組織やからもともと階層構造を持っているし。
タ 例えば、いまぼくたちの間で階層構造なんかはできようないでしょ(笑)。
の 今ここの中では権力関係が生まれにくいからでしょ。
タ みんなボランタリーにやっているからかな。このなかで権力を持とうなんて思わない。そういう中でしかアナーキズムなんてできないでしょう。
滓 利害がそんなにぶつからないからね
乱 アナーキズム的な状態が生まれるとしたらね、漂流コミューン(注32)みたいなのもある。相互扶助になっていくから。

漂流コミューンは成立するか

の 権力関係できるでしょ。
乱 いや出来にくい。助け合わないとみんな助からないから。前言ったリンゴ四等分が成り立つ世界。もっともヒッチコック先生は映画『救命艇』でリンゴ独り占めを描いているけど(注33)。
の 分配したらいけるね。
乱 お互いがお互いに依存しあう関係だから、公平な分配は可能なわけで・・・。
D そこはクロポトキンの相互扶助論的に理解できませんか。
タ クロポトキンが言っているのは難しいよ。そうとう思いつきで言っている(笑)。国際郵便とか海難救助隊だって組織なんだから真っ平らなわけがないでしょう。なんらかの権力関係の中で成り立っているでしょ(注34)。
D さっき乱さんがいっていた「漂流コミューン」はどうなんですか。九電のやらせメールを暴露した社員の話もあったし。それに、今、僕たちの間では階層構造が生まれにくいっていう話もありましたよね。これって、クロポトキンの相互扶助論で説明できるんじゃあないですか。クロポトキンの相互扶助って、自然や支配者といった外敵に対する生き残るための団結でもあるでしょう。それに、クロポトキンが言ってることの力点は、権力を捨象して現にある相互扶助がユートピアだ、という事にあるんじゃなくで、権力関係の中でも競争関係の中でも相互扶助は生き続ける、資本や国家を解体する可能性としての相互扶助はいつまでも死なない、ということにあるんじゃないでしょうか。クロポトキンは、『相互扶助論』の中で、これまでは相互扶助の原理は各村や都市の中で行われ、外の共同体に対してはお互いの闘争として働いてきたのは確かだ、けれど近代社会においては、相互扶助の原理は共同体の外にも開いていっている、と述べています。相互扶助の原理は今のところは可能性なわけで、閉じて発展していってしまえば外から見れば利権融通のカタマリ、それこそ「原子カムラ」です。相互扶助の論理をいかに開いたものにし、結びつけていくかというのが、クロポトキン流に言えばですが、アナーキズムの課題なんではないでしょうか・・・。
乱 いや、さっきも話が出たけど、結局、大量生産大量消費社会なんだから、アナーキズムとか相互扶助で説明できるのは、やっぱり少数派か特殊な場合じゃないの。
の たしかにスティーブ・ジョブズなんて少数派の偏屈な変わり者だからおもろいんやけど、結局金儲けやんか、やりたいんのは。しかもiPad作って世の中がよくなるわけでもないし、あいつは儲けた金で何やったかって、他人の肝臓買ってそれを自分に移植して生きながらえたやろ。えぐいで、資本家って・・・。
滓 中国ではiPadほしさにガキが自分の腎臓を売って死にそうだっていうのに(笑)。
乱 そうか、だったらね、結局そのガキの腎臓がスティーヴ・ジョブズに移植されたら、それってある意味では相互扶助でしょ。
D ええ~?そんな~・・・。
の それいうたらな、反原発なんていってるけど、ぼくらが払っている税金とか電気代が原子力村を支えてきてな、ぼくらは原発でできた電気で生きてきたんやから、それもな、いうたら、まあ相互扶助やんけ。
滓 まあな、たしかに俺とかそういう状況を放置してきたから・・・。
の それは違うってー、さっき言うたやんかー! 要するにな、相互扶助がいかん、っていう話やん。
タ ??ええっとー、なんか、わけがわからなくなってきましたけど、対談の結論が出ましたねー。
D ええ~? そういう結論はちょっと~・・・クロポトキンに申し訳ない・・・。
 
2011年7月大阪某所にて・『アナキズム』15号(2012年)掲載

 

(1)ipad スティーブ・ジョブズは、単なるボタン嫌いのフリーカーオヤジと思っていましたが、死んでから、ものすごくいい人になっているのに驚きました。その昔、彼がウォズと作っていた、タダかけ電話のブルーボックスのことは無かったことになっているし、意図的ではなかったのかもしれませんが、アップルキャットモデムも少しいじると電話タダかけマシンになるというアナーキーな仕事のほうは評価されていないのが残念です(笑)。死の直前に発表予定だったiPhone5は実はskypeなどを使わなくっても電話がタダでできるという噂もありましたが、結局、iPhone5は発表されず、凡庸なiPhoneしか出なかったのも彼がフリーカーに戻るのを恐れたアメリカ政府の陰謀だったのかもしれませんね(笑)。滓添君が対談中に「人の腎臓で俺がiPadを買う」と指摘していますが、スティーブはiPadを売って、他人の肝臓を買ったわけです。が、それでも死んでしまうという教訓を残しました(合掌)。
(2)iPadがほしくて腎臓を売った中国の少年  iPadがどうしても欲しくなった中国安徽省の高校1年の男子生徒(当時17歳)が、2011年4月、腎臓が高く売れると知り、ネット広告を出していたブローカーに連絡を取り、湖南省の病院に連れていかれ、腎臓を片方摘出されたということで、三日間の入院の後、約2万元〈約25万円)を受け取り、iPadやiPhoneを購入したそうですが、母親が気がついて発覚したんだそうです。生徒の体調は少しずつ悪化していると伝えられていましたが、その後どうなったんでしょうか(以下を参照。http://www.j-cast.com/2012/04/08128146.html?p=all;http://rocketnews24.com/2012/04/10/201333/ 2016年2月24日閲覧)。
(3)要銭不要命(ヤオチエン、プゥヤオミン)意味は、「金は要る。命は要らない」つまり「金の為なら命は要らぬ」であり、中国黒社会でのモットーですね。
【事例1】90代初頭の出来事だが、新宿のゲーセンの店長が、イカサマした中国人の始末を、月70万円の用心棒代を支払っている日本のヤクザに依頼した。結果、日本ヤクザと中国マフィア、双方ともピストルを出しての睨み合いになる。そこで店長が、中国マフィア側に「35万出すから、この場は引いてくれ」と言うと、そんなハシタ金で解決できるかと、ヤクザたちの目の前で店長の脚をナイフで三回刺す。するとヤクザは何もいわずに引き揚げ。以後、中国マフィアが店の用心棒となる。彼ら白く、「我々中国人は貧しい国からカネを稼ぐために来ている。カネが欲しいし、我々の命の値段は安い。70万円で冗談でなく人を殺す。 
それに比べ日本ヤクザは億の単位でないと命をかけない。だからケンカをすれば、我々が勝つに決まっている」(溝口敦『中国「黒社会」の掟』講談社、107頁)。
【事例2】中国人民法院は、「焔魔の子」という異名を持つ人買い集団の頭目に死刑判決を下す。刑の執行を目前に控えた頭目と教官のやりとり。
「明日、刑の執行だ。怖くないか?」
「人買いの何が怖いんだ?遅かれ早かれ誰だってオダブツさ。弾を食えばいっそスッキリする」
「お前は働くことで豊かになろうとしなかった。なんで人買いなんかしたんだ?」
「人買いの仕事は、金が早くたくさん手に入るデカイ商売なんだ。今の御時世、金を儲けない手はないよ」
「売り飛ばす相手に少しの同情もないのか?」
「同情?ハッハッ。同情してたら金は儲からん」
「どうして、自分の母親、女房、子どもを売ったんだ?」
「あいつらは厄介ものだ。一緒にいればめんどくせえ。それで飯の食える所を捜してやったんだ。おれは一人で暮らしたほうがさばさばする」
「おまえが生きているのはおまえのためなのか?」
「あたり前だろ!自分のために生きてない者がどこにいる」
「刑の執行前に、何か言うことはあるか?」
「別に何も。おれは思いっきりよく生きた。明日も思いっきりよくイッチまいたい」
 そして、自らの妻に続いて年老いた母親を500元、三歳の息子を3000元で売り、グループ全体では、37人の女、子どもを売った「焔魔の子」は、最後の晩餐に、山東省名物の鳥の丸焼き二羽を要求、それをペロリとたいらげ、刑場の露に消えた。(王靈書『中国子ども誘拐白書』田中佐紀子訳、亜紀書房、25~28頁)。
(4)氷点下のスーパードライ  アサヒビールは、0度にしたビールを若者が喜んだという結果に基づき、マイナス二度から0度でアサヒスーパードライを飲ませる、という方法を考案し、東京など大都市で「エクストラコールドバー」を期間限定でオープンして電気をばんばん使い、その後も鼻息が荒いです。対談をやったのは、節電が叫ばれていた夏でしたが、アサヒビールは、そんなの眼中になく、いろんなお店でキンキンに冷えたアルコール飲料を飲ませていました。なお、ドイツでもビールは冷やして飲みますが、面倒くさいときは冷やさないでも飲んでます。ワインもビールも、夏だって冷やし過ぎると香りと味が飛んでしまって全然おいしくないと思いますけど、そんな前近代的なこと言っても誰も相手にしてくれません。
(5)池袋の餓死事件  1996年4月27日、東京豊島区池袋のアパートで、77歳の母親と41歳の息子の遺体が発見されます。死後20日が経過しており、死因は餓死でした。父親はすでに病死しており、部屋には食料も現金もほとんどありませんでした。ただ唯一、ノート10冊からなる日記が残されてあって、後に「豊島区情報公開条例」にもとづき一般公開されています。以下その一部を抜粋します。
 
3月9日(土)はれ ひえる。(13.1度)昨日、サバイバルと言う文句を、教えて頂きましたが、今の私共の異常事態の中で生き残るには、どんな方法を、したらよいのか、ぜん、ぜん、分かりません、明日までで、食べ物は、何一つ無い状態になります。今、毎日、少しずつ、お菓子丈を頂いて、おりましても、お腹が、すき通しで苦しい毎日です、/後はお茶丈で、毎日すごさなければならぬ状態でそのお茶も、後、何日分と、すべて口に、する物は、きれいに、無くなります、/昨年8月までで、私共は、生活は、終わりと、思っていましたのに、今日まで、続けさせて頂きましたのは、有難うございますが、子供は、生まれた時から邪魔を受け、20年以上の病人生活で、私も、40年、50年と普通でない生活を、させられて、きました上に、ここ10年くらいは、病人生活の上に、精神的にも、苦しみ通しの毎日で、特に、一昨年平成6年からの病気、病気と、続いた上に、一方では、お金の心配を、仕通しで、子供と、私は、何時まで、こんな苦しみを、続けねば、ならないのでせうか、(以下略)(『池袋母子餓死日記 覚書(全文)』公人の友社、1996年、232~235頁)。
(注6)「豚より儲かる」 中国内蒙古自治区トグト県黒水泉村の産業は「嬰児売り」です。農民が「嬰児売り」を生業とする理由をこんな風に言っています。「農家が母ブタを飼えば、1年に1頭、子ブタを産む。うまくいけば10頭は産み、子ブタ一頭の売値は50元だから、10頭でやっと500元の収入となる。もし一頭も産まず、あるいは産んでも死なしてしまったら、収入はもっと少ない、母ブタは一年間にたくさん食べるし、飼う仕事も楽じゃない・・・一方子どもは、女の子を売りに出せば500元、男の子なら1000元だ」。さらに、これが南方で自らが直販すればもっと商い利益も上げることが可能だそうで・・・そんなわけで、こんな民謡も生まれています。
 
黒水泉 貧しいうえにまた貧しい。
あの家、この家、みな子売り。
命は助かり、貧乏も助かり、
それでも公安はやっぱり捕まえにくる。
(王靈書『中国子ども誘拐白書』田中佐紀子訳、亜紀書房、102~103頁)
(7)「ボッタクリ資本論」 『ナニワ金融道』で知られる青木雄二先生のいわば青木版「資本論」のタイトルが『ボッタクリ資本論』(光文社、2003年)です。「ボッタクリ」とは「恐喝して金を取ること」を意味する「極道用語」です(磯野正勝『裏社会の掟』イースト・プレス、238頁)。青木は、資本主義社会の本質は「勝ち逃げ」であり、如何に弱者からボッタクって逃げおおせる数少ない勝利者になるかだと喝破します。そして彼自身もそのプレイヤーであることを隠そうとはしません。「皆さんにきれいごとはいいません。この腐れ資本主義のなかで、地球上のかぎられた富を、お互い奪い合って生きていこうではありませんか」。しかし、一方で青木は、第二章「労働者はただ搾取されるために存在するんや」では、1999年9月に発生した東海村臨界事故で、被曝しその後死亡した労働者大内氏(*1)に言及。当時の有馬科学技術長官が、「今の日本は科学技術労働者のモラルが低下しているからこういう事故が起こる」と述べたことに対して、「なんとも幼稚な観念論」と一蹴し、「原発はゼッタイ安全です」というのは、「主観的願望から発した観念論者(ブルジョワイデオローグ)のタワごと」であり唯物論者なら、「危険だ」と断言してその安全対策を請じるべきと言い、さらに、臨海事故を収束させたのは、JOC末端労働者による志願者による決死隊であり、この一件でも、「国家は平気で国民を見捨てるもんや」と、的確に指摘をしています。それは、今回の福島原発の事故前後のプロセスとも見事に一致します。つまり「原子力村」は過去の事故から何も学んでこなかった、青木流にいうなら、「安全神話」という観念論にどっぷりつかったままというべきなんでしょう。もちろんボッタクらんがために・・・(青木雄二『ボッタクリ資本論』光文社、2003年、68~75、229~237頁)。
*1 大内氏の被爆治療については、NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちてった命‐被爆治療83日間の記録‐』2006年新潮文庫にその詳細が記録されていますが、「被爆治療」なるものの無力さと共に、被爆者は、生きながら「九相図」の地獄を体験さされていることが活字からも伝わってきます。

大内久氏の被爆治療
【引用】https://yamucollege.com/archives/5547


(8)アーミッシュ(Armish) アメリカ合衆国のペンシルベニア州・中西部、カナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民の宗教集団です。移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られています。特筆すべきは、2006年10月2日、米東部ペンシルベニア州ランカスター郡ニッケルマインズのアーミッシュ運営の小学校に、銃3丁と弾丸600発、スタンガン、ナイフ2本で武装した32歳の男が監禁暴行目的で乱入、銃を乱射、その結果、監禁された女子児童10人のうち5人を殺害、5人に重傷を負わせるという事件が起こりました。その際、死亡した13歳のマリアンは、年下の子をかばい、「私から撃って、他の子は解放して」男に申し出ました。またマリアンの妹バービーも「その次は私を」と言ったという。そればかりか、アーミッシュの人々は、事件後に自殺した容疑者の妻や3人の子供を気遣い、亡くなった子供たちの葬儀にも招いたということです。http://ameblo.jp/sukinakoto/entry-10017857645.html(2016年5月21日閲覧)
(9)もとトロツキストのブクチン  アナーキズムにエコロジーを結合させたことで知られるブクチン(Murray Bookchin, 1921-2006)は1930年代には共産党の青年組織のメンバーで、スターリン主義者をやめてから1940年代にはトロツキストの社会主義労働者党メンバーで、そのあとマルクス=レーニン主義から足を洗ったそうですけど、近代的な技術革新そのものを否定的に見てなんていませんでした。これに対してプリミティヴィストのゼルザン(John Zerzan, 1943-)は、200万年前ぐらいからの旧石器時代を理想化し、近代文明が行きつくところまで行ったから、日本では「セックスをまったくしない」人がいて、自殺をする人が急増し、何年も自室に留まる若者たち(Hikikomori)が100万人を超えたのだ、と言ってます(cf. John Zerzan, twilight of The Machines, Feral House, 2008, pp.113-114)。ゼルザンの「売血」については、『ガーディアン』(ネット版、2001年4月18日付)で報じられています。しかし、彼が旧石器時代をいい加減に理想化して描いているのを、あのユナボマーがきちんと批判してます。ユナボマーは、近代文明に反対する点ではゼルザンと見解が同じですが、「アナルコ・プリミティヴィストの甘ったるいユートピアの神話」を必要としない、「現実的で実践的な人たち」が「革命」に必要だ、と言ってます。もちろん革命の目的はテクノロジーを基盤とする近代文明の解体であり、そのためには「最も極端な行動形態」が必要だそうですが、獄中で書いた意見ですから、それだけでちょっとすごいです。Cf. thedore J. Kaczynski, "Foreword", "The truth About Primitive Life: A Critique of Anarcho-primitivism", in: Technological Slavery, Feral House, 2011, pp.15, 169-171.
(10)ネオコン=トロツキスト説  ハンナ・アーレントは、最近では、あの林先生がTV番組で解説するほどの、ナチスとソ連を「全体主義」として徹底批判した著書『全体主義の起源』で知られている思想家ですが、1941年にアーレントはドイツからアメリカに亡命します。亡命先のアメリカで彼女は、「アメリカ独立革命(1776年)は人類にとって祝福された勝利した革命であったが、フランス革命(1798年)とロシア革命(1917年)は、人類に災いをもたらした大量殺人の、失敗した革命だったのです」「だからあなた方アメリカの知識人は、ソヴィエト・ロシアとの闘いでおじけついてはいけない。ソヴィエト・ロシアの存在は人類にとって悪であり、彼らは滅びるべきなのです」などと説き、アーヴィング・クリストルやノーマン・ポドーレツらアメリカのユダヤ系知識人たちに影響を与え、それが60年代の新保守主義派Neo-Conservativeと呼ばれる政治勢力の誕生につながっていきます。そのネオコンのリーダーであるアーヴィング・クリストルの息子のウィリアム・ビル・クリストルも、ネオコンの総帥として活躍するようになりますが、自らの回想録『トロツキストの思い出』でも明らかにしているように、学生時代に、第4インターナショナル系のトロツキスト組織SWP(社会主義労働者党)の青年組織であるYSA(青年社会主義者同盟)のメンバーでした。また、著名な社会学者であるダニエル・ベルも、トロツキストからの転向組らしいです。異論もありますが、トロツキストからネオコンへ、という流れは一定程度あったと思われます。ネオコンもブクチンも、トロツキズムとの思想的連続性がどれほどあったかは本当のところ定かではありませんが、ブクチンがハンガリー労働者支援のために、アメリカの介入を求めたという話もあって、事実ならネオコン臭い・・・否、トロツキスト臭い、のかな?(笑)(副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』講談社、1999年を参照)。
(11)オレゴン州のアナーキスト オレゴン州第二の都市ユージーンにはアナーキストのコミュニティがあって1999年にシアトルでWTO会議開催を阻止したアナーキストがそこからやってきたそうなので、当時の市長がユージーンのことを「アメリカ合衆国におけるアナーキストの首都」だと言っていたそうです。何とも自虐的な。
(12)『イントゥ・ザ・ワイルド』 アメリカ東海岸の裕福な家庭で育った青年クリストファー・ジョンソン・マッカンドレスは、大学卒業後、名前を変え、手持ちの現金は焼き捨て、20400ドルの預金を全額慈善団体に寄付し、自分の車も持ち物もほとんど捨て去り、人前から姿を消します。その後、ヒッチハイクでアラスカまで行き、マッキンレー山の北の荒野に単身徒歩で分け入りますが、1992年8月、遺体で発見されます。死因は餓死です。その足跡をジャーナリストのジョン・クラカワーが辿り、Into The Wildというタイトルで出版しています。また、ショーン・ペンが監督して2001年に映画化もされています。クラカワーの著書では、マッカンドレスのみならず、一切の近代テクノロジーに依存しない原始生活が可能か自ら人類学的実験に挑んだジーン・ロッセリーニや求道者的登山家ジョン・マロン・ウォーターマンや、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』のネモ船長に傾倒して自ら「ネモ」と自称する審美的な冒険者エヴェレット・ルースなどマッカンドレスと同様に荒野を目指した人々にも言及しています(ジョン・クラカワー『荒野へ』佐宗鈴夫訳、集英社、1997年を参照)。
(13)バイブルベルト Intelligent Design などと、創造論を何とか地球の歴史と整合性のあるものにしようとするファンダメンタリストの多い地域。っていうか、聖書自体が矛盾だらけで、例えばマタイによる福音書一章一二節のアブラハムからイエスまでは42人ではなく41人です。計算できない神様って・・・。
(14)キース・リチャーズ 本のタイトルは『ライフ』。特に読むべきものはないが、警察との確執は、そこそこおもしろいのと、キースがスイスでジャンキーから抜けるために、血液全部入れ替えたのはウソというのが収穫(笑)。まったく関係ない話ですが、同じミュージシャン繋がりで、シド・バレットの実家に小泉純一郎が下宿していたのですね。ピンク・フロイドとか聴いていたのでしょうかね、小泉は?
(15)アメリカのファンダメンタリスト 日本では、「聖書根本主義派」と訳されたりするように、元来は、キリスト教の信仰理解(神学)についての特定の立場を意味する用語だったようですが、今日では、「今日のアメリカの状況に怒りをおぼえ、自分たちの信仰を積極的に政治に反映させようとしている保守的キリスト者」という社会・政治現象として定義づけられているようです。(森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』講談社、1996年、186頁を参照)。
2011年、『未公開映画祭』という日本未公開のドキュメンタリー映画を公開する企画があったのですが、その中に、『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』(2006年)というキリスト教福音宣教会の信者の子供たちの(洗脳)サマーキャンプの模様が描かれている映画がありました。罪悪感を植えつけて、服従させる手口なんぞは、某左翼党派と同じ手口だなと感心しました(笑)。

ジーザス・キャンプ』(2006年)


(16)天国移送 ハルマゲドン(最終戦争)の際に、「本物のキリスト教徒」たちが、緊急避難(=天国移送・携挙)させられること。ハルマゲドン後は、荒廃した地上に降ろされ、エルサレムを世界首都とするキリストの「千年王国」下で幸せな日々を過ごすそうです。『今はなき大いなる地球』という全米で1800万部のベストセラー本を書いたハル・リンゼイ(Harold Lee "Hall" Lindsey)によると、ハルマゲドンは、イスラエルの「メギドの丘」が戦場になり、ここへ旧ソ連・東欧連合軍、アラブ・アフリカ連合軍、中国率いるアジア連合軍、アンチキリストEC連合軍が逐次侵攻します。それに対してイエスは容赦なく核先制攻撃を加え、「神はこの日に限って人間の本性を完全に剥き出すことをお許しになられて」全人類があわや全滅の危機に瀕する大虐殺が行われることになります。しかるにTV伝道師ジェリー・フォルウェルなんかに言わせると「どうです。すばらしいじゃありませんか。おたがいキリスト教徒でいられて!われわれの前途は洋々たるものだ!」と、邪魔な異教徒、無神論者、アンチキリスト派が一掃されるわけですからきわめてポジティヴ。ファンダメンタリストたちは例えそれが肉親に降りかかっていてもなんとも思わないようになっているとか(笑)。以下を参照。グレース・ハルセル『核戦争を待望する人びと聖書根本主義派潜入記』越智道雄訳、朝日新聞社、1989年。Http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hd/a6fhd823.html(2016年6月3日閲覧)

「携挙」
【出典】https://christian-unabridged-dict.hatenablog.com/entry/2018/04/13/130227


(17)サイバーパンク  人間の神経系統とコンピュータネットワークが直接接続された近未来社会で、アウトローのハッカーが活躍するSF小説。超管理社会なので決して理想社会などではないが、天才ハッカーなら万能の力が発揮できてしまう夢のような世界。
(18)伽藍とバザール:http://cruel.org/freeware/cathedral.html(2016年2月24日閲覧)これ読むと対談中に話していたのと、全然違いました(笑)。
(19)Linux   メジャーなとこではubuntuとかfedoraとかがあります。日本語入力環境もmozcが出てから、かなり使いやすくなりました。他にUNIXのFreeBSDとかもありますが、インストールできてもXwidowSystemが起動できませんでした(笑)。他にWindowsOSでもハックされて改造されまくりのがあるようです。興味がある人は、XP系ならDark Editionとか7系ならprince nrvlで検索してみてください。Mac風に改造されたWindows7やゲーム用のエディションがたくさん出てきます。バンコクやKLなどのジャンクPC専門ビル(imbiplazaとか)なんかにも、インチキなOSがたくさん売ってましたが、現在は駆逐されています。
(20)コンヴィウィアリティのためのツール「コンヴィヴィアリティ」は「自律共生」「友好的宴会気分」などとも訳されますが、元々は酔っぱらいが集まって楽しく盛り上がっている状態のことだそうです。イリイチは「コンヴィヴィアリティ」を、「組織や制度による生産性」と反対の概念だと説明しています。組織や制度には必ず規則やルールによる強制や軍隊的な統制があり、個人の創造性よりも全体の均質性や効率が重視されます。組織や制度が過度に発達した社会では、人びとは自主的な想像力を失い、組織や制度に依存するだけの存在に退化してしまうのです。/テクノロジーの発達は、それが「コンヴィヴィアリティのための道具」である範囲にとどめ、それを超える「産業主義的な組織や制度のための道具」にならないようにするべきである、とイリイチは主張するのです」(高橋幸彦「暴走するテクノロジー 巻頭言」『アナキズム』15号、2012年、8頁)。
(21)ミダス王 ギリシャ神話に登場する王様。「触れるものすべて黄金に変える」話は、そのエピソードの一つ。シレヌスが、酒と富の神バッカスのお供をしているうちに、酔っ払ってミダス王のバラ園に迷い込んでしまいますが、召使によって発見され、王のもとへつれて行かれます。王は彼を連日、大いに歓待した上で、バッカスの元に送りとどけます。バッカスはシレヌスが帰ってきたのを喜んで、お礼に、ミダス王の望みをなんでもかなえてやろうと言います。欲張りで黄金好きのミダス王は、「手に触れるものが何でも黄金に変わるようにしてください」と頼み、かなえられます。しかし、飲み食いするものがすべて黄金に変わってしまうので、王は飢えと渇きに死ぬほど苦しめられます。そこでバッカスに元に戻してもらうように頼むと、バッカスはパクトロス川の源泉で身体を洗い流すように言います。そのとおりにすると、ミダス王は黄金から解放されます。過ぎたる欲望は身を滅ぼすという教訓でしょうか、人の欲望の底知れなさをあらわしているようにも思えます(山室静『ギリシャ神話』社会思想社、1993年、222~223頁)。

「ミダスの娘は黄金に変わった」(ウォルター・クレイン)


(22)シニカルな存在としてのマルチチュード パオロ・ヴィルノは、マルチチュードに見られるシニカルな態度について、要約すれば次のように述べています。シニカルな態度は「事実」ではなく「規則」を経験して「規則」に根拠がないことに気づくことを通じて獲得される。彼らは、個々の「ゲーム」のなかに「直接的な自己実現の場」だけを見る。「この自己実現は野蛮で尊大なもの、要するにシニカルなものとなる」(廣瀬純訳『マルチチュードの文法』月曜杜、2004年、163頁)。「直接的な自己実現の揚」だけを求めて野蛮で尊大に振る舞っている代表的なマルチチュードこそ「ネトウヨ」と言えます。
(23)在特会  「在日特権を許さない市民の会」。この名前を口にするだけで胸糞が悪くなる醜悪で最低の連中。相手にせず無視するに限る。
(24)関東軍の暴発  1931年9月18日、満州事変勃発。関東軍の暴発に呼応するかのごとく、マスコミもこぞってこの軍事介入を支持。とりわけこれまで満蒙への不可侵を唱えていた朝日新聞が豹変して、軍部の独断専行を社説で追認、全面支持したことは今や有名な話です。しかも社説ばかりか、「満蒙における我が権益擁護と治安維持のため重大任務に服しつつある満州駐屯軍将士を慰問しよう」と読者に呼びかける慰問金募集のキャンペーンを行い、それに呼応し、読者も熱狂、どんどん慰問金がよせられることになります。東北大震災の義援金が集まるのと同様、国民の自発的意思に基づくものである事はいうまでもありません(岩川隆『ぼくが新聞を信用しないわけ』潮出版社、1996年、127頁を参照)。
(25)リスクヘッジ 金融工学たらいう高度な数学的モデルを駆使して高いリスクを低くできるという魔法のような話だったが、実はリスクを細切れのミンチにして少しずついろんな金融商品に混ぜて大量にばらまいただけで、リスクが狂牛病であったため全てが汚染されてしまいました、みたいな話。
(26)「このまま何もせんほうがエエ」  映画『日本沈没』(1973年版)で、総理(丹波哲郎)が、戦後日本の政財界を陰で操っていたフィクサー渡老人(島田正吾)とやりとりするシーンがあります。渡老人は、日本沈没後の日本および日本人の行く末について、最高レベルの僧侶・心理学者・社会学者を集め、三つの意見書を作成させた上で、実はこの三人が最後にたどりついた意見は同じものだったと総理に伝えます。それが、「このまま何もせんほうがエエ」です。つまり一億一千万(当時の日本の人口)は、すべて日本列島と運命を共にするというものでした。日本人にとっては、ディアスポラとしての過酷な運命を辿るよりは、まだ死の方がましということなのか、あるいは、生き延びようとする営みが、様々な争いを生んできたことから、そのまま死を受け入れることも自然であるということなのか。何とか問題や運命を解決せんと足掻くのか映画の基本的なモチーフであるのに、このセリフは真逆であり、今でも耳に残っています。
(27)無為自然  老荘思想の中核になる概念です。自然の第一義は、「他者の力を借りないで、それ自身の内にある働きによって、そうなること」で、ここでいう「他者」とは、「人為」すなわち人間の作為です。それをしないわけですから「無為」となるわけです。世の中が乱れているからといって、道徳や法律を強化したり、強いリーダーを待望したりすることはかえって逆効果でますます混乱を大きくするというわけです。そう考えると「原発」などとは、人為の最たるもので、必要以上のエネルギーを追い求めた結果が、今回のような惨状をもたらしたことを考えると、「何もせんほうがエエ」を再考した方が良いかも・・・。

荘子( BC369年 頃 - BC286年 頃)


(28)六ヶ所村でチューリップを・・・ 「花とハーブの里」(http://hanatoherb.jp/)参照。
(29)アイヒマン実験  実験者の名前を冠した「ミルグラム実験」が正式名称です。「盗み、殺し、暴行を心の底から嫌っている人でも、権威から命令されるとこれらの行為をわりあい気軽にやってしまう」のは何故かという、「服従の心理」のメカニズムについての大規模な実験を行ったものです。俗称としてアイヒマン実験と呼ばれているのは、アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪、とりわけアウシュビッツのような大虐殺を犯したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか、それとも平凡な愛憎を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものかどうかを明らかにしようとしたわけです。「被害者(サクラですが)に電流を流す」という恐ろしい設定の実験ですが、結果は大方の予想を裏切って、苦痛や拒否を被害者が訴えても相当数の人が電圧を上げたというものです。こんなことが出来るのですから、現実に、何らかの共同体の利益が、他者に危害が及ぶ可能性が予想されても、無視してしまうのは当たり前なんでしょうね。(S・ミルグラム『服従の心理 アイヒマン実験』岸田秀訳、河出書房新社、1980年を参照)。最近このアイヒマン実験が映画化されました。『アイヒマンの後継者‐ミルグラム博士の恐るべき告発‐』(2015年)監督はマイケル・アルメレイダです。余談ですがこの監督『アナーキー』(邦題)なんてシェークスピアを元ネタにしたギャング映画を撮ってます(笑)。

【出典】https://love-spo.com/sports-lab/syakaisinri006.html


(30)自然エネルギーを普及する運動をしている人 「ひと 被災地に太陽光発電を扱げる原発被災者坂上尚之さん」『朝日新聞』2011年7月16日。
(31)フランスのアナ連とその声明  フランス・アナーキズム連盟Fédération anarchiste。1945年から続く、フランスで老舗のアナーキズム組織。オルタナティブ・リバータリアンとかCNTとか幾つかのアナ系団体が福島事故に対して声明出したり、記事を書いたりしていましたが、ここでは一例として、自分が見た限り一番反応の早かったアナ連の声明を翻訳しておきます。「ニジェールなど現地の住人たちに何ら益のない、アレバによる自然資源の収奪、チェルノブイリからの放射能雲がフランス国境で止まったことにしたあの秘密主義、放射性廃棄物輸送列車への抗議活動に対する警察による弾圧、これまでの経緯をみるに原子力は、資本と国家のおぞましい関係を陰鬱なかたちで示してきた。/日本で地震によって数万の命が犠牲になった。だが、それでは足りないかのようだった。悲嘆にくれているところへさらに原子力の恐怖がおそいかかったのだ。スリーマイル、チェルノブイリの事故後の当局と同じく、日本の当局は危険の重大さを最小限に見せることを選び、原子力ロビーの利益のために未来の世代の健康を犠牲にしようしている。嘘がなくなるために、一体どれだけ同じことが繰り返されなければならないのだろうか。2011年3月の被曝者たちは、一体どれだけ甲状腺がんにかかり、亡くなるのだろうか。どれだけの農地が途方も無い年月にわたって汚染されるのだろうか。どれだけの人が移住しなくてはならないのか。またどれだけの人々(貧しい人々だ)が、現地にとどまり、じわりじわりと苦しみながら死んでいくのか。かくして、日本の人々は、核エネルギーの有害さの両面を味わうことになった。第二次世界大戦末におけるアメリカの軍事核による外傷は、福島の非軍事核発電所の事故においての帰結として予想される外傷と、惨禍として同じものである。/アナーキズム連盟にとって核は、警察の権威主義の上に築かれる社会を生み出すものであり、住民から自らの生活のあり方を選ぶ自由を、エネルギーを生み出し活用する方法を選ぶ自由を奪うものである。日本の人々は、世界の世論の圧倒的多数と同じように、そうしたことに反対するようになっている。望まない者たちに核を強制する手に負えない連中どもへの闘争を、グローバルなレベルにひろげるべき時なのだ。エネルギー問題は、問題を生み出す経済システム自体の消滅によってしか解消できない。あるものにはむごいほどエネルギーが欠乏した状態を強いながら、あるものにはエネルギーをとめどなく用いることを許すシステムそれ自体の解消である。社会革命のみが、アレバとその擁護者たる国家を消し去ることが出来るのである。社会革命のみが、より合理的で節度のある自主管理によって自然資源を用いる条件を創造するのである。アナーキズム連盟は、この方向への活動を続けるだろう。3月15日 アナーキズム連盟」
(32)漂流コミューン 例えば、1992年の外洋ヨットレースに参加した「たか号」が転覆し、船長一名が死亡、残った6人がライフラフト(救命いかだ)で漂流します。転覆時に非常食料の大半は失ってしまったために、わずかばかりの食料を均等にわけなければならなくなります。「ビスケットは、一日に一枚。それを六片に割る。そうすると一つが親指の爪ぐらいの大きさになる・・・」「一滴でも多く水は飲みたかった。私もそうだし、みんなもそうだった。しかし一日20ccと決められた量以上を飲もうとするものは一人もいなかった」。ライフラフトの空間は非常に狭く、しかも空気が抜けるためにさらに空間が圧縮されるという高ストレスの中、「・・・食い物と飲み物に関していえば、我々は喧嘩するようなことは一度としてなかった。このような逆塊の中、最後までみんな立派なシーマンだった。弱った者にはきれいな水を飲ませたりもした」。
 リーダー役は、転覆前から、ヨットマンとして経験値の高い人が担っていましたが、その人は、自身が衰弱していく中「俺が死んだら、皆で肉を食ってくれ」というような人でありました。このようにして、時限的な相互扶助的なコミューンが成立します。ただ、それが成立したのは、まず極限下における「死」と、日常での「ヨット」「シーマン」という文化が共有化されていたことは否めないでしょうが(佐野三治『たった一人の生還「たか号」漂流二十七日間の闘い』新潮社、1995年)。

【例】ライフライト(救命いかだ)
【引用】https://www.onze.co.jp/index.php?main_page=product_info&products_id=1256


(33)『救命艇』 ヒッチコックが1942年に作成した映画です。Uボートに撃沈された人々と、Uボートの乗組員が文字通り呉越同舟するお話で、前述のたか号よりは、コミューンの条件は、階級差、敵味方の対立関係があり悪いです。その中でどう相互扶助していくか、リンゴならぬ食料、水をどう分配するかが当然出てきます。まあヒッチコックの映画なので漂流コミューンが成立すると映画にはならないわけです。

ヒッチコック『救命挺』のワンシーン


(34)相互扶助論  ロシア出身のアナーキストであるP・クロポトキン(Pyotr Alexeyevich Kropotkin, 1842-1921)は『相互扶助論』(ロンドン、1902年)の序文で、生存競争のことだけをいやというほど聞かされてきたから、あえて人間の相互扶助を強調したのであり、相互扶助は「進化」の要因の一つでしかない、と書いています。その趣旨から言えば、相互扶助にこだわりすぎるのもよくない、ということになるのでは。

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