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第二章 アナーキズムを蹴っ飛ばせ ‐蘇る奥崎‐

【解説】この対談は、2005年12月、関西某所でやったもので、『アナキズム』誌8号(2006年)に掲載されたものです。特集は「DIY いま・ここで・自分たちで」でしたが、全く意識してませんでした。対談で取り上げられた『アナキズムFAQ』と浅羽通明『アナーキズム』は、三人でお酒を飲んだりメールでやりとりするなかで話題となり、「これだけおもしろいから対談を出してもらおう」ということになって『アナキズム』誌に誰かがお願いして掲載されたのではないかと思います。なお、のんきちさんがイラク戦争に反対してアメリカ領事館の前でビラ配りをした、という話がありますが、のんきちさんと乱さんは「廃戦ごろにゃん倶楽部」という超脱力系の運動に加わっていたそうです。大阪のアメリカ領事館の壁にブッシュの変な写真のスライドを映したり、『ニッカン廃戦』という変な新聞を出したり、「なんでやねん?」というツッコミどころ満載のご活躍でした。この対談、読み直してみると、すごく不真面目そうに見えて、当時『アナキズム』誌に掲載された記事の中で唯一「アナーキズムってなんだ?」と問いかけています。(タ)

 出席者】=小谷のん、【】=乱狡太郎、【】=タナカ

 
超アナーキスト奥崎謙三について

奥崎健三さんです


の 
2005年アナ界を振り返るからにしましょうか(注1)。まず奥崎謙三から始めたいと思います。奥崎謙三死去したわけで、年表見たんですけど、この人何やろうなと・・・いまいちつかみどころないんですね。奥崎謙三って(注2)、AINの滓添君から聞いたんですけど、ラジオ番組に原一男監督(注3)が出ていて、奥崎が出所後続編もとってほしいと言ったら、原監督はもうイヤって言ってたらしいんですけど(笑)。
乱 奥崎はカメラを意識してそれに合わせてどんどん「演技」していくらしいよ(注4)。あれは本来ドキュメンタリーだから、奥崎がしていることを原監督が付き合って撮っていくわけでしょ、そうじゃなくって撮られていることを前提に行動していくという。ノンフィクションなのにフィクションをリアルでやってしまうというのかな。で、出来たものがノンフィクションという倒錯(注5)(笑)。

ご存じ原一男監督『ゆきゆきて神軍』(1987年)


タ 彼の頭の中にその時そういうシナリオが先にできちゃっているのかな。僕も、一緒に見てた人も「感動したな~」なんて感想もっちゃったのは、戦死した戦友のお母さんを広島に訪ねて一緒に「岸壁の母」(注6)を歌うシーン。あれも、その瞬間出てきたフィクションなのかな? しかし、もし計算してやってたらあれはすごいな~。あれ見て、「やってることは無茶苦茶なんだけど人間的にヒューマンだ」なんて感動してた人いました。あそこに彼の本質があるんだ、なんて言ってましたね。
の ヒューマンなんですかね。彼がほんまにヒューマンなんかどうか・・・イデオロギー的にすごいつかみどころないでしょ。
タ 彼の言っていることは本に書いてあるでしょ。たしか、「血液をきれいにする」とか・・・。
の そうそう、血液溶解(注7)なんたらと・・・ぼく、昔『宇宙人の聖書』(注8)読んでいて、この人どういう人なんやろなと思って(笑)。『田中角栄を殺す』(注9)とか読んでてなんやろなあと思ってて、つかみどころが・・・そういう意味でアナーキーといえばアナーキーなんだけど、そういう部分で言えば、ある種政治的なんだけど非政治的やったり、イデオロギー的なのに非イデオロギー的だったりとかいうような対抗軸があって、なんとも言えないような・・・。

『宇宙人の聖書』です。付録が『風柳夢譚という凄さ


タ 原一男という監督も、お金とか予算の問題があるから制約があるのに、思い通り進められないわけじゃない、奥崎が目茶目茶なこと言ったりやったりするから。映画監督という芸術家の枠組みが、奥崎の枠にはまらないというか、芸術家以上に奥崎が芸術家みたい(笑)。例えば、言っていることに首尾一貫性がないとか(笑)。でも、彼は行動したり発言しながら、正当性を作っていっちゃう。自分で首尾一貫性みたいなものを。それは、イデオロギーではないんだけど・・・なんて言えばいいのかな、・・・自己主張なんだけど、それはそこで「筋を通す」ということかなあ・・・。
の そうそう、たぶん基本的にあるのが、「筋を通す」とこやと思うんですよ、奥崎の場合は。上官をなぐる時でも誰かに確認してから、僕がこうやってこう思うからいっちゃいますよ、でしょ。それでいっちゃうんやけど、でもそれは、「筋を通す」というところなんでしょうね。
乱 客観性というのかなあ・・・意外に醒めてるというか・・・数々相手を襲撃してるんだけど(笑)。周旋屋殺害事件(1955年)の時でも、事の前に対象の周辺の人たちに「✕✕さんはどんな方ですか?」なんてリサーチしているよね。引き揚げ船の船長を刺す時でも、船長の食料横領の事実を調べ、その見合う暴力の程度を査定して、計画実行しているしね。すぐ血気にはやってとか、そういう直情的なとこがない(注10)。
タ もう一つ不思議なのは、彼がやっていることは全部、ある意味では政治的に見えるんだけど、でも、政治活動をする人は、普通は徒党を組んでやるでしょ。仲間と組んだり、党派を作ったり。その上、原理原則を固めてやるじゃない。それに比べると、奥崎の場合、アナーキズムかなと思うのは、街宣車に乗ってもせいぜい奥さんとか、あとは監督使ってやったりするけど、基本的には自分一人でやっているところだよね。おまわりさんと対峙しても、あれは自分でやってるわけじゃない。強いなと思っちゃうね(笑)。
の そうそう。一人でやるって大変よ。あれは凄いかなと。
タ 神戸に住んでいて、それで車に乗って皇居に行ってるわけでしょ、「あれって何?」って感じ(笑)。
の ああいうところはやっぱり凄いよね。
乱 自宅にもずっと立て看板掲げてたよね(注11)。
タ もちろん彼とは違って、黙って「筋を通す」という人もいる。むかし聞いた話ですが、大杉栄とかと同じ頃に運動やってたおじいちゃんがいて、彼は毎日自分の家の前をほうきで掃いていて、それが「行動による宣伝」である、と言うんだって。その人なりの「筋の通しかた」らしく、大正時代のアナーキストはそういう「筋を通す」人がいたという話を聞いたことがある。たしかに望月百合子さん(注12)とか見てたら、「そうかなあ」と思って。しかし、奥崎みたいにたったひとりで行動して「筋を通す」ことはできないじゃんって、思ってしまう。
の ぼく、イラク戦争とかで、アメリカ領事館の前で抗議とかしたんだけど、一人だとすごい負担ですよ。もう一人いると全然違ったと思うんですけど、相談とかも出来るし。一人だと怖いですよね。全部責任負わないといけないし、当たり前だけど・・・仲間がいると頼るんですよ、たとえば三人だったらタナカさんとか、乱君という具合に、一人だと全部背負わないとダメでしょ、だから奥崎って偉いなあって、なんで出来るんだろうかと。戦争でえらい目にあった人一杯いてると思うんです。奥崎だけやなしに、でも奥崎みたいに出来ないというかなれへんというか、それというのも一人で出来へんからかなあって、なかなかしづらいからっていう部分はあると思うんやけどね。そういう部分で戦争の責任というのを追及していくというのが、日本人とか関係なくグローバル的に誰もしてこなかったのを奥崎はしてるみたいな、ということなんかなあ、まあ他の国にも奥崎みたいな人がおるんかどうか知らないけど。
タ あれは奥さんがいるからかなあ、って思うところもあるんだけどね。
の それはやっぱりあると思うけど・・・。
タ でもやっぱり基本的には自分で判断してるかな?
の 奥さんいてもできないですよ、奥さんと一緒に突っ込んでるわけじゃないから・・・。
タ うん、奥さんは見守っているだけだよね。でも警察に連れて行かれれば、ついていったり裁判所に行ったり、刑務所に行ったり・・・。
の あの奥さんえらいから。
乱 『ヤマザキ、天皇を撃て!』読んだら、けっこう若い時は悩める青年で、独りで考えて、自分なりの論理を設けて、その論理に基づいて行動していく、という人だったみたいね。

名著「ヤマザキ、天皇を撃て!」(三一書房) 1980年


タ それが的を外していないところがいいとこかな。たしかに人殺しちゃっているけど。でも、彼は「こんな奴死んでもいい」と思っているわけじゃない。天皇でもそう。人殺しは悪いというもう一方の「筋」があるみたい。だから天皇撃つときもパチンコにしているわけでしょ。でも悪いことをした人は罰せらなければならないんだとか、それが罰せられない仕組みになっているから自分がやるんだとか、みんな「それはその通りだよね」と納得する理屈だよね。
乱 たしか、侍従の日記に書いてあったと思うんだけども、本当は天皇とかその周辺が恐れていたのは、最前線から生きて帰った人が、身を挺して糾弾したり行動したりすることを恐れていたというんだね。集団でなく個人でそれをやったのは奥崎しかいなかった。でも奥崎の場合は、「あれは変な、狂った人で安心した」というようなことが書いてあった。それで済ませているんだけどね。
タ 詩人で元軍人の井上さんという人がやってるサイトがあって(注13)、彼によれば、日本軍というのは、兵隊にいうこと聞かせるために徹底的に暴力使ったんだって。まあ、今では想像できないけど。だから、兵隊は抑圧されているから反抗できないようになっている・・・はずなのに、その人が大阪で史料みたら、軍隊の中で反抗したヤツがいたんだってね、そいつらみんなヤクザ。
乱 勝新(注14)の『兵隊やくざ』だな。


タ そう。でも、最終的にみんな殺されちゃうんだけど、まあ管理職の上官がどうしようもないんだけど、そいつらが悪さしても注意しなかったから増長して、そいつらを南方の戦線に移動させるという命令が来たから反乱が起きて、武装して暴れ出した。それで鎮圧されて、上司は責任取らされるわ、そいつら全員銃殺刑になったんだけど。そういう記録が残っているって、めずらしい例だって。そもそも日本軍の中で反抗が起きること自体が不思議だって書いてた。
の 奥崎だってそういうことを注入され続けてきた人なわけでしょ。ヤクザでもないのに、何で彼ができるわけ?・・・なんて思うけど・
タ 中井久夫(注15)が書いているんだけど、彼が震災についての講演をしたら、戦争体験のある精神科医の長老達が聞いていて、講演のあとで「戦争も同じだった」なんて話をしてきたらしいね。日本の軍人は黙して語らず。戦場のことだったら「良いこと」しか言わない。「悪いこと」言ったらそれは「良くないこと」だという考えがあったみたい。ヨーロッパでは第一次世界大戦後から、自分の酷い体験をトラウマとして語り始める。「戦争ってひどいもんなんだ」という「語り」みたいなことは、どうもそこからはじまってる。ところが、日本の場合は日清と日露以来、「良かった事」しか語らないわけ。震災の後、ようやく「ああ被害は語っていいんだ」というコンセンサスが出来てきた、ということなのかな。要するに、奥崎がああいうことするの凄いことなんじゃないかなってことなんだけど。日本軍というのは個人というものが抑圧されてたから。反抗できたのは、死を覚悟でやっていたヤクザぐらい、ということかな。
の ヤクザで思い出したけど、京都の千本組(注16)って、アナキストヤクザっていわれてるんでしょ?
乱 笹井末三郎のことやね。大杉を初め様々なアナ人脈とも関係のあった人だよ(注17)。ヤクザ映画顔負けのエピソードもあるし(注18)。

千本組三代目組長にしてアナキスト、映画人の笹井末三郎氏

の アナキストヤクザってこの人だけじゃないかな、朝倉喬司(注19)が言ってたんだけど、ヤクザってなんやかやといっても金で動いているだけで、任侠みたいなのは足尾銅山の時に政府に楯突いたヤクザぐらいで他はほとんどいないと、もう自分らのために動いているだけでだからアカンと。
乱 でも自由民権運動の時は博徒なんかも主体的に参加しているし(注20)、笹井に大杉をつなげた中村還一なんかと親交のあった高槻の堤松次も博徒で、警察の手先になった博徒仲間と対立してでも労働運動家やアナーキストをかくまったりしているよ。
の ああ、ほんと?
タ 幕末から明治あたりまでなんかもそうだと思う(注21)。ヨーロッパとかロシアの場合もそうだけど、大きな変革があったり、暴動起きたりしている時になぜかマージナルなやつら、危ないやつらが先頭立ってアジったりしている。それがなぜかというのはよくわかんない。
の そういう部分はあるのかな、でも基本的には今やったら企業社会みたいになっちゃって、ヤクザかて、ホンマは弱い人助けなあかんのに強いものになびくでしょう。例えば、チッソの時やったら企業側の味方しちゃうとか。「それ、ちがうやん」って言いたくなるよね。そりゃ向こうのヤクザは金で動いているだけやから、金になりゃそれでいいんやろけど。バブルの時は地上げして弱い者をイジメて。でも実際は違うとこもあるでしょ。矛盾してるよね。
乱 それだけでもないみたいよ。戦後のドサクサに、ヤクザが保守地盤の強い地域で地方自治抑えちゃった。なんせヤクザが市議会の警察委員のポストを手にしたんだからやりたい放題(笑)。猪野健治に言わすと、やくざは「体制内市民社会の秩序を拒絶した被差別階層の叛逆のトリデ」。だからアナーキストが窮民革命を模索したなんていってるけど、そんなもん当時のアウトロー集団がリアルにやってのけていた、なのに当時結成されていた日本アナキスト連盟なんかは全然そんな動きをよめてなかったってね(注22)。の もうそろそろ奥崎問題に決着つけましょか、こればっかりになっちゃうから・・・。
乱 結論? これじゃ、そんなん、でないやろ?
タ 結局は、戦前の日本人のメンタリティー、そこからはみ出していた個人、ということかな。それから、はみ出していた個人が、アナーキストっていう看板掲げてた人じゃなかったってことだよね。ほんじゃ、戦前のアナーキストはどうだったのか。まあ、天皇なんかを殺そうとした人もいたとおもうけど、たとえば、石川三四郎。大沢正道が言ってたんだけど、敗戦の時、天皇が詔勅だしたらみんながへへえって武装を解除したから、「こりゃすごいな」と思ったのかどうか知らないけど、石川はそれで天皇革命を考えたんだって(注23)。

人生航路師匠にちょい似ている石川三四郎(1876-1956)


の 石川はどういうつもりなの?
タ 大沢説だと、とにかく石川は、「天皇はすごい」と思った。で、日本人が天皇にコントロールされているわけだから、ということなのか、天皇を上に立てれば革命が出来るから、まず天皇を上に立てろ、と考えたらしいね。アナーキズムには関係ないみたい。
乱 なにそれ(笑)。
タ 石川は権力に対してまともに対峠していないじゃない、奥崎みたいに。直接唾を吐きかけるみたいな。牢屋に入っているし警察の監視対象だったけどね。でも、権力に直接行動で楯突いてひどい目にあった人もいたわけでしょ。彼らと石川は違った、ということかな。
の それで言えば、戦時中に秋山清なんかが、すげえ転向しているわけじゃないですか。僕は転向は仕方ないと思う。ああいう時代やし、自分のイデオロギー貫くには難しいのはわかる。実際それをやってたのは辻潤ぐらいで。彼以外は、みんな黙ってたり転向して、それを戦後に反省しなければならなかったのに、なぜかみんな押し黙って「私はずっとアナーキストでいました」なんていうのはズルイなと思う。石川三四郎は、戦時中どうやったのかな? 誰か知ってる?
タ たしか、戦争前までは今の世田谷区あたりで畑を耕していた。それで土民主義の実践をしていた、ということらしいね。戦時中は、よくわからないけど、山梨に疎開してたんだって。それで、戦争が終わったら上京してきて天皇に会いに行った、ということみたい。
乱 僕も戦時中のことは知らんけど、戦後になって神社の本書いているよね。
の アハハハ知っているよ。
乱 土着のもんに弱かったんじゃないの。
の アニミズムに?(笑) でも天皇は?
乱 石川は天皇制というより、天皇ヒロヒトに弱かったらしいよ(注24)。
の 石川はともかく、秋山なんかはけっこう戦争を煽るようなこと書いてて、戦後は頬かむりして、どうも信用できへんとこがあるな。でもお前がどうやねんと言われたら、僕だって同じことしていたかもしれへんし、でも後だしジャンケンみたいには言い方にはなっているんだけど、アカンものはアカンと違うやろと。抑圧されてそうならざるを得ないというのはわかるけど、でもそれなら、戦時中はこうやったけどね、それはやはりいかんかった、戦争はいけないと言えば良いのに、それは違う、私は何もしていない、みたいなズルイのが嫌やな。それは奥崎流にいうなら筋を通してないと思う。奥崎が秋山見てたら、ドツかれるなり殺されるなりしていたと思うんですよ(注25)。
タ でも、あの時代、戦争に反対するということは、単に国家権力に対峙するという事でなくて、全日本を敵に回すという事だよね。
乱 国家権力だけじゃなく国民もそれに乗ったわけでしょ。マスコミも散々煽ってたし、そういうのは、国民と利害が一致する部分もあったからかな。例えば満州国とか、社会主義者たちも参画してたじゃない。日本よりも自由にやれる部分もあってさ。「五族協和」幻想もあって、日本はダメだけど満州ならうまくいくような「主義者」たちもいたんでしょ。アナーキストたちだって、中に入って協力していたんじゃないの? 怪しいスローガンに乗っていって、そういう帝国主義に自ら委ねていった部分もあるんじゃないの。
タ 奥崎とかは、日本軍全体の中でも、一番汚くって人に見せられないところで、戦争やらされていたわけでしょ。ほぼ全滅で、死にたくなければ、戦友殺してそいつを食べる、とか。
乱 結局、日本軍って、ほとんど餓死していったっていうよね。

捕虜になったやせ細った日本兵たち(1945)


タ そういう厳しい現実を目の当たりにして、しかも、偶然にも生き残ったわけだから、その恨みというものは、すごかったのだと思うけど。彼は、戦後に投獄されてから気がついた、って言ってるけどね。いったいどうして自分はこうなってしまったのか、って考えたらしい。投獄される前は赤線も行ってたけど、投獄されてからは一生懸命考えて。で、その時に至った結論は、「わたしはエライ目しましたわ」じゃなくて、「責任者出てこい」ってことだった。
の 自分も悪い事して責任取らされた。けど、だったら、それをやらせたやつだったら、もっと責任取るのは当たり前や、という理屈なんだろうね。だから天皇の責任を追及しているんでしょう?
タ ようするに、「天皇がいけない」と誰かから言われて「そうかな?」なんて考えたんじゃなくって、自分で考えて結論だしているんだよね。
の 石川と対比して考えたら、石川は単に「革命さえ出来たらいいんだから、天皇をかつぎ上げたらエエ」という理屈。奥崎は違って、「一番の責任は天皇だから、天皇をやっちゃわないといけない」という論理。石川と奥崎のこういう違いは、石川がインテリで、奥崎が非インテリだからなのかな?
乱 というよりも、個人で、自分で組み立てて考えていく生き方と、最初にイデオロギーがあってそれを押し立てていくスタンスの違いじゃないの? 北一輝みたいに天皇全然信じていないけど利用してやろうというのは、僕はそれはそれで良いと思う。だから、左翼だとかの権力を奪取してやろうとする人たちは、それをきっちりやらないとね。でも実際には、それが出来てないからダメなんだと思うよ。
の ちょっと待ってよ。すごい疑問に思ったのは、天皇担ぎ上げて革命起こしたら、革命後どんなものが生まれるの(笑)。
タ たぶんねえ、天皇なんて形があってないようなものだと思うんだよね、当時の日本人にとって。
の 石川は一応アナーキズム革命なんでしょ。
タ たしか天皇無政府主義革命?とか、よくわかんない・・・。
の アハハ~。
乱 だから、天皇なんて、本当はどうでもいいんでしょ。権力を奪取する理由が、口実がいるわけよ。それはフィクションで良くって、みんながそうだといえる幻想の共有化ができれば良いんとちゃう?
の それは、コミュニズム革命ならそれでもいいかもしれないけど、アナーキズムでしょ。
乱 日本の場合、コミュニストたちがむしろそれをやらないのが問題だよね。
 いやあコミュニズムから言っても矛盾でしょ。
乱 権力取る為ならどんな手段使ってもいいんだよ。反天皇制の為に南朝担ぎ出してもいいんだよ。
タ え~!?  何それ~???
の また無茶苦茶言ってるよ。このへんで奥崎問題は打ち切らんととんでもないところに行きそうだよ(笑)。次のテーマ行きますね。

 
『アナキズムFAQ』批判

アナキズムFAQの日本語版『アナキズム読本』(2006)です。


の 
いきなり話は変わりますが、AIN(注26)のFAQが出版されるでしょう?それで、あのFAQについてぼくは、ずっと「あれでいいのか?」と疑問に思っていたわけで、ちょっと取り上げたいんだけど・・・。
タ これでしょ?
乱 あ、それですよ。ネットでダウンロードすると分厚くなりますよね~誰が読むんでしょ?(笑)
の それねー、中を見てくださいよ。僕なんて個人主義的傾向が強いので、どうしても「変だ!」と思ってしまう。例えばジョルジュ・パラントは社会自体を問題にしているんですよ。ところが、FAQ見たら、アナーキズムは、政府とか国家とか政治的な部分しか問題にしていない、という印象が強いのですよ。FAQの「セクションA2」なんか読むと、そういうぼくの見方も間違ってない、って思えるんだけど、そのあたりついてはどうかなあ?タ 僕の知っている限りだと、アナーキストが社民と論争し始めるのは、1880年代。アナーキストはそれまで社民を「国家社会主義」といって非難してたわけ。ところがね、エンゲルス(注27)が『空想から科学へ』を出すと、何とそこには、マルクスの究極目標は、やっぱり「国家なき社会」だ、って書いてあるわけ。社民の中で国家社会主義でいい、と思ってた人は混乱したと思うけど、アナーキストから見たってわけわかんないよね。「え~?うっそ~!!! 社民も国家なき社会を目指すの~?」という感じ。これが1880年くらいで、ちょうどマルクス(注28)が死ぬくらいの時。

カール・マルクス(1818-1883)


の 柄谷なんかも、そんなこと言ってるよね、マルクスもアナーキズムだった、なんて。
タ そう。でも柄谷は、エンゲルス、というかそれを利用しているレーニン(注29)と言ってることは同じじゃない。それに対するアナーキストの批判は、1870年代の第一インターあたりで随分出てるよ。ひとつは「過渡期」論に対する批判。「おまえら、国家をなくす、とか言ってるけど、ほんじゃ何で過渡期作って権力にぎるんじゃ! それが目的やろ!」というのが代表的。
乱 目的は手段を正当化する、というのがマルクスだけど、アナーキストにとっては、目的と手段は一致する、ということなのかな。
タ ああ、そういえば、わかりやすいかな。そういう前提があったから、アナーキストとしてはこう批判したわけ。「国家をなくすための手段だから権力が必要だ、なんて理屈が信用できるか! 権力をにぎりたい、なんて言う奴はそもそも信用ならん」と。
の でも、社会の問題はどうなるわけ?
タ 結局、僕が知っている1880年代の議論は、こういうことかな。たとえ国家がなくなって共産主義社会が出来上がったとしても、あいつらのつくる「国家なき社会」と、アナーキストの作る「国家なき社会」は違う、という議論。ここで、国家をどうするか、じゃなくて、国家なき社会の社会論、ということになるわけ。アナーキストにとっては、国家をなくせばそれでいい、ということではなくなったの。権威主義的に作られていく共産主義社会は結局官僚がいて支配があるじゃない、という指摘。柄谷なんか、これには何にも答えてないけど、まあ、これは答えようがない話かな。
乱 まあ、アナーキストなんて、所詮「壊し屋」さ。だから、「世界共和国」(注30)なんて関係ないね。
の でも、う~ん、もしタナカさんが今言ったみたいに、アナーキズムは「国家をなくせばそれで終わり」という思想じゃなくって、「社会」をどうするのか、ということが重要、ということになると、ぼくはアナーキズムの定義がわかっていなかったのかな、と愕然としますけど。
タ どういう定義なのかな? 僕の方が間違ってるかも。
の ぼくなりには、アナーキズムってやっぱり国家と政府、そして、それに付随するポリティカルな問題だと思ってたから。だったら、僕はアナじゃないな、って思ったんですよ。むしろぼくは、たとえばシュティルナー(注31)やパラント(注32)みたいに「俺は社会がイヤなんじゃ」みたいな言い方の方がよくわかるわけで、共感してしまうんです(笑)。
乱 そら、単なる人間嫌いとちゃうん? 人間嫌いは良いけどね(笑)
の そうかもしれないけど(笑)。でも、もっといえばアナルコ・サンディカリズムなんてクソやと思うわけ。
タ そんなこと言ったら誰かに殺されないか~?(笑)
の だって、あんなもんあったって、自分には関係ねえやと思うから。結局、こういう話って、ぼくの考えている組織論につながっていくんですけど、ぼくが思うに、人間がやっている共同体的なもんはやはり邪悪になっていくんとちがうかな。まあ、変な言い方になるけど、善と悪ではないけど、まあパラントはニーチェ左派とか言われてたんで「善悪の彼岸」になるのかな(笑)。それはともかくアナーキズムの定義ってなにかなあ?ということで二人に聞きたい。もっとも二人がアナーキズムを代表しているわけでもないけど(笑)。
タ さっき言ったけど、19世紀ぐらいで、すでに、国家や政府をなくしてしまえば良いという問題でなくなってしまっているから、当時から「アナーキズムの定義」って難しかったんじゃないかな。さらに問題がややこしくなっていたのは、タッカーという個人主義が出てきて、共同体的なものを目指すアナーキズムを相当批判したわけ。タッカーは(注33)、社会を虚構だとか書いているけど、それは、押し付けられた社会なんて認めないぞという意味で、彼にとって、すべては個人から始まるんだけど、実は、社会の構想はしている。例えば彼は地域通貨みたいなのを考えてて、各個人が自由に通貨を発行すれば良い、国家や銀行が独占しているのがいけないんだと言ったりしている。暴力革命にも反対で、ストライキやボイコットみたいな非暴力抵抗主義。彼の師匠のひとりのプルードン(注34)に近くて、国家をどうやってつぶすか、じゃなくって、社会をどうするかってことを中心に考えるの。「個人主義的アナーキズム」の定義をするなら、そんなところから考えないといけないかなって思う。
の 個人主義なんて言ってても、ぼくから見ればずいぶん社会主義的なところがあるようだけど。
タ これは、前の対談(第一章を参照)でも議論になったけど、「個人」というものを想定した時点で、もうそれは「他者」というものを前提にしているじゃない。タッカーとか個人主義者が国家なき社会のことを描いていたのも、当然じゃないかな、と思うんだけど。自分がどうやって生きていくか、なんて言ったとたん、他者、つまり家族なり、誰かを「個人」の相手として想定せざるをえないじゃない。パラントだって、シュティルナーだってそれが絶対に出てきているわけだし、人間対人間の関係をどうするのかってことは、個人主義者だからこそ考えないといけないんじゃないの?
の 夕ッカーの話が出てきたとこで、ようやく本題に戻せます(笑)。で、「セクションA1-2」のとこで、こういうところがあるでしょ。「個人主義アナキズム、ベンジャミン・タッカーはいう『アナキストは、国家の廃止と不当な利益の廃止を主張する。人による人の支配も、人による人の搾取も止めなければならない』」。こんなこと書いてあるんですけどね。これ、パラントとタッカーは同じ個人主義、もっともパラントは個人主義だけでアナーキストじゃないんですけど。これが個人主義的アナーキズムとインディヴィディアリズムとの違いかなと思うんですよ。タッカーはけっこう限定的だと思うんですよ。それに対してシュティルナーやパラントは、すべての社会が気にいらない。たぶんアナーキズム革命があった後の社会も気に食わんというとこがあると思うんですよ。たとえばニートが、アナーキズム革命以降に生き生きと生きられるんかというと、そういうことはないと思うんですよ。
乱 アナーキズムはやはり、近代国家の成立と不即不離の関係になっているんじゃないですかね。その近代国家を批判する時に、前の段階の社会の在り方を是とするみたいな。
の それはわかるんだけど、ぼくが言いたいのは、どんな社会であっても、すべての個人、みんながよりよい社会で生きていける、みたいなことって絶対にないと思う。
乱 それはそうだけどね。僕も以前、個人主義ではなく「理想の社会」の構想を考えてみたことあった。現行市場とは違ったシステムを作って、そこに固有の貨幣、地域通貨みたいなものを流通させるみたいなことしたらどうかな、なんて思ったんだけど。でもそんなこと考えたのは、「国家を否定するんなら、その後のこと考えないといけないだろう」と思ったから。でもそれってやっぱり間違っているんだよね。
タ 多少マシっていうのはあるかもしれないけどね。
乱 でも、マシって言ってもねえ。それで、ある人たちの希望を満たすことはあるかもしれないけど、そうじゃない人たち、例えば、もっと欲望がでかい人、もっと派手な暮らしがしたい、という欲望のある人なんかには、僕の描いた「理想の社会」では無理なんでね。となると、結局そういう「理想の社会」に合わない人たちを追放したりしてしまいかねない。だったら、そんなん考えるのやめた、と思ったんです。
の 話をもとに戻すと、「セクションA1―2」で、いきなり最初に「アナキズムは政府のない社会システムである」と出ているんだけど、システムでいいのかなあ!?(笑)。おいおい、いきなりシステム認めちまってるよ! おまえ達が考えた「より良い制度」が、「誰にとっても良い制度」だってことでしょ? こんなの本気で言ってんのん(笑)・・・これはどう考えていいの?
乱 国家に対する代替案ってことだけど、今国家が担っている機能を、代替案を主張する人たちが全て把握していることが前提だよね。
の それだけで権力機構が発生していると思う。
乱 それはそうで。それに、これってすべての人のニーズを満たせると考えているわけでしょ、それもおかしいと思うけど。
の そうだけど、なんで「システム」なのかなあ?
乱 まあ、それが可能だと思っている人には、今からでもやって見せてくれ、なんて思うけど。
タ 「A1-2」を読むと、アナーキズムは破壊するだけでなく、クリエイトするもんやと言いたい、ということがわかるね。「あなたは何を作りたいんですか?」という質問に対する答えだと思う。つまり、アナーキズムは色んな批判を受けてきたわけでしょ。「お前ら人殺して暴力ふるって好き勝手やりたいだけだろう」って今まで散々言われてきたでしょ。それに対して、「いやいや私たちは、私たちだけでなく、みんな含めてどうやったら良い生活できるか考えているんですよ」と答えなくちゃならないわけ。そしたら「じゃあ、お前は何を考えているんだ?」と言われた事に対する一つの答えかたなんでしょう、これって。「今は悪いとこありますから、無くすとこうなりますよ」という。
の タナカさんの言うのはわかるけど、初心者なんかが読んだら「アナーキストはシステム認めている」みたいに読んじゃうから、この書き方は稚拙だと思う。これ自体がFAQなんだから驚いちゃって・・・今までAINのメンバーもきちんと読んでなかったなと(笑)。
乱 大体さー、FAQっていう「解答」を与える形式そのものが問題だよ。標準化しちゃってさ。
の それ言うと論評することが自体が意味をなくてしてまうよ。そういう「ちゃぶだいがえし」みたいなこと言うのやめてください!(笑)。

ちゃぶだいがえし


タ 例えば、四段目に、スーザン・ブラウン(注35)の言葉が出ているでしょ。この人はフェミニストであり個人主義者で『ポリティックス・オブ・インディヴィデュアリズム』って本書いてて、現代のアメリカで生きている人。その本から、次の文が引用されている。「アナキズムの中にある連帯の精神は、ヒエラルキーや全体の支配に対する全般的な批判であり、個人の自由の為に喜んで戦う意志の現れである」って。ここで言っているのは、アナーキズムがなんなのか、ってことじゃないのね。アナーキズムにアイデンティファイしながら、自分がどうやってこの支配の中で闘っていくか、という精神がアナーキズムにある、ということなんだよね。この指摘はすごくまっとうだと思うんだけど。
乱 それがFAQの冒頭にあるならまだわかるよね。
タ 冒頭に出てくる「システム」を目標にしているクロポトキン(注36)なんかは、やっぱり19世紀の革命家なんだと思う。革命を起こしたあとでどうやってシステムを作っていくかっていうパラダイムについては何も疑問をもっていない。ロシア革命以降になると、事情が違うんだよね。マックス・ネットラウ(注37)というアナーキストの歴史家が、ロシア革命が起きたあとで、こういうこと書いている。ロシア革命の「悲劇」を見てしまったからには、今度革命が起こってしまった後どうするか、という問題に、アナーキストがそう簡単に答えられなくなった。でも、おそらく、権力を握ってシステムを作るのか、それとも、自分たちの間だけでできることから始めるのか、という、大きく分けて二つの選択肢があるって。で、ネットラウは、後者がアナーキストの選ぶ道じゃないか、と言っている。要するに、革命があった時に色んな実験をさせてもらう、色んな工場や協同組合を作る、そういう実験ができる権利がない革命だったらだめでしょうって言ってる。ロシア革命前と以降では話が違うんだと思う。クロポトキンは大ざっぱに言っちゃうと「ロシア革命前の人」だから、革命が起きればアナーキズム社会が自然にできる、という言い方しかしていないのだと思う。

マックス・ネットラウ(1865-1944)

の なるほど。じゃあ、ここで初めて聞くんですけど(笑)、タナカさんは「セクションA1-2」で何が問題だと思うんですか?
タ これ、色んなもの入っているでしょ。最初にクロポトキンの「システム」、その次に来るのが、私有財産と政府の廃絶、というマラテスタ(注38)の言葉。それからバクーニン(注39)の「社会主義なき自由は、特権と不公正である。また、自由なき社会主義は、奴隷制度と暴政である」という言葉。こういうのは、全部後ろの方にもっていく方が良いと思う。むしろ最初にもってくるべきなのは、下から三段落目以降の「アナーキーとは何か」という文章。そういう定義については、ここより前の部分で書いているのに、ここで話が飛んでしまっているような気がする。

ピョートル・クロポトキン(1842-1921)
エルリコ・マラテスタ(1853-1932)
ミハイル・バクーニン(1814-1876)

の まず、アナーキーの定義を最初にもってくるっていうことかな?
タ そう。まず、アナーキーという言葉が持っている本質的な意味が始まりでしょう。そこからアナーキズムの色んな多様性が出てくるわけじゃない。たとえば、ある人はアナーキーと言ったら支配がないことだから、じゃあ政府をなくしたらいいのかもしれない。でも別のある人は、私には家族が「支配」だから、とかダンナが「支配」だから、あいつを無くせばいい、となんていうヴァリエーションもあるでしょ。
乱 「支配が無い」という言葉が、色んなイマジネーションを生み出すわけですね。
タ うん。それがアナーキズムの多様性につながって、その多様で統一しないところが、アナーキズムの生命力になるんだと思う。
乱 システムとか政府を無くす、ということに限定させちゃあいけない、ということですか? じゃあ、政府をなくせ、というだけのアナーキズムもあるし、私有財産もシステムだからなくせ、というのもあり、資本家を殺せという考え方もアナーキズム、ということになりますね。アナーキーという言葉から、いろんな人がいろんな考えを作るけど、それがみんな違ってくる、というのがおもしろいけど。でも「支配がない」というのは共通項でありつつ、実はなんだか共通項にもならないような気もしますね。
の じゃあ、このFAQがね、まあスタンダードとするなら、ぼくがさっき疑問を呈したように、アナーキズムというのは政府だけを問題にしているのかどうか、というところはどうですか?
タ 政府だけを問題にしている、ということではない。
 「そうではない」っていっても、やっぱりこのFAQでは、たとえばパラントがとらえた「社会」だけを問題としているわけではなくって、やっぱり、国家を破壊すればそれで何とかなる、みたいな、ずいぶんノーテンキなアナキズム革命みたいなのを想定していると思うけど。
タ そうですねえ、スーザン・ブラウンが書いたことを引用してるところだけ見ると、FAQは、インディヴィデュアリズム的なアナーキズムを射程に入れているようにも思える。ところが、やっぱりアナーキズムは本当のところはクロポトキン的なものなんだ、という書き方でしょ。そうなると、破壌してもそのあとで創造しなければならない、ということが前提になっている、というか、そういう責任感で書いているような気がする。
乱 要するにアナーキズムに耐えられないってことでしょ。
の そんなことないやろう。
乱 いやいや耐えられないんよ。だいたい、創造していくって答えのないことでしょ。創造していくということはイメージを掻き立てることから始まるんだから、そういう文章でないといけないはずで・・・。
の いや、耐えられないんじゃなくて、アナーキーなりに、創造しようとしているから間違った方向に行ってしまうんじゃ・・・。
乱 だからさ、それを実体化、公式化しようとするから間違うわけや。
タ たとえば、イマジネーションの中でのクリエイト、ということなら、実害はないでしょ。アナーキズム小説みたいなのを書く人がいるじゃない。サイバースペースやSF小説の中でのアナーキズムを実現しようとする人もいる。こういうのは、「実現しなさい」なんてかたちで提示されるプログラムではないのね。書いている人たち自身は、「これは頭の中での創造ですよ」ということが明らかなように書いている。でも、みんなに想像力を与えているんだよね。

cyberpunk-city


乱 奥崎さんみたいに人生全体にわたってアナーキーを展開するか、あるいは一回だけ反乱を起こすか、あるいは頭の中で考えただけ、そういう様々な形を個人に与え続けるのがアナーキズムと違うんかな。色んな可能性を示すということかな?
タ 奥崎さんの映画見て、「やっぱり彼みたいに法律を破ることはよくない」なんてこと言う人は、右翼や保守的な人でなくても、いっぱいいると思うわけ。そういう人は、「警察はこの為にあるから必要だ」とか「国家はこの目的のためにあるから必要だ」とか、「世の中の秩序はこういう風にあるのだから、あれはやるべきで、これはやるべきではない」とか、言うでしょ。ところが、そういう人たちに対して、「いやーそうじゃないんじゃない? 法律破って何でわるいわけ? 警察なんて役にたたへんでしょ?」というのかアナーキズム。お互い支配がない方がうまくやっていけるんじゃないというのがアナーキズムの問いかけだから。ところが、「A1―2」を書いている人は、非常にシステマティックなユートピアを作りたいという発想の人で、日本のFAQを作ろうとして翻訳した人もそれに合わせているわけ。
の だからかなあ、もう最初っから、ぼくなんかが読むと、すげえイヤな感じなんですが・・・(笑)。
タ この10年以上の間に、ポスト・アナーキズムとか、ポストモダン・アナーキズムとか、そういう本が一杯出ているけど、大体それは、すべての人間の間に権力関係があるっていうフーコー(注40)あたりからの議論でしょ?

ミシェル・フーコー(1926-1984)


の そうそう、だから家族もダメ(笑)。
タ そんな状況で僕たちがアナーキズムと言った時に、政府とか国家をなくしただけでアナーキー、ようするに「支配のない状態」が達成される、なんて話は誰もついていけないわけじゃない。ところがこのFAQは、フーコー以前の、非常に古臭い枠組みで書いてあるんじゃないかな。
の っていうか、なんでこんなこと書いてあるのかなという疑問があって(芙)。


「アナキストは組織を容認するのか?」について(FAQ A2ー3)
の 
今度は「組織」についての解説を取り上げたいと思います。この部分で疑問があるのは、「良い組織」やったらええ、権威的、権力的な組織でなければアナーキストは容認してるよ、みたいなこと書いているけど、ほんまかいな? というものです。例えば、ブクチン(注41)なんかの言葉が引用されているでしょ。そこで彼が言っている「有機的社会」というのは、たぶん原始共産制みたいなこと言っていると思うんだけど。でも、そんな昔の共同体がみんな奴隷でもなく良い社会やった、なんて幻想やん。それが「有機的社会」でよかった、なんて言われたって、えっなんで?て感じ。
乱 そもそも、そういう感じで「組織を語る人」にとっては、「悪い組織」なんてないんだよ。だって、組織の構成員にとっては、自分の所属している組織はすべて「良い組織」なんだから。良い悪いを言っても仕方がないんだよ。「悪い組織」というのは外部の人間が言っているにすぎないやん。
の それもあるけど。ただ、ブクチンが「有機的社会」なんて幻想描いてるでしょ。いつも人間がそういう幻想持っちゃうものだから、「良い組織」なんて発想が出てくるんかな?
タ この説明も、古典的なアナーキズム批判に対するひとつの回答のパターンだと思う。どういう批判かって言うと、「アナーキストって個人主義で勝手で人の迷惑かえりみない人だ」というもの。ここのセクションは、そういう古典的な批判に対する、これまたやや古典的な反論だと思う。
乱 誰が批判しているんですか?
タ 社民やら共産党かな。レーニンの「左翼小児病」というのがあったでしょ。ロシア革命が始まった頃に出た『国家と革命』で、彼はアナーキズムに良い顔してるんだけど、そのあと、アナーキズムとかは「左翼小児病」だ、わがままで協調性がない病気だ、あいつらとんでもない、と手のひら返したように言うわけよ。そのレーニンの批判に対してどう答えるかが、この50~60年間の課題としてアナーキズムにはあった、ということじゃないかな。
乱 つまり、「こいつらは人と仲良くできない奴らだ」という批判に答えようとしているってことですね。それはでも、「人と仲良くすることは良いことだ」ということを前提としてるわけね。
タ そう。ただ、FAQで引用されているいろんな人たちの反論の仕方っていうのは、人と仲良くすることは僕たちも認めていますけど、あんたたちが言うことが人と仲良くする仕方じゃないでしょ、というものでしょ。「連合主義」とか反中央集権的組織とか、そういうやり方だったら組織は認めます、と反論している。でも、社民はさらにこう批判しているんじゃないかな。あなたたちアナーキストがいうやり方だとみんなバラバラになってしまって、社会の中で個人がアトム化してしまう。個人がアトム化すると、殺し合いを延々と続ける社会になる。これはホッブズ(注42)のいう自然状態だ。お前たちはそれを目指しているんだ。要するに、おまえ達は、自分の利益の為に一生懸命になる奴でしかなくって、それはブルジョワだ。資本家と同じだろう、と。こういう「アナーキストは資本家と同じである」という発想に対抗するには、アナーキストは組織を否定していない、人間の連帯を否定していませんよ、と言わなきゃならなくなる。
乱 なんだ、そんなバカな質問に一々答えてるわけ?そんなのに答える必要ないじゃん。
タ そうそう。
の じゃあ、タナカさんはここでどういうとこが問題と考えているの?
タ 個人主義的な発想を全て否定しているとこ。
の アハハハ。
乱 そんなに「良い組織」があるというなら作れよ。
の それ言うと、いわゆるアナーキストの人たちはアウトノミア運動とか、デンマークのコペンハーゲンにあるクリスチアニアがそうじゃないかと反論するかな。日本から見たら、たしかに理想に近いかなとも思うところもあるけど、でもそれで万人が救われるかと言えばそうではない。それに、極端な話をすれば、北朝鮮より日本の方がましとか、アメリカの方がまし、とかいう話をする人もいるじゃない? 反米とか米帝とかなんやかや言って、アメリカがマシってなんだろうと思うけど(笑)。
乱 北はイデオロギーによって統制された社会じゃないの。いわばイデオロギー勝ち組社会。アメリカはまあ経済勝ち組の社会だよね。それやから管理しきれない部分が出て来るんでしょう。
の ブクチンの言っている「良い社会」は、経済じゃなくてイデオロギー中心でしょ。そんな「良い社会」やってたら、どうなるわけ?
乱 そんなのとんでもない社会に行き着くに決まっているやん。結局、イデオロギー勝ち組の「金正日の社会」がなれの果てです。大体、誰かにとって「良い社会」作ったってさ、それが嫌だ、っていう人どうするのっ? 結局、収容所に入れるか思想改造しか手がないやない。
タ このFAQの説明ねえ、アナーキズム革命が達成された後の社会っていう前提で書かれているじゃない。だからおかしい。社民とかから、それは空想(=ユートピア)社会主義だ、って言われたものじゃない。で、ユートピアをこと細かく構想することをマルクスがどう批判したかというと、結局、資本主義の中でいくらコミューンを作ったところで、社会構造の中に埋め込まれちゃっているからそんなんできっこない、というもの。頭の中でこさえたって、自分たちが、そういう社会構造の産物なんだから、思い浮かぶものも、たかが知れている、ということ。
乱 はじめっからシステムの中に取り込まれているから、単一のシステムの中に別のシステムを作ろうていったって、どだいそれは無理で、作ってみたところで、いずれ崩壊しちゃう運命にある、ってことでしょ?
タ そう。だから、マルクス的な発想だと、社会が全体として革命を経験して構造が全体として変わらないと、そんなん無理だ、ということになるわけ。そこででてくるのが、プロレタリアートによる独裁。これで古いシステムをこわして新しいのを作るんだ、ということになる。
の それででききるのが金正日システムやったら、アナもボルも同じやん。
タ そこでクロポトキンなんかは、「いやいや、過渡期なんか必要ありません。民衆が蜂起してから一日か二日で、こういう組織が立案されて、一週間たつとそれがうまく動くようになります」なんて説明してる(注43)。
の ハハハそれはどうするの?
タ 彼はパリ・コミューンで説明するの。パリ・コミューンの時、女性や子供が出て来て、軍隊は彼らに銃を向けられない。女性なんかから、「大砲をどけてください」とお願いされちゃうと、「ハイハイわかりました」と言って全部撤退。すると、パリにはコミューンが出来ました、という筋書き。その間一日か二日、とかそんな感じでクロポトキンは説明するわけ。この幻想に、この百年間、アナーキストは振り回されているの。革命後に新しい社会を作らないといけない、なんてことじゃなくって、今の社会の構造の中で、どういう連帯が出来るか、ということが出発点のはずなのに。ブクチンの理想社会論だって革命後の話でしょ、結局。

パリ・コミューン(1871)


乱 だから、社民や共産主義者相手に話したって仕方がない、ってことでしょ。トヨタと日産だって非難合戦しないじゃない。どちらが優秀とかさ、車作ってれば、ユーザーが気に入った方を買うわけでね。
の でもCMなのよ、このFAQ(笑)。
乱 はあCM? やるんだったら隣のおっさんにもわかる話をせいよ。このごろさあ、ボルだか元ボルだかしちんけど、「私は元々アナでした」とか、ンなの蹴飛ばせよ。相手にするなよ。勝手にやってろ、って言いたいね。
の 柄谷行人先生とか(笑)。
タ みんな19世紀的発想だね。今どう連帯をするかでしょう。なんで革命の話だったり、革命が実現したら、って話なのかな。21世紀にそんな19世紀のことなんて想像できないじゃない。
乱 「フツーの人」に話かけろよってこと。
の FAQはネット上にあるものだから、素人の人に話しかけていると思うけど。
乱 いやあ筋もんオンリーでしょう。この書き方何とかならんのかね。

 

 「アナキズムは個人主義なのか集団主義なのか?」について (FAQ A2ー1ー3)
の 
このセクションは、そんなに違和感なかったけど。今までに比べたら、言うほどではないかな。
タ ただ、この問題は、アナーキズムの痛いところでしょ。今風の「リバータリアン」とどう違うねんという問いに答えないといけないから。
の それはすげえ疑問。
タ モスト(注44)なんかから見れば、タッカーは単なるブルジョワ。金もうけしたいんだろう、財産もちたいんだろ、とモストはタッカーやその仲間を非難していた。ブルジョワの発想は「俺が俺が」だから、あいつら人のことはどうでもいい、自分の家があって、土地があって家族がいればいい、と思っているんだ。だが俺たちは違うぞ。俺たちは貧しい労働者で、工場で働いて、お互い助け合うぞ、なんて。でも、実際には、タッカーとかは、主張が違う人でも、他人がひどい目にあってるとき、その人の権利を擁護していたから、連帯の発想に基づいていたと思う。
の 「個人主義」か「集団主義」か、っていう議論は、ぼくにとってはどうでもいいかな。ぼくから見れば、アナーキズムなんてみんな「集団主義」の側にあって、アナーキズムのなかに個人主義なんてカテゴリー、存在しないから
タ そうかな~? 私はそうは思わないけど、この前の対談で決着つかなかったから、もう一度やります?・・・でもこの話をし出すと、前の対談の蒸し返しになるし収拾つかなくなりそう・・・。
乱 ほんじゃ、やめときましょ。酒がまずくなるし、同じ話だったら聞きたくないわな。葬式の時に聞かされるお経みたいなもんやから。
の ぼくが寺の坊主と同じ、いうこと? その発言は許せへんな~(笑)。
タ 次のテーマ行きましょ、次・・・。

 

 「アナキストは、『社会革命』ということで何を意味しているのか?」 (FAQ J7)
の 
じゃ~、気を取り直して(笑)。FAQのセクション「J7 アナキストは、『社会革命』ということで何を意味しているか」についてです。ここで言われているように、アナーキズムが、最終的にアナーキズム革命を目指している、ということについて、ぼくにとって納得いくと言えばそうなんだけど。でも、ぼくはシュティルナーの影響受けているんで、革命なんて言われても、「単に制度の変換やん、何やねん」みたいな感想しかないんですよね。タナカさんはどう思う?
タ 八段落目ぐらいにランダウアー(注45)の言葉が出ているでしょ。僕はこの引用、重要だと思う。「国家は、革命が破壊できるものではない。国家は一条件、人間間のある種の関係、人間行動の一様式なのだ。我々は、別種の関係を契約することで、違った行動をとることで国家を破壊するのである」。これはね、その前に引用されているドウルティ(注46)が言っている事と全然違う。ランダウアーの主張は、こういうことでしょう。今自分たちは何かを始めることが出来る、そのために、自分たちは資本主義の中のガン細胞を創り出してみてはどうだろう、そのガン細胞が資本主義を破壊する可能性がある、って。そもそも「革命は国家を破壊できない」と最初に言ってるんだよね。これは19世紀的な発想を打ち壊してしまうものなんだと思う。19世紀以来の発想だったら、マルクス主義もアナーキズムも、資本主義はこういう仕組みで成り立っていていずれ崩壊するものだ、その崩壊に向けて我々は徒党を組んで頑張っていくんだ、ということになる。この考えは、今も根強いと思うけど、ランダウアーは20世紀初頭には、そんな全体の枠組みを前提にしても何も起きない、と言っている。首相や大統領、天皇を殺して初めてどうにかなる、なんて言っているのではなくって、自分たちにとって、理想的で良い状態というものを、「今」「ここで」創り出す事ができる、と言っている。
の じゃあ、ここで書いてあるのは、国家を破壊するのは暴力ではない、てことですね。それじゃあ「革命って何?」ということになるんだけど・・・。
乱 何?(笑)
タ それは市役所を襲うだとか、天皇を殺すだとか、バスチーユを襲撃して王様に謝らせるとか殺すだとかというのではない。「別種の関係を契約すること」ということ。ここで引用されているランダウアーの言葉、このたった数行はすごく重要だと思う。「革命」って何?という質問に対しては、これがひとつの回答だよね。
の これはそうかなあとはぼくも思うけど。
タ その前には、マラテスタの引用があるでしょ。ここでは、革命がなぜ起きるのか、その条件は大衆の間にある不満とか社会状況についての共通理解だ、と言っている。バクーニン、マラテスタ、クロポトキンなんかが想定している革命、というのは、パリ・コミューンだとかフランス革命なんかで起きた、民衆革命なんだよね。しかし、ランダウアーが想定しているのは、そういうのとは全然違う。
の じゃあ、彼にとっては、そういう革命は必要ないの?
タ 彼は、違う意味での革命が必要、と言っているんだと思う。ランダウアーにとって、革命というのは、天皇や国王の首を切ったりすることではなくて、抑圧された状況で自分たちが何を作っていくかということだ、ということでしょう。
の まだいまいちピンと来ないな。ぼくは、革命といったらまず暴力革命を連想するけど、そうじゃない革命の形態ってこと?
タ そう。一回で世界全体を変えていかなければならないという発想があるけど、そういう革命論とは系統が全然違う革命論。
乱 さっき触れてたマラテスタの引用なんだけど。「抑圧された大衆が(中略)抑圧と貧困に完全に服従することなどない。そしてこれまで以上に、今、正義・自由・幸福に渇望を示している人々は、自分たちの解放を達成するには、全ての抑圧されている人々との、世界のいたるところで搾取されている人々との、団結との、世界のいたるところでと連帯に依る以外にない、と理解し始めている・・・」。こんなこと、ほんまかいな?って思う。断定的過ぎるんとちがう?
の 断定的やけどある種当たっているところあるんと違う?
乱 「正義・自由・幸福に渇望を」だけど、とりわけ「正義」なんか求めているかなあ?
の 乱君は、ニーチェ(注47)の「善悪の彼岸」みたいな意味で「正義」を使いたがらないんでしょ。それはわかるけど何らかの「正義」もあっていいんと違うの?「悪」でやってますとは言いにくいでしょ。そういう君だって何らかの自分の信じている「正義」でやっているわけでしょ。ブッシュの行動に「NO!」と言ったりしてるわけだし。
乱 僕は「悪」でいいよ。自分のしていることが普遍的に「正しい」なんて思ってやしないし。
の そうかなあ。こういったらなんやけど、普通のサラリーマンの人なんか、「イラク戦争って何ですか?」みたいなもんだよ。ぼくのとこの職員さんなんかでも、「アフリカで1日4000人の子供達が死んでますよ。どう思う?」と聞いても「えっー? そうなんですか?」みたいな。乱君なんて、そういう人らと比べたら「何が正しいことなのか」みたいなものを意識的にあれこれ考えているほうやないの? それで、そういう「正しいこと」についての感覚が、連帯と行動を生み出す、というのがマラテスタの趣旨やろ? でも、そういう感覚、今の社会だともちにくくなっているんとちゃうん?
タ 特に豊かな社会に住んでいると、抑圧だとか貧困だとかは、遠い世界で起きていて自分とは関係ないもののように思うのが普通じゃないかな。「関係ないでしょ」という人たちには、「関係あるよ」という場合、大変長々と説明しなくちゃならない。例えば、エビとかバナナとか、百円ショップで売られているもの、ダイヤモンドとかの話をする。あるいは、ケータイの中にもアフリカの鉱石が使われているんだよ、日本で生きている僕たちの生活は、みんないろんな人の犠牲の上に成り立っているに過ぎないんだよ、という話をする。そうして初めて、「みなさんはこういう話を知ってましたか?」と聞く。「知りませんでした」と答えるから、そこで「でも、もう知ってしまったわけだけど、それでも、関係ない、って答えられます?」と聞くと、「関係はあると思います」となる。そこまで説明しないとわからない。
の でもね、関係があるんだ、なんてわかったにしても、日常的にはどうかなあ・・・僕とこなんか福祉の現場なんで敏感にならないといかん立場やのに、なんぼ言うてもわからんなあ・・・敏感じゃないことが悪いとはいわへんけどね、そんな人にどうすんのん?
乱 そりゃサラリーマンのみならず、たとえば僕の周囲のマイノリティの運動家たちも、自分らの人権以外に極めて鈍感だったりするよ。
の 乱君、君が言ってるのは、それは一部の人らが言っているだけのオタッキーな世界だからなおさらでしょ。
乱 だから、さっきのマラテスタの引用にもどると、そういう僕らの状況から考えれば、理解できないでしょ。抑圧された大衆が、「正義・自由・幸福に渇望云々」なんてきれい事言うわけないやろ、となる。書き換えるとすれば、「大衆は、抑圧された不都合な立場から解放されたいとする己が欲望のために徒党を組む。その結果が他者の搾取や不幸となるかどうかは知ったことではない」となるかな。これだったら理解できる。
タ 言わなくてはいけないことは、革命をして社会を変えなければならないとか、それはこういう問題があるからだ、なんてこと言えるのは、極めて少数の人だ、ということ。いきなり説明なしに「革命だ」なんて言っても、理解されないのが普通ですよ。
の ハハハ。
乱 2ちゃんねるなんかの差別発言している連中もそうだけど、ニートだったりひきこもりであったり社会では底辺でしょ。
の そうそう。アフリカで1日4000人の子供達が死んでいることより、「電車男」の方が泣けるんよ。そんなもんよ世の中は。パラントはそういう世の中がイヤでイヤでたまらんかった。

世界の飢餓人口は8億2,160万人(9人に1人)(2018)

 郵政で自殺する議員はいても、イラク戦争では死なんもんね(注48)。の 言えてる。コイズミ靖国行っても自殺せんわな(爆笑)。
 人間は本質的にこうだ、なんて言いたくはないけど、大衆社会になってきて、そうなってきているのは確かだよね。大きな政治的な問題はわかりにくくなっているし、自分の生活が何によって成り立っているか、なんてこと、普通の人にとってはどうでもいいわけで。
 そうすると、革命とか何だかを考えられる人は極めて少数になるのが当たり前、ということでしょうね。
 だからアナーキストはずっと、一生懸命プロパガンダしろって言ってきているわけでしょう。わからない状況でも、わかるようにしなければならない、って。なんだかわからないうちにホームレス化していく人はいっぱいいるでしょ。その人たちに対して、「もう少し考えなさいよ、理由はあるんだし、やろうと思えば権利を主張もできるんだから」と訴えかけてきたわけでしょう。もちろん、「権利は主張しても、社民や保守系の議員に訴えたり取り入っても何になるのよ」って話になっていくけどね。
 この日本て、裕福だけどむちゃくちゃな矛盾抱えたりしているわけでしょ。僕は革命とか嫌いだけど、ほんとに革命なんかが起きて今の体制なんか皆殺しにされたらいいと実際には思うわけですよ・・・。
 のん君、そういう部分では、君自身、矛盾してるよね・・・。
 うるさいわ(爆)。で、FAQのこのセクションには、全体的に階級闘争的なトーンが流れていると思うんですけど。たしかに、アフリカとか中南米なんか、貧困なところは貧困で、1日1ドル以下で生活している人なんて何億といるわけでしょ。それでいうたら、第三世界的な階級は、たしかにあるんやろけど。でも、同じ国家内では、階級なんて想定するのは、いまいち難しいかなと思ったりするんですけど。
 現実に階級があるのか、ていうレベルはわかんないけど、そもそも階級って意識のレベルが重要かな、と思う。例えば「プロレタリア」というのは元々蔑称で「こ汚い労働者」みたいな意味だったらしいけど、社会主義者が意味を転換して、プライドを持たせる言葉として使うようになった。「ブラック」とか、そういう言葉と同じかな。つまり、本当に階級があるかどうか、というよりも、階級として自覚できる人がいるかどうか、ということが前提になるような気がする。「どうせ私なんて」と思っている人々に、労働者階級なんだよ、とか、みんな同じプロレタリアで仲間なんだ、君たちは未来を担っているんだよ、なんてことを言えば、自信を与えるわけ。
 そういう部分では良いのかな。
 プロレタリア、という考え方は、連帯の契機なわけね。あの人もプロレタリア、私もプロレタリア、だから連帯して一緒にやっていけるんだ、自分は一人じゃないんだ、という感じかな。個人的にはなじめない考え方やけど(笑)。
 ぼくがちょっと気になるのは、このFAQ、一方ではコミュニズム批判してるのに、コミュニズムと同じように階級闘争を論じていっているような感じがして。コミュニストからみたら、アナーキズムなんてプチブル思想なんだかルンペンプロレタリアの思想なわけで相手にされないわけでしょ。じゃあ、なんでアナーキズムのほうが、FAQなんかの中で、階級闘争なんて、コミュニズムみたいな発想にこだわらなあかんの?
 プロレタリアとか階級という発想にこだわるのは、革命の必然性を説明しないといけないからだと思う。革命の必然性は、19世紀だったら経済発展とかで説明されていた。そこから階級が必然的に出てきて、自分が階級だし、お互いにも階級だ、つて意識が生まれて連帯が生じて、そいつらが反抗して革命が起きる、というような筋書きがあるわけだよね。

資本制における階級

 その筋書きに乗っちゃっている場合は、そういう筋書きは認めざるを得ないわけね。
 そう。革命の物語に乗るか乗らないか。アナーキズムは19世紀には見事に乗っていた(笑)。まあ、こんな筋書き、マルクスが発明したわけでなくって、もっと前からあったと思うけど。だから共産党の専売特許じゃないよ。で、さっき出てきたランダウアーの発想は、そんな革命の物語はないと言っているわけ。社民のベルンシュタイン(注49)も、修正主義者と言われて非難されたけど、発想は似ている。「いつまでたっても革命なんて起きないじゃん。労働者はどんどん豊かになっていくし」というのが現状認識だった。
 革命が階級闘争でできた、なんてそもそも疑わしい。ロシア革命なんか体制内の将校なんかの恵まれた階層の所産ともいえるし。
 そうだね。そういう階層がないとね、完望な農奴みたいなかからは無理やね。だからレーニンなんてチューリッヒでゆっくりしていたわけでしょ。うまいこといったら帰ってきて、ずるいよね(実)。それで革命後はダラダラ権力層が作られて、いったいなんやねんと・・・。
 階級闘争論をバックにした革命、というのは一つの大きなパラダイム。そのパラダイムがなくなっちゃっても、アナーキズムが存続できるのかどうか、という事を考えないといけないと思う。アナーキズムにとっては、ここは死活問題でしょう。
 そうそう(笑)。
 J7の最後のところで、社会革命というのは、「長年にわたる社会闘争の最終産物だ」と書いてある。つまりここでは、「やがて革命が起きるんだ、革命が起きた後は、新しい物語が始まるんだ、それがユートピアなんだ」と言っているのでしょ。でも実は順序が逆だと思う。「ユートピアは必然的に到来するのだ」というパラダイムが先にあって、だから社会革命は必要なんだ、という結論が出されている。
 でも違うでしょ。ユートピアなんて結局実現されないよね。だけど、アナーキストは支配されたり支配するのがイヤだから、社会闘争を続ける、ということでしょ。
 ぼくに言わせれば、支配が無い社会は良いなとは思っているけど、革命までやってくれなんて期待はしていないよ。
 奥崎は、そうじゃないんだよね。天皇がいない社会が良いと思ってやっているんじゃなくって、俺がイヤだからやっている。の その発想が良いよね。
 だったら、アナーキズムは反革命になるよね?
 そうとはいいきれんやろ。アナーキストが戦後共産党に大量転向したのは、革命の可能性があるからや。大正のアナ・ボル論争もそうやけど。革命ってすげえことでしょ。タナカさんが言うようにすげぇパラダイムやし。 革命がすげえかねえ。
 そりゃすごいよ。
 ぼくも含めて、アナーキズムに魅せられた人たちは、そういう幻想に操作されてきたことはあるかもしれないね。それは認めざるを得ないかな。クロポトキンの書いた『パンの略取』を読んで、ああこうなったらいいなと・・・そういう理想社会みたいなものを(芙)、一度は考えたことだってあるでしょ?

「パンの略取」(1892)


の そりゃ、革命で「東大出のエリートは皆殺し」とかあったら、すごいパラダイム・チェンジと違うの!?
乱 矛盾するかもしれないけど、僕は、革命やテロリズムをアナーキズムが手放しちゃいけないとは思っているよ。
の ならぼくみたいに「すげぇ」と思っていいんとちゃうん? それともそれとどっか違うんか?
乱 僕の言うのは、「計算するな、暴動や反乱を、無秩序にし掛けろ」という意味で、革命は手放すな、ということやね。革命後の世界の組み立てとかそんなん関係ないよってこと。
の 暴動は否定しないけど、革命は違うものにシフトしていくことやから、そんなことでは、いかんとちゃうん?
乱 いや「正しい」と思っちゃだめよってこと。ボルは思ってもアナは思うな。
の いや「正しい」というのは、必要でしょ?
乱 破壊そのものは良くても、何かができるとか達成されるというのがアカン。達成めざしてできたのが北朝鮮。
の けど仮にぼくらが革命で天下取ったら共謀罪とか無くせるでしょ、あんなおかしな法案。イシハラの野郎もどうにか出来るわけでね。
乱 官僚やイシハラを川に浮かべるのは良いとしても、それをシステムにしちゃいかんのよ。
タ なんか「革命で天下取る」という話からは、ちょっと離れたいんだけど・・・(笑)。たとえば女性の権利も、この二百年ぐらいで変わったでしょ。二百年前なんて、男女同権なんて信じられない社会だったけど、そういう社会の中でも、同権にしたらこうなるよ、とイマジネーションを働かせた人はいた。それがここまできたわけじゃない?
乱 常に同じ主張し続けて革命を目指す人たちがいたから、ここまで権利が認められるようになった、ということ?それはどうかわからんけどね。
タ そうとも言えるでしょ。革命といっても色々あって、市庁舎を襲って市長を殺す革命もあれば、自分が死んでも次の世代に引き継いでもらえばよいというのもあるんじゃない?
の ぼくなんて、戦争が無い社会にしたいとか、貧困をなくしたいとか考えるけど、「それは百万年たっても無理じゃない?」と言われてしまうから、そういう発想を全部受け入れられへんなあ。
タ だけど、百年とか二百年かけてやっていくのが伝統芸能じゃない?
乱 でも、それはある意味無責任。第一、客がそんな芸みたいかどうかわかんないでしょ(笑)。
タ でもね、レーニンみたいに権力握って人を殺して、あいつ責任取ったかといえばとってない。スターリンもそう。さかのぼれば、マルクスがあんなもん書いたからこうなったともいえるけどね。ただ、書いたことよりやった奴の方が責任は重い、という考え方ができるなら、やっぱり「天下取る」よりも無責任に伝統芸能続けていく方が、罪は軽くないかな?
乱 「アナーキストだったらこうしなければならない」「アナーキストならこうしなさい」というのではなくって、抵抗でも反乱でも思想でも、ある種個人の自由にその表現のあり方が付託される、というものなのかなあ。リスクは個人が負う羽目になるかも知れないけど。
タ 少なくとも、「クロポトキンがこう言ったからこうしなさい」というのはとんでもない話でしょ。
乱 そらそうやね。クロポトキンを今風にとりこんだらこうなる、なんて明らかにオカシイ。でもさ、クロポトキンとかの文章読んだりしているうちに、経営目標じゃないけど、「革命」が呈示されているから、今日からそれに向かって進みましょう、みたいな誤読をしていくんよね。文献や言葉として残っているものは、書いた人たちにとっては、あくまで一つのシミュレーションとして見せただけだもんね。次の時代ではどういうことが望ましいか、ということについては、各自の判断が必要だよね。もっとも僕は何も望まんけど(笑)。
タ そう。だから、たとえばさ、「そういうことも確かにあったな」と人生のなかでかみしめるものも革命だ、という考え方もありではないかな?「サラダ革命」じゃないけど(笑)。革命というのは、言葉とか行動や態度が生み出すもので、それで自分の周囲が変わっちゃった、というときに、「ありや、これは革命かな?」と思うようなもんじゃないの? 産業革命なんて、リアルタイムではそんな言葉も認識もなかった、という話だからね。
の じゃあ、これまでアナーキストが、旧来型のものではない、新しい革命観を呈示できなかったのが悪かったのかな。古典的なロシア革命みたいなのを引きずってしまって。
タ 大切なのは、「こういう革命もあるけど、ああいう革命もありますよ」という感じで、イマジネーションをいかに呈示していくか、だと思うけど。
乱 イマジネーションの革命性ということだったら千利休の例があるよ。
の また独自の世界に行こうとしてる!(笑)次のテーマに移ります!
タ そのやり方は革命的ね。

 

 浅羽通明著『アナーキズム』批判
の 
浅羽のアナキズム批判から行きます。
乱 あの駄本ね。
の ちゃんと言えよ、駄本で終わったら話す必要ないやんか(笑)。
乱 失礼しました駄本ちゃうわ。ア本でした(芙)。
の タナカさん、前に浅羽批判していたよね。
タ まず、アナーキズムとは何か、ということについて、何いってんだか良くわかんないのに、なんで「アナーキズム」が論じられるわけ?という点を挙げたいですね。
の もうちょっと具体的に言うと?
タ たとえば、セックス・ピストルズ(注50)の、「アナーキー・イン・ザ・UK」とジョン・レノン(注51)の「イマジン」の比較してるじゃない。「イマジン」は非常に理想主義的で現実感のないメッセージ。これに対して、ピストルズの「UK」は、破壊のメッセージ。浅羽によれば、アナーキズムの本質はこの二つなんだって。
の それもなんかねえハハハハ。
タ 浅羽は、本の中でこの二つを一貫して追及しているわけでもないからさらにわけがわかんない。「イマジン」の部分を言っているのはクロポトキンで、「UK」の方はバクーニンだ、という類型化をするわけ。
乱 さすが学参職人、まとめがうまい!(笑)
の そんなん、誰だって両面もってるやん!
タ あとね、少年が人質を取って立てこもってしまう、みたいな事件を例にしながら、「それがアナーキズムです」みたいなニュアンスでなんとなく書いている。一貫してそう言っていないところが、ずるいなあと思う。しかし、そこだけ見れば、浅羽の「アナーキズム」観は、けっこうはっきり出ている。要するに、社会に合わせられないワガママな人の考え方なんだ、という定義だよね。彼の基本はそこにある。だったらそれで一貫させれば?と思うけど、そうしていない。その結果、何が言いたいかよくわからないけど、いろんなことが書いてあったね、という感想を持っちゃう。
の まあ誉めるわけやないけど、かなり調べるのは調べて書いてあるよね。ボノー団(注52)まで書いてあるのはすげえかなと。

ボノーの写真(1910)と警察記録(1912)

乱 のんきち君が前やっていたサイトでも見たのかな(笑)。
タ でも、60年代以降の教養だと、ボノー団あたりは映画にもなったんだし、知識として入ってても当然じゃないかと思う。ただ、それをアナーキズムに入れる根拠がどこにあるのか、ということが問題。結局、さっき言ったように、「わがままでみんなにあわせられない困ったちゃん」がアナーキストだ、ということだから、何でも入るでしょ。
乱 なんともええかげんな・・・と言いつつそういうのは嫌いやないけど(笑)。
タ でもさー(笑)、だったらそう書けばいいのに書いてないの。「困ったちゃん」の話がどっかにいっちゃうわけ(笑)。それに、現代日本の様々な状況にコミットしているわけでもないし、プルードン、バクーニン、クロポトキン式の説明やめるんだ、なんて書いているけど、じゃあ、あんた何が新しいのよっ?て聞きたい。で、「新しい」ものとして持ち出してるのが、キヤプテン・ハーロックって・・・それ何?(笑)。
の 随分厳しいなあ(笑)。
乱 松本零士(注53)。浅羽は、キャプテン・ハーロックを「指導者を理想化したヒーロー」って言ってるけど、元々松本作品としてあのヒーローは無理があるんでね。すべてはダラダラゴロゴロするための脳内妄想なの。しかしこの脳内妄想さえ自ら創造できることに気づいたら消費も労働もどーでも良くなるというラディカリズムに行き着く。なのに浅羽は、「脆弱さ」「無力さ」という読みにずらせていく。なんか見え見え。もっと深読みすると、ひょっとしたらこの本、これからアナーキズムが流行りだすんじゃないかという予想のもとに書かれたんじゃない? 目的は、その蔓延を予防すること。つまり、治安対策なんじゃないの、あの本の狙いは。
の アナーキズムが流行るかねえ、どこかの変な京大教授もそんなこと言ってたけど。
乱 保守系の論壇には「アナーキズムが蔓延している」みたいなノリがわりとあるよ、中川八洋先生(注54)なんかも(笑)。
の それはね、89年のボルシェビキの破綻後えらいサヨク学者柄谷行人先生(注55)なんかも、もてはやすからでしょう。アナーキズムが危ないったってアナ人口増えているとは思えへん。
タ でも、自覚的なアナーキストじゃないけど、1999年のシアトルでの反WTO行動(注56)なんかが「アナーキズムの復活」みたいに見られているところはあるよね。あそこに見られる理屈っていうのもアナーキズム的だし。つまり、革命がどうとかというより、今ここでやりたいことをやるんだ、他人の押し付けている秩序に反抗するんだ、というもの。そういう点から見れば、たしかに「自覚せざるアナーキズム」は「復活」している、とも言える。

シアトル反WTO行動(1999年11月30日-12月2日)


の そうか。たしかに、秩序を前提としない人たちが出てきている、ということは僕もそう思う。そういう事態を一番恐れているのが保守だから、保守の浅羽が恐れている、という乱君の指摘は、あたっているのかもね。でも、僕はね、こういう浅羽の新書が出て、一番ふがいなかったのはアナーキスト側じゃなかったのかなと思う。アナーキストが本来書かねばならなかったのに、くだらんサブカルとゴチャゴチャくっつけられてしまったやん。
乱 「若気の至りですんで、まあ暖かく見守って下さい」と世間様に対して勝手にアナを代弁しているのが浅羽だね。一方で、アナはサヨクからもお座敷がかかって、たとえば柄谷なんかがシュティルナーがどうのこうのと言ってるのがそれ。なんでだかわからんけどね。でもアナ側もついフラフラしてんじゃないの。「あら、お声がかかってる」なんて。みんな蹴飛ばしてしまえってね思うんだけど。
の いやだねえ、こういう風潮。でも、アナーキストの側の責任はあるでしょ。
タ 「責任」って、よくわかんないけど・・・(笑)・・・やっぱり出足が遅いよね。『アナキズム』誌をだしたことはよかったと思うけど(笑)。でも、英語の本とかネットなんか見ていると、シアトル以降の反グローバル化運動がいかに新しいか、それが19世紀以降のアナーキズム運動と、いかにつながっているか、とかいう説明を一生懸命やってる。浅羽もシアトルがあったから出さざるを得なくなった、というところがあるんじゃないの?
の シアトルでね、ブラック・ブロック(注57)が出てきたわけでしょ?
タ 連中はずっと以前からやっていると言っている。ただ、表立ってスターバックス壊したりしたのはあれが初めてらしい。あれはグローバリゼーションに対して行動で示したアンチテーゼだけど、「アナーキズム」だったのかよくわかんない。

ブラック・ブロック


の グローバリゼーションに対抗するものとしてアナーキーというものがある、というメッセージでもあったんじゃないかな?
タ そうかもね。あと、運動の仕方そのものが、共産党とか労働組合が中心ではなくって、色んな人が勝手に集まってしているでしょ。そういう運動のやり方そのものが、アナーキズムだという人がいます。しかも、みんなそういう行動にひきつけられちゃった。欧米では、そういう新しい動きを作った人たち自身が自己分析をしている。これもおもしろい。
乱 日本では商業出版社がそういう動きに目に付けたのかな。そんで浅羽に書かせている、ということかな。でも、遅れをとったというか、今までアナーキズムを標榜してやってきた人は何してんだかねえ。
の ぼくらも含めて責任感じないといけないのかもしれないね。それから、ぼくが読んでてイヤだったのは、アナーキズムのロマンティシズムみたいなのが全くないとこ。ぼくがギロチン社(注58)に惹かれたりしているのは、人間関係に魅力を感じているからだけど。そういうところに、アナーキストのすごさみたいなものを感じてしまう。ところが浅羽本にはそういうところは省かれている。
乱 なんせ学参だもん。頭の良い先生が無知な生徒に教えたげよう、ていうのがコンセプト。ところがさ、そもそもアナーキズムというのは、客観的な資料を集めてどうのこうの、と論じられないところの方が大きいわけ。むしろ、個人のバイオグラフィていうのかなあ、そのナラティヴさが真骨頂だと思う。私がどう思いどう感じ何をしたりしなかったり、それを聴いたり知った個人が、それに様々に反応していく、みたいな。だからその個人が束ねられ塊となった運動がどうのとか、そんなのどうでもよい。アナーキズムは個人なの。なんせ、肝はさ。
の ああそれで思い出した。ぼくの個人的な部分で言うと、高校の時シュティルナーでやってて、シュティルナーの話からアナーキズムが出てくるやん。アナーキズムってなんやろうと思って本読んだりしていくと、一番惹かれたのは19世紀のテロリストがね、爆弾投げつけようとしたんだけど、子供が乗っていたからやめたとかそういう話にすごく引かれた。そういう部分ってロジックやない感情やん。ギロチン社もそうだけど、そういうヒューマンな話が一杯あって、それでどこかアナーキズムと決別できないのは、そこの部分が残っているからだと思う。
乱 やはり個人史やね。
の そうそう。個別性よ。
乱 アナーキズム運動が何を達成しようとしたかとか、労組がどうしたというのではなく、個人がどう生きたか。アナ関連ってそういう文献多いよね。左から入った人って、運動どう起こすかとかそういうスタンスでしょ。読み方が違うのよ。
の それで言うと、ぼくらがなんでボルにいかへんのか、というのが説明できるかな。最初にマルクス読んで、プロレタリアがどうのこうの、とか、やっぱり革命でんな、なんて思わへんもの。
乱 まあ二つあって。一つはメジャー指向。自分ら抑圧されている、だから社会や国家を転倒させて、今度は自分らが権力を握る、という考え。その根底には、「俺らみたいな優れた人間がなんで冷や飯食ってんの」という感情と、「俺ら権力握って好きなようにしたいわ」という、力に対する渇望があるよね。そういう人は運動にいく。
の そういう人たちは、何で動くのかな、情?
乱 情じゃないでしょ。欲望。最初からこの社会やシステムから外れているな、どんな仕組みができても折り合いつきそうにない、俺はメジャーなんか行くことない、と思っているアナーキズム指向の人とは違うんよ。だけど反対に、体育会系/ボルは厳しいしイヤ、だからアナ/同好会へというのはやめてほしいよね。もとが違うんだから。「元々僕はどちらかというとアナーキーでしたけど、前はボルで」なんていう、変なコクリ方多いよ最近は(笑)。
タ へェー?ていう感じだけど、そうなの? 最近は?
の そうそう。アナーキズムに接合しようとしているよね。ジョゼ・ボヴェの運動があんだけサヨクに取り込まれたというのもそうだと思う。新しい運動で言えば、サパタティスタ民族解放軍(注59)のマルコスなんかもそうだよ。あの人、ボル的なとこあるけど、女性を運動に取り込んで行くのはすごいなと思う。旧来のサヨクって、89年の壁崩壊以降、ああいう形でしかやっていけないと思う。今やイスラムなんかも取り込んでいるけど、ああいう形でしか生き残れない。それに付随して、アナーキズムもとりこんでいくんだよね。柄谷なんかがシュティルナーを執拗に論説していくのもそういう動きとちゃうん?

ジョゼ・ボヴェの訳書(2001)
サパタティスタ民族解放軍



乱 そういうのがアナに逃げ込んできてるから、もともとややこしいアナーキズムが、余計にややこしくなっているよね。アナーキズムサイドもはっきりコアになっているはずの「個人主義」がわかっていないから、ボルと共同しましょうかって色気を出す奴もいる。左に寄るやつと、左から寄って来るやつが引っついていってる。
の 左翼というものが、アナーキズムも包括したものだと思われているけど、これはすごい誤解やね。アナーキズムは左翼やないやん。極限的な左翼がアナーキズムみたいなとらえ方しているバカもいるし、どうしようもない。何が「アナーキズムは左翼です」かと思う。「そんなやつ死ね」と思うね・・・ってそこまで言ったら言い過ぎか(笑)。
乱 西部邁先生も、アナーキズムの良質な部分を保守思想も受け入れろ、なんておっしゃってるぐらいやからねえ(注60)(笑)。
の 西部はニヒリズムなんかだと克服せなあかんとか言うてるけどね(笑)。でもさ、西部とかインテリを除けば、ほとんどの人は一生「アナーキズム」なんていう言葉を口にしないで生きているじゃない。それってすげえとか思う。
乱 前、久米(注61)のニュースステーションの時代に、「このアナーキストめ!」というセリフに思わずハッとしたよ(芙)。
の ジェノバ・サミット(注62)でアナーキストが殺されて、そんだけ闘っているのに、一方で一生「アナーキズム」なんて言葉を口にしないで死んでいくほとんどの人たち。アナーキストってそんなにマイノリティかなあ?

ジェノバ・サミット抗議行動・路上で炎上する車


乱 そんでええのよ(笑)。世界全体にコミットしてなくて狭い領域でやっとけば。
タ ぼくなんかよく言われるんだけど、「世界全体が革命起こして、みんながアナーキストになったらそれは大問題じゃないですか」と(笑)。
の そうそう、それってすげえ問題、地球最後の日かも(笑)。
タ 革命起きちゃったらそれは全体主義だからマズイわけですよ。
の ハハハ。
タ アナーキズムは少数派で、いかにあんたと私は違うよってことを言っていくことが基本ではないかな。それ以外に色気出す必要ないと思うけど。
の うーん、ずっと話してきたけど、アナーキズムっていったいなんなのか、わからんようになってきたな。・・・こんな対談してさ、なんなんこれって?(笑)
乱 アナーキズムはチベット密教みたいなものです(笑)。
の いや立川真言流(注63)・・・かな(笑)。
乱 かくし念仏だったりして・・・ずっと伝承していって、困っている人の助けになる。
の それはそれでええんやけどね。自分のアイデンティティのために考えていく、とかもありでしょ。それもなんだか寂しい、というのもあるけど(笑)。
乱 そういやサイトの評価しているサイトがあって、AIN見て、「アナキストとは、固定観念の強い、ドグマ人間のことだと思ったら大間違い」とか書いていた人もいたね。まあ、よく理解してもらえているなあと思ったけどね。

の そろそろ話を元の浅羽ネタに戻して。
タ 浅羽先生は、彼が作っている枠組みに基づいて、鶴見俊輔や石川三四郎とかにコメントしているんだけど、結局、彼の「アナーキズム」という枠組み自体がおかしい、ということははっきり言っておく必要がある。だいたいそんながっちりした枠組みなんかないし、持ってきてる枠組みがきわめて社会主義的なアナーキズムの発想だし・・・。
の 浅羽批判なんて、他のアナーキストは誰もしてないよね?
タ 大澤正道ぐらいかな(注64)。他はほめているの?
乱 浅羽の意図とは別に、変な誤読もあるようだけど。浅羽がいっぱい挙げている文献を「みんな読みたいと思いました」って言っている人もいてね。「じゃ読めよ」と思うけど(笑)。そういう連中は、浅羽がアナーキズムを肯定的に評価していると思っているんだよね。しかし、そういう文献情報以外の価値は、あのア本にはないでしょ?
タ あんまりあれこれムキになって言う必要もないけど、あんな、いきなり「イマジン」出してくるようなくさい書き方は、そもそも変だよ。もっとおもしろい書き方があるよってことかな。今後はこっちでそれをやればいいと思うんだけど。
の ああそうか、こっちで書くって手はあるか。
タ だいたい、アナーキズムには暴力主義的破壊的な側面とユートピア的で啓蒙主義的なところがありますって、そんなの誰でも考えつく程度の話じゃない。
乱 その影響かな? AINの掲示板にジョン・レノンの悪口いきなり書き込んできた人いたっけ。「それがどうした」 って言ったんだけど(芙)。関係ないのにねえ。

AINのバナーです。


タ 「イマジン」で歌われている、夢想するとか、現実じゃないことを現実にする、とかというのは共産主義者でも保守主義者でも言うわけよ。チエ・ゲバラだってそんなこと言ってるじゃない(笑)。「UK」の歌詞なんかも、アナーキズムの本質じゃないでしょ、派生的に出てくるものであってもさ。アナーキーは基本的には「支配が無い」ということが重要で、浅羽先生はそんなこと一言も言ってない。「支配が無い」ということを考えることがいかに秩序にとって恐ろしいことか、彼は何も書いてないわけ。
乱 その通りやね。その「支配が無い」アナーキズムからみた、明治政府成立以降の日本については、何の論及も無いよね。
の それはぼくも思った。
タ 福沢諭吉(注65)が、アナーキズムは究極の理想社会だと言った、その福沢の政治思想を日本人みんなが受け入れている、だから日本人は潜在的にアナーキストだ、って書いてあるけど(笑)。こんなこと書いて何がおもしろいんだろうね。
の 一億総アナーキスト?(笑)。
タ 「アナーキー」という概念は、古代ギリシア時代から引き継がれてヨーロッパの政治で流通しているわけで。欧米からいろいろ学んでいたわけだから、福沢がそれに言及したっておかしくはない。しかし、じゃあお前は責任持って「支配が無いことが正しい」と主張するんか、と福沢に聞けば、絶対口を閉ざすでしょう。責任取れないから。ところが、それを言うのがアナーキストでしょ。「日本人は潜在的にアナーキスト」って、変なエピソード出してきて。ウソつけよってことです。
乱 「日本人は潜在的にアナーキスト」と言われたら気味悪い、俺やめるわと考えるのがアナーキスト・・・でしょ?
タ 第一そんな生やさしいものじゃないでしょ。システムにとって「支配が無い」ことがどんなに危険なことで、だからこそみんな弾圧されてきたんじゃない。ところが、そんなことには言及しないで、アイデンティティのためだけの、自分探しのアナーキズムだ、なんて断定しているわけ。そうだとすれば、この本の目的は、アナーキズムの陳腐化でしょう。
乱 浅羽防疫給水部。格差社会の拡大によって「負け組」の人たちのなかにアナーキズム・ウィルスが感染することでも恐れているのかな(笑)。
の なんかムカツクな。
乱 まあここは一つ「UK」式で、浅羽先生の頭上にアナーキスト・スペシャルでもお見舞いしたげたらよろしいかも。

九節鞭=anarchist specialと、呉伯焔老師がおっしゃっていました。


の 浅羽は「憤慨される箇所が多かっただろうアナーキストの皆さんには、容赦なき批判を期待している」なんて言ってるけど、自信満々のくせによく言うよ。ホンマは無視するのが一番ええんやけどね。
乱 本自体はアナーキズムに関係ないアナーキズムの本ですませるけど、こちらが「アナーキズム」と題する本を新書でだせないダメさは反省した方がよいかも・・・。
の そうそう。
タ 『アナキズム』誌のメンバーが集まって書けばひとたまりもないのでは?
の そうかなあ? 筑摩書房とぱる出版じゃ分が悪そうだし(笑)。
タ そこがまた問題でもあるね。しかも、FAQじゃ浅羽のアンチテーゼにならないし。
乱 あんな、フツーの人なら読む気のしないサヨク式じゃなくって、自分らで作ればどうなのかなあ、FAQでもなんでもいいけどさ。
の AINのメンバー間でも、今この三人でも微妙に考え違うから、一つにまとめて書くのはムツカシイでしょ。
タ 違いがある人たちが『アナキズム』誌を一緒に出しているのが面白いんじゃないの?
乱 つーか、そうとも言えないかも・・・違いがあったらいかんのかも(笑)。
の だから綱領主義みたいなまとめ屋さんが出るのかな。でも本当は個人にしかアナーキズムは根付かない思想と思うけど。
乱 しかしその個人主義を口にしたとたん、他の誰かから過剰反応されるわけでね。寄らば大樹の陰みたいなこと考えている他のイズムからみたらとんでもないんでしょうね。で、「個人主義者は好き勝手、やりたい放題し放題、人殺し、なんでもOKだ」とか悪口言ってくるし。
の もううっとうしいやん。そんなの相手にするのは。
タ 僕はむしろ、そういう言い合いはどんどんすべきだと思う。19世紀以来、みんな延々と闘ってきているから。個人主義者vs.社会主義者は。伝統芸としては見せていかないと、なんて思う。
乱 僕は一代限りでいいです。『空手バカ一代』という梶原先生の名作にあやかって。
の また言ってるよ。

アニメ『空手バカ一代』(1973-1974)

2005年12月、関西某所にて。『アナキズム』誌第八号(2006年)掲載

 

(1)この対談は2005年12月に行われたものですが、原稿をまとめるのに手間取り、また『アナキズム』誌自体も、次号の発行がいつになるのかよくわからない状態でした。で、実際に読者の日に触れたのは2006年でした(笑)。
(2)奥崎謙三(1920-2005) 兵庫県生まれ 神様。
(3)原一男(1945-) 山口出身。映画監督。代表作は、『さようならCP』(1972年)、『極私的エロス・恋歌1974(1974年)、『ゆきゆきて神軍』(1987年)、『全身小説家』(1994年)『学問と情熱 高群逸枝』(2000年ビデオ作品)など。

原一男(1945-)


(4)「私の家の屋上に、(独居房)を建てよう、思うんです」という奥崎は、独居房の計測(!)をするために訪ねた神戸拘置所で、警備官を突然怒鳴り上げる。そのシーンを撮影した原監督に、奥崎は「どうでしたか、わたしの演技は」と平然と言い放ち、あぜんとさせてしまう。「私は以後、この奥崎の〈演技〉に (?)たびたび悩まされる破目になった。奥崎の、やること、なすこと、に過剰なる〈演技〉を見せつけられ、ウンザリするのだった。」と原を嘆かせている。原一男・疾走プロダクション編著『ゆきゆきて神軍製作ノート+採録シナリオ』 (話の特集、1987年)。
(5)フィクションとノンフィクションの混乱を意識的に行ったのが、滝田洋二郎監督『コミック雑誌なんかいらない』(1985年)。内田裕也扮する突撃芸能レポーターが、リアル/ノンフィクションに突撃取材を敢行してしまうというフィクション映画。

『コミック雑誌なんかいらない』(1985年)


(6) 藤田まきと作詞・平川浪竜作曲・室町京之介台詞の「なんだかなあ?」みたいな曲です。いっそ奥崎がHoochie Coochie Manでも歌ってくれたら爆笑なんですが(芙)。
(7)血液溶解法  典崎が考案したトンデモ健康法。
(8)サン書店から自費出版(1987年、新泉社より再刊)名著。付録・資料も深沢七郎『風流夢譚』や奥月宴『天皇裕仁と作家三島由紀夫の幸福な死』、無政府党・暗殺主義者『日本皇帝睦仁君二与フ』もあったりして充実してます。奥崎の死後解体された奥崎邸からも本書の不敬在庫が発掘されたとか。
(9)1981年にサン書店から自費出版。名著!
(10)このあたりやはり『ヤマザキ、天皇を撃て!』(有文社・新泉社)を読んでもらうしかないんですが、絶版ですが、アマゾンでは入手可能のようです。
(11)正面のシャッターには「人類を啓蒙する手段として田中角栄を殺すために記す」と書かれています。その上のデカい看板には「総ての人の生命を平等に尊重することが出来、総ての人々が自分を本当に愛することが出来る構造の、神・天意・自然法・人間性に叛く天皇や天皇的権力者がいない、全人類が一台の自動車の如く組織され、分裂・抗争・対立・競合が完全に絶える真に民主的・文化的・倫理的・衛生的・経済的・科学的・平和・自由・幸福な新世界を、一日も早く実現させる、誠の大義・善・公利・公欲を追求する目的の手段として、無知・狂気・迷信・抗争・偏見・独断・妄想・錯覚・不経済・分裂・対立・搾取・悪・無責任の象徴である天皇裕仁にパチンコを撃ち、天皇一家のポルノビラを撒き十名の判事・検事の顔に小便と唾をかけて罵倒し、見たことのない松井不朽先生から二百万円を頂き、東京拘置所の独房の中から、参議院議員(全国区)選挙に立候補し、自費で再び立候補する決心を固め、自民党員である神戸市市会議員である、溝田弘利と小西徹夫を収賄罪で告発した、殺人・暴行・ワイセツ図画販売前科三犯の奥崎謙三は、天与の生命がある限り、誠の大義・善・公利・公欲を追求し、何千万年たっても色あせない行動と発言をすることを誓います。」とあります。

奥崎邸ファサード

(12)望月百合子(1900-2000) 東京生まれ。評論家。石川三四郎と生活をしていたことがあるアナーキスト。自民党の金丸信(1914-1996)が1992年に銃撃されたとき「あんな人死んじゃえばよかったんです」とどこかの政治集会で言った、とのこと。そんなこと人前でなかなかどうどうとは言えません。「筋を通す」人でした。

望月百合子(1900-2000)


(13)「浪速の詩人工房」(http://inouetoshio.com/index%5B1%5D.shtml)の「銃殺された昇り竜に捧げる歌」(http://inouetoshio.com/noboriryu.htm)を参照。
(14)勝新太郎(1931-1997) 東京生まれの映画俳優。勝新原理主義者まで生み出す脅威の役者。勝新のすごさは、今でも映画で体験できます。『悪名』『兵隊やくざ』『座頭市』の三大シリーズは言うまでもないですけど、ここでは座頭市のプロトタイプでもあるピカレスクロマン『不知火検校』(森一生監督・大映・1960年)を挙げておきましょう。この映画のラスト、勝新扮する極悪人不知火検校が、群衆の罵声や石を投げつけられながらも悪態をつきます。この大衆を敵に回す悪態(下記)は、当時の大映上層部にほとんどカットされてしまったということです。しかし勝新は、晩年の舞台でこのセリフを復活させています。勝新イズム全開です!

 てめぇら肝っ玉がちいせえから、
おれがやってるようなことをやりたくても出来ねえだろう。
たまに楽しいといったら祭りぐらいが関の山で、
挙げ句の果てはジジイになりババアになり、
糞小便の世話されて死ぬだけだ。   
この大バカヤロウー 
『不知火検校』

『不知火検校』(1960)

(15)中井久夫(1934-2022) 奈良県生まれ。精神科医。『徴候・記憶・外傷』(みすず書房、2004年)、148頁を参照。
(16)千本組は、1901年に京都千本三条に誕生する。正業は人夫口入れ業。千本組は博徒の一家とは異なり、季節労働者や日雇労働者などを束ねる「かたぎやくざ」(定職を持ち、博打をしないやくざ)であった。かたぎやくざは町内の治安、消防を担当し、祭礼の取り仕切りも行った。千本組はその全盛期には、祇園祭りの御輿を三基も任されていたという。
(17)笹井末三郎(1901-1969)は、千本組初代荒寅こと笹井三左衛門の三男として生まれる。末三郎は、幼少期より、文学や詩を好んだ。同志社中学時代の雑誌投稿が緑で、大杉栄の同志、中村還一から無政府主義を口説かれ、運動に参加することになる。以後、久板卯之助、和田久太郎、大杉栄らと親交を結び、終生の友となる近藤茂雄ともめぐりあう。しかし根が詩人の末三郎は、労働運動や革命論争自体には感心がもてなかった。武林夢想庵、辻潤の後を追って比叡山に居をかまえた宮嶋資夫のもとを出入りするうちに、ダダイズムの洗礼を受け、辻潤の著書にも親しむようになる。その後、千本組で自警団「血桜団」が結成され、その代表に選出される。防犯、自警の仕事と共に、勉強会も開催、無政府主義の普及に努めた。大杉栄がその講師を努めたこともある。末三郎は、大杉虐殺以前からギロチン社から勧誘を受けていたが、血桜団を抱えていたため、参加には至っていない。その後、「大堰川の決闘」によって、懲役刑となり、出所後、日活に勤めるようになる。この時期、生活に窮した岡本潤の面倒を見たりしている。日活の仕事は名目上で、様々な俳優や監督を育て、「映画界の黒幕」の異名を、笹井末三郎に与えることになる。晩年は、末三郎は、辻潤の追悼会にも出たりした。1969年1月12日病没 享年69歳。柏木隆法「「映画界の黒幕」アナキストやくざ笹井末三郎」『マージナル』Vol.9 (現代書館、1993年)。柏木隆法『千本組始末記』(海燕書房、1992年)。

柏木隆法『千本組始末記』(海燕書房、1992年)


(18)ギロチン社、和田久太郎らが暗殺に失敗した福田雅太郎を、末三郎は吉田一と共に討つ為に、ブローニングも準備したが、いざ決行の前日、千本組で大出入が生じる。出入の原因は土木工事をめぐるいざこざである。末三郎はテロ決行前ということもあって当然躊躇するのだが、なんと吉田の方から一宿一飯の義理があるから俺もいくよ」と言われ、そのアナ仲間たちも助っ人になってしまった。喧嘩の結末は、笹井末三郎の獅子奮迅の大活躍もあり、末三郎側の勝利となった。末三郎は、「ここは僕が責任を取るから、君たちは行ってくれ」と吉田らを逃した後、駆けつけた警察に逮捕される。逮捕した巡査村上亀蔵は、末三郎の拳銃を自分の外套に隠し、小声で「ボン、誰に聞かれても拳銃なんか持ってなかったというんですよ」とかばう。末三郎は、後に、この村上巡査の息子を手許に引き取り、プロデューサーとして育て、義理を果たす(前掲、柏木『千本組始末記』参照)。リアル任侠映画でしょ。
(19)朝倉喬司(1943-2010)事件犯罪芸能を中心としたノンフィクションライター。無政府主義者系ベトナム反戦直接行動委員会のメンバーとして企業襲撃にも関与した元活動家でもあった。『犯罪風土記』(秀英書房、1982年)『芸能の始原に向かって』(ミュージックマガジン、1986年)、『ヤクザ For Beginners シリーズ』(現代書館、1990年)、『独婦伝』(平凡社、1999年)、『涙の射殺魔氷山則夫と八〇年代』(共同通信社、2003年)、『活劇 日本共産党』(毎日新聞社、2011年)他著書多数あり。

朝倉喬司(1943-2010)


(20)自由民権運動と博徒との関係については、長谷川昇『博徒と自由民権』(平凡社、1995年)に詳しい。長谷川は、群馬事件、加波山事件、秩父事件などと同様の自由民権運動の暴動事件の一つ「名古屋事件」が、通説の名古屋の自由党員の計画、実行によるものではなく、博徒たちが主役級の働きをしていたことを活写している。その戦闘力を買われて対幕府戦争時には、藩権力から軍事組織として利用された博徒集団は、その戦功に見合う恩賞も与えられず、窮民化を余儀なくされる。そればかりか明治政権は、戦闘的博徒集団が、激化しつつあった農民騒擾や民権運動と結びつく形で反体制化するのを恐れ、「賭博犯処分規則」による所謂「明治十七年の大刈込」によって徹底的な予防弾圧を行う。そのことが博徒集団を革命目的の軍資金確保の為の豪商・豪農強盗事件\名古屋事件を起こさせる契機となった、という。長谷川は「『博徒=無頼の徒』が反体制運動の組織者として一定の役割をはたしたということをことさらに過小評価」してはならないという。この博徒過激集団の一つ「愛国交親社」は、ニセ札製造や三菱砲撃まで計画していたという。私見ですが、こういう権力と抗する民衆に味方する博徒、任侠集団がシュティルナー言うとこの「エゴイストの連合」かなと・・・
(21)安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』(平凡社、1999年)の第五章あたりに書いてあること。
(22)例えば「白竜社」は、元々は滋賀県長浜市の香具師の親分吉原竹三が仲間の露店商と1946年に結成された暴力団だが、副団長の水谷敬三こと韓玄申は、在日朝鮮人連盟長浜支部長の肩書きをもっていた。長浜市という地域ボスの支配する街を、暴力で制圧し、ついには市議会議員の地位を手に入れ、警察権力まで自在にコントロールするようになる。白竜社は、「白竜社警察」、団長吉原竹三は「夜の市長」と言われるまでになる。このアウトロー集団の強みは、日朝連帯である。確かに賭博、倉庫荒らし、恐喝なども生業にする彼らは、庶民を泣かせもしたが、同地域における在日朝鮮人の唯一の職業であった密造ドブロクが、税務署に奪われると、それを奪還するという、他者の生存の権利を守りもしたのである。もちろん在日朝鮮人の「連合国民待遇」もしっかり利用しながらである。猪野健治『やくざ戦後史』(筑摩文庫、2000年)第一章を参照。
(23)大沢正道「石川三四郎のなかの三つの問題」『初期社会主義研究』第18号(2005年)、48頁を参照。尚、石川は、「無政府錦旗革命」と呼んでいたらしい(笑)。
(24)なお、1946年の日本アナキスト連盟結成大会に議題として出される予定だった石川三四郎の「無政府主義者宣言」の一節は以下の通り、「・・・我らの天則は人心の奥秘より、自ら湧出する人道の大義を実践躬行するを以って第一義とする。清純高雅なる今上天皇を我ら無政府主義者が敢えて擁護せんとするは実にこの天則、自然の憲法に基づくものである。」要は、「自分の身はどうなろうと、この上多くの人民を犠牲にするに忍びないとて、屈辱に堪えて、無条件降伏を断行なさった、愛と知に勇敢だった天皇を擁護するのは、日本民族の責任と名誉じゃないか」。臼井吉見『安曇野』第五部(筑摩書房、1987年)36~52頁を参照。
(25)秋山清の戦時中のお仕事としては、例えば、高山慶太郎というペンネームでの著作『南洋の林業』(1942年、豊国社)があります。同書の「序」で、「大東亜に於ける皇軍破竹の進撃制壓もさることながら、南洋諸島に対する吾が日本政府の、あたかも今日あるを予期せる如き政策に付いては、これを林業、木材の部面から回顧するも、其の方針の不抜さと用意の周到さには、限りない信頼を覚ゆる所である。」「即ち敵領土内に於ける邦人苦心の事業地は、今日重要な足場となり、戦時必需物資たる木材増産に、国内と呼応協力、以て総力戦遂行の一翼を負擔する日も近きにあるであろう。」なんて書いてます。(*1)。でも「抵抗の詩と戦争協力の文章が共在してもまったく抵抗を覚えない。」(*2)と、この批判自体が当たらないという人もいてはります。秋山清著作編集委員会編『秋山清著作集全12巻+別巻(ぱる出版)が2006~2007年に刊行されたのでその「共在」を楽しみにしていたのですが、所収されてなく残念です。ちなみの『南洋の林業』は「アジア叢書」として大空社から2004年に再刊されています。在庫もあるようですので入手は可能です。

高山慶太郎『南洋の林業』(大空社、2004)


*1 「南洋の林業」(豊国社、1942年)「櫻本富雄『探書遍歴』(新評論、1994年)
*2 大澤正道「木材通信社とアッツさくら」「トスキナア』創刊号2005年128-130頁
(26)「アナキズムFAQ」(http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/)
(27)
フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895) この人、いったいなんなんでしょうね? マルクスの太鼓もち? ちなみにこの人やったことで評価できるのはシュティルナーの絵を描いたくらいです。

フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)


(28)カール・マルクス(1818-1883) このかたについては、以下の文献が推薦図書。 F・ジルー『イェニー・マルクス「悪魔」を愛した女』(新評論、1995年)。都築忠七『エリノア・マルクス』(みすず書房、1984年)。
(29)ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1879-1924)「世界のミイラ展」を高島屋あたりに開いてもらえれば日本でも会えるでしょう(笑)。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1879-1924)


(30)柄谷行人『世界共和国へ』(岩波書店、2006年)。
(31)マックス・シュティルナー(1806-1856)2005年2月にバイロイトのシュティルナーのお家にいってきました。探索しに行ったのは二度目ですが、前は探したけどよくわかんなくて。今度は番地もちゃんと調べていったので間違いもなく探せました。現在、シュティルナーのお家の一階は化粧品屋さんになっていて、側面の壁にシュティルナーのプレートがかかっています。
(32)ジョルジュ・パラント(1862-1925) 前回の『アナキズム』誌でも書評を書きましたが、『個人と社会の対立関係』渡邊淳也訳が三恵社から出ています。
(33)ベンジャミン・R・タッカー(1854-1939) 25年間にわたり『リバティー』というデパートの名前みたいな新聞を出していたが、1907年末にニューヨークの事務所が火事で焼けてしまったあとはモナコに移り住んで言論活動は一切しなかった。「となると、晩年のこの時期がほんまの個人主義だったんやろか?」というツッコミをした人は誰もいない。
(34)P・J・プルードン(1809-1865) 支配のない社会こそが秩序であるから、アナーキーこそが秩序であり、それを理想とするのがアナーキスト、という定義を最初にした人です。でも、マルクスからさんざんバカにされたことや、女性差別発言が目立つことでも有名。ナポレオン三世を侮辱して牢屋に入れられた間に結婚して子供ができた、というアクロバティックな人。
(35)この本はまだ入手可能です。L. Susan Brown, The Politics of Individualism: Liberalism, Liberal Feminism and Anarchism, Montreal/ New York/ London: Black Rose Press, 1993.
(36)ピヨートル・アレクセーエヴィッチ・クロポトキン(1842-1921)「工場や仕事場を自分の畑や庭の入り口におくがよい」と「職住接近」を唱えた人(?)。あのムッソリーニも青年時代には、クロポトキンの『反逆者の言葉』を翻訳して感銘を受けている。それだけすごい人(?)である。J・ジョル『アナキスト』岩波書店、1975年、186頁参照。
(37) マックス・ネットラウ(1865-1944) 「アナーキーのヘロドトス」と呼ばれるアナーキズム歴史家であり、ドイツ語による『アナーキーの歴史』やバクーニン、マラテスタなどの伝記など、著書や論文は多数。アナーキズムについての膨大な資料や文献を収集し、インタビューも行っている。ところが、彼の文章は、文献を羅列するだけ、というところが多く、何にも知らない人がいきなり読めるような内容ではない。そのため翻訳もほとんどなく、戦前のものを除けば『ネットラウ アナキズム小史』(三一書房、1970年)ぐらい。
(38)エルリコ・マラテスタ(1853-1932) 迫害を受けながらものすごーく長生きしたアナーキスト。二〇代の頃には、村に行って農民の目の前で公文書を焼く「行動によるプロパガンダ」を実践。「これはいける!」と思ったこともある。その後、「地主が金をばらまくとそれで農民達は懐柔されてしまう」という「現実」を理解する。だが、そこまで悟るまでには、結構時間がかかったみたい。
(39)ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・バクーニン(1814-1876) マルクスのプロレタリアート独裁を、最初に正面切って批判した人物なんですが、秘密結社を作って革命を実現しようとしていたし、ある種の「独裁」も必要だ、みたいな発想もあったから、なんとも奥深い。金銭感覚がなかったところが「アナーキスト」の名に値するか?
(40)ミシェル・フーコー(1926-1984) 権力はあらゆる人間関係の中で生じる、という説を唱えた。このフーコーの説が出てきてからは、国家をなくせば無支配が生まれる、という、19世紀のアナーキストによる楽観的なヴィジョンは、息の根を止められたようである。
(41) マレー・ブクチン(1921-2006) 『エコロジーと社会』(白水社、1996年)が彼の主著のひとつ。環境破壊の原因は、人間による人間に対する支配から生まれる、というのが基本的な主張。それ以外に、アナーキズムについての著作は多数あり、「ライフスタイル・アナーキスト」を批判して議論になった。20世紀後半のアナーキズム系思想家としては大きな影響力を持っていた人物の一人として誰もが認めているはずだが、なぜかこの対談のメンバーはそうではないらしい。
(42) トマス・ホッブズ(1588-1679) 人間の「自然状態」は「万人の万人に対する戦い」だから、これをやめるために「リヴァイアサン」=国家が必要、というのが彼の説。彼の「自然状態」論と対局にあるのが、ルソーの描く理想化された「自然状態」。でも結局、「契約を結んで国家を作らないとね」という結論で両者は一致しているようだ。
(43)P・A・クロポトキン「パンの略取」『クロポトキンⅡ』三一書房、1970年、68頁。
(44)ヨハン・モスト(1846-1906) 2016年は、人知れず生誕170周年、死後110周年のドイツ系アナーキスト。『革命兵学』という、とってもとっても危ないパンフレットで有名になってしまった。当時最先端の爆発物だったダイナマイトを、ふつうのおうちで、しかも手近な鍋・釜類だけで作る方法が、大変丁寧に説明されています。元祖DIYと言えよう。
(45)グスタフ・ランダウアー(1870-1919) 彼のオリジナルな思想は「修正主義」として同時代のアナーキストから非難されたが、近年はなぜか注目されている。
(46)ブエナヴェントゥラ・ドゥルティ(1896-1936) スペイン内戦時のCNT.FAIの指導者。しかしアナーキストに指導者など、何故いるのかが理解できません。ドゥルティの遺品は下着の着替え1回分、ピストル2、双眼鏡1、サングラス1だったそうです。

ブエナヴェントゥラ・ドゥルティ(1896-1936)


(47)フリードリヒ・ヴィルヘルム・二ーチェ(1844-1900) ニーチェによれば、イエスは単なるアナーキストだそうです(笑)。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・二ーチェ(1844-1900)


(48)永岡洋治自民党衆議院議員が、2005年8月1日に自殺しました。永岡氏は、郵政民営化関連法案反対の強硬派でしたが、自民党執行部などから、反対すれば選挙応援しないといわれ、やむなく法案に賛成票を投じた。すると今度は法案反対派から、「裏切り者」と言われ、悩んでいたそうです。
(49)エドゥアルト・ベルンシュタイン(1850-1932) 資本主義の発展の帰結として革命が必然的に到来するというマルクスの説を否定した人。社会民主党の正統派からは「修正主義者」と非難されましたが、右肩上がりの経済成長を認めていたので、それほど修正してなかったかも。
(50) セックス・ピストルズ(1975-1978) プログレの敵(笑)。映画『シド・アンド・ナンシー』は、シドのバカさが出ていておもしろかったが

(51)ジョン・ウィンストン・オノ・レノン(1940-180) ジョン・レノンについて、なんか書けといわれても・・・。
(52)ボノー団 1911~1912年パリを震撼させたシュティルナー主義の強盗団。もともとはパリ郊外ロマンヴィルで新聞『アナルシー』を発行していた冴えないアナーキスト・グループだった。しかし、一時期コナン・ドイルの運転手をしていた工員ジュール・ボノーが加わると、一転、世界初の武装自動車強盗集団に変貌を遂げ、次々と襲撃事件を繰り返し、街中をパニックに陥れます。最終的には。警察や軍隊を相手の戦争となり、ボノーや他メンバーも殺害、逮捕され壊滅します。このあたりは、「黒いモグラ社」のサイト「ボノー団の概要」を参照してください(http://www5.plala.or.jp/mogura/index.html 2017年11月15日閲覧)
しかしボノー団は、その壊滅後、今度はレジェンドとして蘇ります。当時、正体不明の怪盗が暗躍するファントマ・シリーズがフランスでは60万部のベストセラー小説になっていましたが、これは明らかにボノー団がモチーフになっており、「フィクションが現実を追いかけるのか、現実がフィクションを追いかけるのか、ともすれば判然としなくなるような状態がつくりだされるのである」(*1) そして、フランス人たちは「ファントマの魔力はアヘンみたいなものではないか。ファントマの亡霊がフランス人たちに憑いているのだと考える」(*2) そこまで人々を熱狂させ酔わせたようです。ファントマは、その後1933年今度はラジオ放送で復活し、そこでは「戴冠せるアナーキスト」アントナン・アルトーがファントマを演じています。つまり、シュティルナー主義のミュータント「ボノー団」はその実態を現実世界からの消滅後も、サイバー・アナーキーとして復活したのだといえましょう。アナーキズム正史が、ボノー団ら「悲劇的な悪漢たち」は「彼らの誇示したアナーキズムなるものは、いっさいのイデオロギー色ぬきの犯罪行為を隠そうとした隠れみのにすぎなかった」と否定しようとも(*3)。余談ですが、私も、ガキの頃、映画版『ファントマ電光石火』(1964年)をTVで観て異常にのめり込んだ記憶があります。
*1 千葉文夫『ファントマ幻想』(青土社、1998年)、23~24頁。
*2 松村善雄「ファントマの周辺」『幻影城』第14号、1976年、215頁。
*3 アンリ・アルヴォン『アナーキズム』(白水社、1984年)、149頁。

サイレント映画『ファントマ』(1913)

(53)松本零士(1938-2023)の作品でアナーキーといえば、なんといっても『聖凡人伝』(奇想天外社、1978年)。冴えない主人公出戻始が、次々と意味なく自殺(ほとんど首吊り自殺)に出くわしていく、自死マンガの決定版かな。松本も自らとかぶるキャラと告白している「ゴロンゴロンゴロンゴロンしながらね、多少は理屈を考えてみるけど、ようわからんので、ゴロゴロゴロゴロしながら刻々時は流れていくと。ぼくはまあ、ああいうふうになると思うのです。」という老荘的アナーキー。「松本零士のおいどん哲学」(インタビュアー:原忠彦)「松本零士の世界」『別冊新評』第22巻第3号(1978年)、74頁。

「聖凡人伝」は漫画ゴラクで1971-1973に連載されていた。


(54)中川八洋先生(1945-)は、『皇統断絶』(ビジネス社、2005年)といういかついタイトルの御本、第八章「反・天皇の、新(ネオ) アナーキストと転倒の論理」(216~244頁)で、日本はヨーロッパとは異なり、アナーキズムを『父』とし、そこからソ連を祖国とする一つのマルクス・レーニン主義の兄弟セクト(宗派)誕生した。ちなみに兄弟セクトというのは、日本共産党(と日本社会党の)夫々前身だそうです。大杉亡き後、アナーキズム運動は急速に力を失うが、戦前の「無政府主義」から、60年の時を経て、「1980年代に入り、『無国家主義』の色を濃くして、突然、活火山となって復活する。現代フランス原産のポスト・モダン思想を吸い込んで・・・」だそうです。そして「民族(『右翼』)色の迷彩服を看た、変種のアナーキスト松本健一と、ポスト・モダン系の「猛毒の新アナーキズムの麻薬」を糜爛させる福田和也を挙げ批判します。とりわけ中川は福田を、「日本国民を精神分裂状態に改造してディアスポラ (地球放浪者)化する、最も過激なアナーキスト(無国家主義者)」と恐れます。福田を始め浅田彰や磯崎新らのポスト・モダン系アナーキストは、大杉や幸徳を遥かに超えて、「日本国そのものを『廃墟』にするという、日本人を呪い、その絶滅を妄想し追求する」というんだから凄まじいです。「死ね死ね団」かいー(笑)。その真偽のほどはさておいて、憂国の士中川先生の筆致はその批判よりも批判対象の描写に冴えを見せ、ひょっとしたら先生も感染していて・・・・
(55)柄谷行人先生(1941-) アソシエで某氏から殴られたという噂があり(未確認)。
(56)シアトルでの反WTO行動 1999年11月、シアトルで開催されたWTO閣僚会議を阻止した運動。「反グローバル運動」の形態や担い手と「アナーキズム」との関係が初めて多くの注目を浴びた。
(57)ブラック・ブロック  なんだか、「シャーク団」とか「ジェット団」のように聞こえますが、全身黒づくめでデモを防御したりいろいろなことをするために自発的に参加した人たちが作りだす「ブロック」という戦術のことをブラックブロックと言います。以下のサイトを参照。http://www.infoshop.org/Black-Blocs-for-Dummies
(58)ギロチン社 中浜鉄、古田大次郎、村木源次郎などによるアナーキストグループ。大阪にあった天六グループのとの関係も気になるとこです。
(59)サパタティスタ民族解放軍(EZLN)サンクリストバル・ラス・カサスのおみやげ屋さんには、マルコスの生写真が売っていますが、EZLNのTシャツのほうが安いので、そちらを購入するように(芙)。
(60)西部先生は、こうおっしゃってます。「アナーキズムは、当時にあっては、一種のポストモダニズムであった。保守思想は、モダニズムを両翼から挟むプレ(前)の想起力とポスト(後)の想像力をともに包含するものである。したがって、表面では秩序破壊を訴えた無政府主義をも、少なくともその良質の部分を、保守思想はすすんで受容すべきと思われる」だって。保守思想とアナーキズムはリージョナリズム(地域主義)の部分で重なり合うとのこと。西部邁『保守思想のための三九章』(筑摩書房、2002年)、72~76頁。
(61)いつだったかの久米宏の「ニュース・ステーション」で、いつの間にか姿が見えなくなった道具たちの行方を追うとかコーナーがあって、そこでアルマイトの弁当箱が取り上げられていて、アルマイトの弁当箱に梅干を入れると、底にアナが開いてしまう、で「このアナーキストめ!」というべタなギャグになっていました。日の丸=梅干が穴を開けてアナーキストです、と(笑)。
(62)ジェノバ・サミット 2001年7月に行われたサミット。シアトルと同じように反WTOの運動が盛り上がったが、イタリアの参加者が機動隊に射殺され、一挙に盛り下がった。
(63)立川真言流 平安時代末期に左大臣阿闇梨仁寛によって創始されたとされる真言密教の立川流は、その教えや実践、修行が極めてエロなために、14世紀中ごろには邪教というレッテルをはられてしまいます。真鍋俊照『邪教・立川流』(筑摩文庫、2002年)を参照。

立川真言流の「髑髏本尊」


(64)大沢正道「書評 つけたり、外したり便利な「アクセサリー・ボックス」浅羽通明『アナーキズム』」『トスキナア』創刊号、2005年、85~86頁。
(65)福沢諭吉(1835-1901) 各自、お財布を開いてお顔を拝見してください。いらっしゃらない場合、どっかからもってくることです(笑)。

日本銀行発行の偽札です。

                            第二章 END


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