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第一章 アナーキズムクソ地獄へようこそ

【解説】この対談は『アナキズム』6号(2005年)に掲載されたものに加筆修正したものです。のんきちさんと乱さんが雑誌の編集担当の滓添さんから「個人主義特集だからなにか書かない?」と誘われて、「対談」をすることになったそうです。タナカはそのころ二人とお知り合いになったばかりでした.あるときお酒を飲んでお話ししているうちに、タナカも「さすらいのアナーキズム学者」として加わって「対談」(三人なので「対談」というのはおかしいのですが)をすることになりました。お話をしているうちに、お二人がともに『アナキズム』誌に対してとても批判的であることがわかりました。タナカも批判的であることは嫌いでないので、お二人の話に加わっていくうちに、言いたいことをどんどん話してしまいました。この対談の読みどころは(第二章以降もそうですが)、そのように話し合っているうちに、神棚にまつりあげてあった「アナーキズム」という神聖なイデオロギーが相対化され、地べたに引きずり下ろされて踏みつけにされてしまうというところです。「支配のないanarchy」こと、何者からも自由であることを理想とするアナーキズムという思想に大変忠実な作業であったと言えます。もちろん、こういった作業に対するその後の反論を期待してのことでもありました。大阪発だけあって、ボケとツッコミ、そしてオチがきちんとあります。その点にも注目してお読みください(タ)。
 タナカさんの品の良い適切な解説に、品性を欠くる私からも一言付け加えるなら、この対談は、最近出回っているような「アナーキズム入門書」などではありません。強いて言うならば「アナーキズム破門書」であります、これは私らが自称しているだけではなく、某アナーキストの闘士からも、この対談について「お前らは在特会だ!」と罵倒されたことからしても明白です。私は、皮肉でなくこの罵倒を心地良く感じました。どうかこの破門書を一読され、お近くのゴミ箱に投げ捨てていただきますように、すべてはそこからです(乱)。
 
出席者 の=小谷のん(ニヒリスティック・エゴイスト)、=乱狡太郎(無思想電波オヤジ)、=タナカ(さすらいのアナーキズム学者)
 

始まりはいつも個人主義
 の 個人主義って何やろね?
乱 わからんわ(笑)。もうどうでもええというか・・・。
の どうして『アナキズム』誌なんかで「個人主義」が特集されるのかなあ?
「ナショナリズム」も特集されてたでしょ。打倒の対象ってことで取り扱われているんと違うの?
の うん? なら心配いらないよ。とっくに倒れているから(笑)。
乱 それとも個人主義的アナーキズムが、個人主義と混同されているのかな。
の あたりかもね。
乱 のん君の考える個人主義ってどんなの?
 流れ的には、ギリシャ哲学、エピキュロス(注1)とかディオゲネス(注2)とか、スコラ哲学のドゥンス・スコトゥス(注3)も・・・簡単に言ってしまうと、最終的にはシュティルナー(注4)、パラント(注5)、アン・リネル(注6)、辻潤(注7)みたいな系譜になっていくんだと思うけど、所謂「欧米の個人主義」というような言われ方するんだと思う、じゃー、欧米人である「ブッシュも個人主義」みたいな、それとはどう違うのやろ?

マックス・シュティルナー(1806-1856)

乱 その言い方の個人主義は、社会の中でもソフトな個人主義者でいられるみたいな。
の 通俗的な個人主義やね。それと例えばシュティルナーの個人主義とは、具体的に何がどう違うの? ぼくは全く別個のもんやと思うけど・・・。
乱 そんな難しいこと聞かれてもねえ、わからんわ。
 じゃー、シュティルナーもブッシュ(注8)も一緒かなあ?
乱 それはミルクと油(注9)と思うけど・・・。
の ブッシュの忠犬コイズミ君も個人主義かなぁ(笑)。
乱  コイズミ君はそうかな。他人のことなんか全然考えてへんし・・・イラクでアルカーイダに殺害された香田詔正さんの時もそうでしょ。「テロには屈せず」というセリフ言いつつ「掩ってヒーロー」ってドヤ顔してたもんね。
の 他人のことを全然考えてへんのが個人主義になるの? じゃあヒトラー(注10)、金正日(注11)、スターリン(注12)・・・独裁者や権力者たちの個人主義とシュティルナーの個人主義も同じってこと?

アドルフ・ヒトラー(1889-1945)
ヨシフ・スターリン(1878-1953)

「世界はあるの♪ 独りの為に~♪」ってね。彼らはある種そうかなあ。
の イヤそういうことじゃないよ。独裁者の例とは正反対だけど、日本人なんかがよく「欧米人は個人主義や」と言ったりするでしょ。でもアメリカ人でもフランス人でもドイツ人でもみんな自ら「私はインディヴィデュアリストです」とは言わないよね。それ自体が凄くおかしい。
 なるほろ。
の おかしいといえばね、「個人主義」という名称自体も充分おかしいと思うけど。
乱 どういうこと?
「個人主義」という名称を記号的欺瞞的に使っているだけでさ。
乱 そもそも「個人主義者とは何か」なんて問い方「個人主義者」はしないものかもね・・・。
の そうそう。「個人主義」こんなん使っていることが意味なし芳一。
乱 なんじゃそれ(笑)。じゃあ、「個人主義」とか「個人主義的アナーキズム」が如何に無意味であるってことがこれから二人の漫談になるのかな。
の 読んでる人に怒られるかな(笑)。
 

個人主義VS個人主義的アナーキズム
の 
で、個人主義的アナーキズムって何すか?
 急に振るなよ・・・個人主義的アナーキズムねえ・・・。
 嫌な顔してるなあ(笑)。
乱 あれってイノキ(注13)の「格闘技世界一」・・・インチキというか、単なる自称みたいなもんでしょ・・・その流れでシュティルナーなんて勝手に「個人主義やってます」の広告塔にされたんだよね。
 タレントが勝手に、いかがわしい健康食品の推薦者にされてるみたいなもんかな(笑)。
乱 そ。
の 元々国家に代わる代替システムを唱えることではボルもアナも実態は変わらないけど、「個人」を匂わすことで差別化するみたいな。うちはトッピングが違います…てね。
アナ・ボル論争とか言うけど、実態は自民と民主(今なら維新さらに立憲民主と国民民主党かな)の違い程度ってことだよね。
 例の綱領主義的アナとかみてもわかるよね、何が悲しくてあんな不自由なアナーキズムつくらんといかんのよ?
乱 あんなもん産み出した時点でアナーキズムも終わったなって感じ。こういうと「それは一つの流れでしかない」なんて愚答がすかさずぶっ飛んできそうだけどね。
 その綱領主義がシュティルナーがどうとか言っているよね。うぜーれす。
え?
 っていうか、なんでそんなにシステマチックにやらんと気がすまんのやろ、アナにおいてすら・・・人間の本質なんかなあ。
乱 運動や闘争は、権力握ってナンボやからね。
 アナは無権力闘争とちがうん?
乱 イエイエ結局のところ「闘争」どころか「戦争」です。「戦争」には戦闘機械がいる。そうなると指揮系統だの戦略戦術手練手管、敵前逃亡の処罰、内通者の摘発排除、戦果を挙げたものへの評価、相手の出方次第では「防衛/攻撃」手段もランクアップしていく・・・大なり小なりそんなとこ。ああ忘れていた正義/大義の旗もね。
 結局アナーキズムもボリシェヴィキと同じく政治運動やね・・・この場合社会主義的アナになるけど、最終的にはアナーキズム革命を起こして、その後どんなことになるやら皆目見当もつかんけど・・・。
乱 わかるよ。革命は地獄です。そのあたりは梶原一騎先生のダークな作品群を見るとわかります(注14)。
 また言っている(笑)。
 政治は「力」。どつきどつかれの世界は勝たんとしゃあないからねえ。
の アナーキズムもイノキズムも変わらんということやね。「燃える闘魂」だぁ。
乱 結局イノキか(笑)。「闘魂」よりもっと精神主義かも。「戦いはこれからだ!」ってな感じ。
 玉砕するほど闘っていないよ。
 あらあら手厳しいね。

アントニオ猪木(1943-2022)

反システムと個人主義
 の そういうシステムが嫌な人・・・たとえば乱君なんかは、どうしようと考えているの、あるいは、どう何もしないかと考えてるの? 反システムの為のシステムが嫌だとしても、もちろん既成のシステムも認められないわけだろ。
乱 僕も最初は、代替のシステムで何か良いのがないのかなとか考えたこともあったし、そのための「闘争」も嫌だけどやむなしかなと考えていた時もあったよ。でも、どう考えても無理・・・。どんなシステム考えてもそれに合わない人が出るからね。その人どうしましょとなると、強制強要を伴わないと成り立たないんよ。
の なら個人主義だとアンチ・システムが可能になるというわけなの?
乱 それも無理っぽい・・・矛盾するけど一切のシステムを拒絶して生きられないのも人間なんでね・・・サメかアメフラシにでも転生するんなら別だけど。
の つまり個人主義は、システム的でもアンチ・システム的でもない・・・なら何になるの? ポリティカルなものに関わらないとするなら何を考えることになるのかなあ。
乱 うーん。私ワカラナイデス。のん君こそ何か考えているんだろ。
の ぼくはね、反システム・・・あらゆるシステム的な部分を徹底的にぶっつぶしていって、国家だろうが労組だろうが制度的な部分をぶっつぶすとおもろいかなと・・・でもそれってものすごくポリティカルになるでしょ。それもウンザリだしね。まあシアトル行動以降、ハキム・ベイ(注15)のTAZ(注16)なんかは関心あるけどね。もっとも僕はそういう政治的な部分にはコミットしたくないし、個人に還元しちゃって何もしないつもり。まあ実際には運動なんかちょこっと関わるかもしれないけど。

ハキム・ベイ『T.A.Z.(第2版)』

 そうやって関わる部分は反システムじゃないよね。どのみち衣食住すべてシステムに関係せざるを得ないのだけどね。
の ぼくは、アナーキズムは、反システムの方向で考えていたんだけど、それも違うなあと思うようになった時点で挫折した。感情的な部分では運動もやってるけど、「如何に良い運動作るか」とかそんなことくだらないと思ったの。カルマ的にやっている人はそれでいいけど・・・。
乱 あ、カルマ的な人たちね。とても僕にはマネできんです。畏敬の念で見ています。
 

シュティルナー登場だが
 乱 でもね、個人主義をまあ一応システム以後まで考えたということでねシュティルナーの言っていた「エゴイズムの連合」があるわけなんだけど。
の いや考えてないと思う。言っただけでこういう風にしましょうとかそういうのは出して来てないし、ヘーゲル左派への批判なんかを『唯一者とその所有』なんかでも言っているけどさ、じゃあお前は何かあるんかと問われるから、苦し紛れに出してきたように思うの。なので「エゴイズムの連合」なんて実際にはなにもないというか・・・。

マックス・スティルネル 辻潤訳『唯一者とその所有』

 そうなの?
の 第一、シュティルナーのは、インテリゲンチャなエリートしか理解できないみたいで、ぼくは好き嫌いが相い半ばしてます。あんなにパラドックスを入れられると意味取れないしで・・・。
 パラドックス的?
の すごい利己的な主張と思っていたのが利他的やったり、パラントなんかだったら組織的なものすべて否定すると思う。
の シュティルナーの元妻に、マッケイ(注17)が旦那についてのコメントを求めたら「エゴイストでした」だって(笑)。言うまでもなくこの場合の「エゴイスト」は通俗的な意味合いなんだけどね、それがシュティルナーを裏切ってて余計に笑えるよ。『唯一者とその所有』を書きながらもその程度の人物なの。辻潤も今なら通用しないような変なオヤジでね、パラントも変なオヤジだし。
 変なオヤジ、たいしたことなくていいん違う。みんなてめえのやっていることや好きなもんがたいしたことないとわかったら、戦争なんてしなくてすむんだけどな。
 

全ての「イデオロギー」はクソ
 の 大杉がさあ、辻潤はアナーキズムに関心がありながらアナーキストになれなかったとかそんなこと言ってたみたいだけど全くの誤解で、辻潤はアナがドータラというようなくだらんことはどーでもよかったんだよ。
乱 大杉栄なんかには辻はわからんかったろうね。

辻潤(1884-1944)

の なんらかの「イデオロギー」。この言葉好きじゃないから「考え方」でもいいんだけど、ろくなもんじゃないの。当然「個人主義」もくだらんわけ。そこいらの人つかまえて、「私インディヴィデュアリストです」と言ったら「はあ? 何それ?」終わりでしょ。
乱 それは正しいリアクション。他人から見たらどんなイデオロギーでも単なる幻想、妄想だもの。
の  シュティルナー曰く「無の上に私を据えた」とか、そんなの言うなら一々講釈たれるなよみたいな。
 それでも書き記してくれたから良かったともいえるよ。そんな変なオヤジはたくさんいたんだろうけど、残してくれなきゃね。
の それは言えるけどね。辻潤がシュティルナーの『唯一者』読んで、「これで俺の生き方が決まった」みたいなことを言った。自分のスタンスを得るといった事では大きいわけで、ぼく自身、「唯一者」や辻潤を知って「これだよ!」と思ったことは事実。でもそれが何やねんと言えば何もないわけで・・・。
 その何も無さがエエ。
 虚しいよ・・・。今日、反戦デモで1万集まったとか勝ったとか言ってた方が楽やもん。
乱 何も無さ、虚しさ・・・その幻滅が良いのと違う。世界が変わるなんていう幻想から解放してくれてるわけで。
の それはそう。でもブッシュやコイズミなんとかできんのか、反システムとかでなんとかならんのかなと思いながらも、政治的なのは嫌だしということで思考停止しているんでね。
「世界」まで広げなくて、例えば1メートル四方程度の狭い範囲で限定してやれることはあるかもしれんけどね。革命ってのは全部変える事でね。革命まで言わなくても概ね何某かのイデオロギーに基づく運動は根本的に変えちまうのを前提にしているわけでね。そうなると権力奪取しないと意味ないゼロなわけ。なのにアナ系の運動でも「個人」を引っ付けてごまかしててね。元来「個人主義」なんぞがものの役に立つわけ無いのにね。
 それこそニヒリズムだな(笑)。
 
ついでに個人主義もクソでございます
 の 結局個人主義ってなんやろうね。もったいつけてこんな対談してもさ何になるの。
乱  何も。まあ敢えて言うなら山登りみたいなもの。好きな人は登ればというだけで・・・よし今から勉強して個人主義者になるぞとかそういうもんじゃないでしょ。
の 人間ってだいたいテキトーなもんじゃない。人間ってどんな崇高なこと言ってても最後はどうしようもない奴になったりするしね。
 その後はコロっと逝っちまうだけ。
の 根本的なこと言うとね、言語自体が意味がないというか、それで社会が成り立っていたりするんやけど・・・運動やイデオロギーって何が目的なんやろ・・・良い社会や良い共同体作ることってなんか意味があるのか・・・でも万人にとって「良い」ってことないでしょ。それが大いに疑問で。自民党政権だから良くない、でもアナーキズム革命が起こって万歳かというとそうではない。だからそういう意味での個人主義しかないのかなあと思う。
乱 みんな同じ事しているんじゃないかと思う。ブッシュの爆撃もアルカーイダのテロも、反戦のデモも、人間の行為として何か「良かれ」と思ってやっているわけで、必然性があるわけだ。理由があって動機があって、みな良かれと思ってやるわけだ。まあ快楽殺人の人はどうかわからんけど(笑)。渡る世間は鬼ならず善人ばかり、だから怖い。
 でも最低限のルールとして他者を巻き込むなと言うのがあるよな。自分らがどんなイデオロギー持っていいけど、それだけやと思うねん。攻撃するなよと。
乱 巻き込むなといっても、人は人に迷惑かけないで生きていけないでしょ。一時間二時間、時間をたとえば遅刻なんかで人の時間を奪うぐらいならまだしも、殺しちゃうとか拉致して人生奪うとかは絶対まずいよね。
 そうそう。でも実際は、「善人」たちの「力」による奪い合いじゃないの。シュティルナーはそこで「力は僕の力」と言うんだけど。個人主義以外は、反対に「力」を自分以外にもたらそうとするやん。アナーキズムも「非権力的」「反支配的」とか言いながらオルグして「アナーキスト」にしようとか「アナルコサンディカリスト」にしようとかするわけでしょ。他者に対する支配的な部分から免れない部分があるよね。
 そういう部分を隠蔽したり、ないものとして「非権力的」「反支配的」とか語ったり行動するからより偽善性を増し、そればかりか最終的には否定していたはずの「力」の他者に対する行使もやっちまう。それくらいなら「力」を握りまっせという党派の方がまだましだし、制動できる可能性があるかもしれない。
 まあそういうものの個人主義自体もくだらんけどね。単なるオタッキーな戯言でしょ「個人主義」って・・・。
乱 それは言える。ボルとかアナとは別のくだらなさはあるよね(笑)。
 
さらに夜は深まる。二廃人たちの漫談はさらに支離滅裂になっていく。そこに、さすらいのアナーキズム学者が現れる。
 
アナーキズムはインディヴィデュアリズムの夢を見るのか
 の ヘーゲル左派の中で一番アナーキズムに近いのがブルーノ・バウアーやエドガー・バウアー(注18)だと思うのだけど、シュティルナーはそのバウアーのイデオロギー自体否定しちゃうとこがあって、そのことからもアナーキズムとは相容れないんかなと。

ブルーノ・バウワー(1809-1882)

 バウアーのアナーキズムっておそらく集団主義的なとこがあったんだと思うよ。国家を否定してもその後に来るものは何かという・・・。
 シュティルナー自身も「エゴイズムの連合」を言うんだけど、その具体的なビジョンってなかったと思うんだけど。
 彼はそんなビジョンを創ること自体に反発していたんだよ。
の シュティルナーの言ったのは「革命」は常にシステムの変換でしかないからダメで、常に「反逆」することなんだと、その際大事なことは、その反逆はあくまで「個人の反逆」であると・・・。
 『唯一者とその所有』の特異なのは「あなた(方)が反逆するのだ」という書き方をしていないということだよね。他者の反逆について語っているのではなく、「私/シュティルナー」が反逆する可能性について述べている。
 ムーアさん(注19)の解釈なんだけど、シュティルナーが言っているのは、まず「I am」、「私だ」ということから始まる、ということ。まわりと自分を区別してそこからまわりに対して「反逆」していく。そこから何かが始まる。自分の基盤は無/nothingで、無の上に自分が立っていると、そこから創っていく。自分からやっていく。乱さんが言ったみたいに人にあれこれ言うんじゃなくって・・・。
 そこが新鮮に思えた。
タ ムーアさんなんかは、個人主義とアナーキズムとの接点を強調しているわけ。個人主義的なアナーキズムを批判する社会的アナーキズム、ソーシャル・アナーキズムというのかあるけどね、ソーシャルというのはプロジェクトを立ててみんなが参加できるというものでしょう。ブクチン(注20)なんかもそうだよね。個人主義、インディヴィデュアリズムという考え方とアナーキズムとのあいだに接点がある、て僕が考えちゃうのは、アナーキズムがどんどん支配を拒絶していくと、ある所で個人主義的にならざるを得ないかなと思うから。プロジェクトさえも否定していくから。
 じゃあタナカさんが思うインディヴィデュアリズムとアナーキズムの違いって何?
タ う~ん。あんまり違うと思ってないからのんさんと最初から話がかみ合ってない(笑)・・・。まず個人主義的なアナーキズムとインディヴィデュアリズムはほぼ同じ、っていうイメージ。で、僕はアナーキズムは個人主義から社会主義までとりこんじゃってる、非常に幅の広いものと捉えているんです。あんたにとって支配とか支配を否定するものって何?って尋ねたとしても、各人各様で幅が広いでしょう。だから、やっぱりみんなで生活した方がいいよという人、「支配」のない社会があるはずだ、と考える人たちは、コレクティヴィズムだとかコミュニズムとか、そういう方向に向かうよね。ソーシャルな考え方。でもそこで、「みんな一緒は嫌だ」という人もいるでしょ。そういう考え方の人は、そこで分かれていっちゃうでしょ。
の 共通項として、反政府や反国家だけで、インディヴィデュアリズムとアナーキズムの接合する面はあると思う。でも僕は元々は別個のものだと思うけどな。アナーキズム側から近づいてきたりするわけだけどそれが嫌なんです。もちろんインディヴィデュアリズが良いとは思わないけど。
 「支配を拒絶する」ということなら、ブッシュも独裁者の支配から解放しようとしたわけだし・・・今じゃ「良い支配をするぞ」なんて誰も言わないわけだし・・・共通項があるといってもそれが同じものかどうか言えないと思う。
タ アナーキズムを極限まで考えれば「個人」にさかのぼっていかなければいけないと思うよ。
 でも、社会主義的アナーキズムってそんなこと考えてないのと違うのかなあ。個人じゃなく「体制」としてのアナーキズムじゃないかなあ。綱領主義なんかそうだし。
乱 今までの社会は「個人」が生かされていないから、「個人」を生かす社会を創りましょうということだけど。それがそうはならない。
 アナーキズムとしてこれまで理論のようなものとして出されてきたいろんな話を度外視して、本当にアナーキーといったものを極限にまで考えればインディヴィデュアリズムまでに行くんじゃないかと・・・。
の それはどうかなあ。ほとんどのアナーキストはインディヴィデュアリズムなんか考えていないと思う。
タ 両方あると思う。もともとは、19世紀のアナーキズムって、社会主義から枝分かれして成立したという経緯があるじゃない。
乱 社会主義は、ブルジョワの「銭が全てや」ていう「個人主義」を批判して成立したというところがあるってよく言うよね。
の  だとすれば、社会主義は個人主義を否定して成立したからアナーキズムも同じ穴のムジナじゃない・・・。
タ うん。抑圧された者の側に立てば、社会の不公正な仕組みを公正なものにする、という方に向かうから、個人より社会の問題が前面だよね。
 アナーキズムは、そういう社会主義を批判して成立した、ということですよね。でも、社会主義にはもっとひどい支配と抑圧がある、だったら、支配がない社会を考えよう、ていうんじゃ、結局個人じゃなくて社会を考えることになって、「体制」じゃない・・・。
タ でもさ、社会主義はまあ、社会まででいいんだけど、アナーキズムはそうはいかない。個人が「支配のない社会」の中でどうなるか、ということこまではっきり言わなくちゃ権威主義的な社会主義に対する批判にならない。「どうなるの」と聞かれたら、個人の自立を最大限やっていく社会になります、という答えが返ってくるでしょ。そこで問題になるのは、社会とどう折り合いをつけて、個人の自立を最大限に実現していくか、じゃない。一九世紀の古典的なアナーキズムは、だいたいは、社会を前提にしていて、その社会の中で互いに相手を侵害せずに自由にやっていくのか一番良い、というところで話が終わるかな。でも、自立と連帯が同時に進むというのが最大の難問だったし、いまもそうだと思うけど。
でも、アナーキズムを批判するやつは、「自立と連帯の両立、そんなん無理や、ドアホ」って言うよね(笑)
アナーキストの反論は「両立はできます。できないと思うんは、あんたが想定している人間が支配者志向なのか、奴隷志向なのか、それとも、あんたの人間不信が思いっきりきついからや」というものが多いかな。
 でもやっぱり無理があるよね、両立なんて。
タ まあでも、個人の方に重点を置いているアナーキストなら、そこまであれこれ「両立」みたいなことについて言わないだろうけど。それに、個人主義的なアナーキストの言うところの「個人」というのは、「社会」とか「集団」との対比のなかで成立する概念でしょ。「自分とその他大勢」みたいな。でも、「その他大勢」より自分が特別だからそいつらと一緒はいやだ、という論理はそれほど強くなくって。どちらかというと、「みんなそれぞれだから、それは認めるから、自分のこともその他大勢と同じにしないでくれ」といことでしょ。そうなると、「その他大勢」なり、「自分と違う他者」というのを認めていくわけだから、「私は私だ」という時点で、他者なり誰かなりとの「関係」がすでにできちゃってるんじゃないかな、論理的に。だから結局「連帯」というのは、「個人」をたてた時点で「自立」に織り込み済み。ほんじゃ「連帯」の契機はどこにあるか、っていうと、まあたとえば、人が自由であることが自分が自由であること、という論理だったりする・・・。
乱 だけどそれが歯止めが利かなくなるというか・・・。みんなの為に自分を律しなければならない。だけど律しない奴がいる。そいつは許せんと、それは連帯を乱すものだと・・・。よくある話しでしょ(笑)。
 それはバランスの問題だと思うけど。
 アメリカの個人主義的アナの流れと、シュティルナーなんかの個人主義とはどう違うの。
タッカー(注21)なんかは言葉の上では、シュティルナーほど突き詰めて考えてはいないと思うけど・・・。

Benjamin R. Tucker (1854 - 1939)

 彼らはシュティルナーに触れる前から個人主義者かな。
 たぶんそうだと思う。
 その個人主義って、どういうものなのかな。
タ 自分さえ良ければいいというのは悪い意味でのエゴイズムでしょ。人がどんなに痛めつけられていようが自分の庭先で無ければOK、みたいな、要するに今の日本人みたいな。そういうエゴイズムと違うのが、個人主義的なアナーキストだと思う。誰かが不自由な状態にあると知ったら、何千キロ離れていようが何とかしようとする。それはその人が不自由なら自分も不自由に考えるわけで・・・。
 そんな奇特な奴おらんでしょ。まあゲバラぐらいか・・・
 タッカーとかはどうなの?
タ タッカーは人権とかには敏感だった。誰かが逮捕されたりしたら・・・たしかヘイ・マーケット事件なんかでも動いてたと思う。
の タッカー、ソロー(注22)、ボブ・ブラック(注23)の流れからハキム・ベイとか出ているのかな?
タ 部分的に先人の考えからなにを取捨選択して自分のものにしているか、ていう問題かな。ハキム・ベイはシュティルナーまでとりこんでるから、一応伝統的な個人主義の流れじゃないかな。どうもハキム・ベイのTAZの元ネタは「エゴイストの連合」じゃないかな、なんて感じがする。
乱 僕はありえんとおもうけど、さっきタナカさんが言った不自由な人がいたらほっておけないというのはなんで育つの。
タ えっーと、アナーキズムにカテゴライズされるようなアナーキストはそういう立場をとるよね。
乱 僕が思うに。その人たちは自分が他人から大事にされているという感覚がイデオロギー以前にあるのだろうと思う。そこがないと駄目じゃない。実体験もなしに単にイデオロギーだから助けにいきましょうというのはオカシイよ。
 そうだね。なんか関係がなくても関係性を考えるんじゃないかなあ。伝統もあるし自ら培った部分もアナーキズムにはあると考えているんだけど。
の でも、やっぱりアナーキズムだけで行ってしまうと、インディヴィデュアリズムにならないと思う。
タ どうしてならないと思うの。
 インディヴィデュアリズムは、革命とか運動じゃなくて、単に「自分が不服従でいるよ」みたいに個人に還元しちゃうから。
タ 行動形態がということ?
の 行動形態というより考え方、イデオロギーか・・・だから目茶目茶違うと思うんですよ。アナは革命がないとねえ・・・ アナではないと思うから・・・。
タ 僕はそうは思わない。レボリューションかリフォームか、という二項対立みたいなことはもうやめたほうがいいなって僕は思ってて。19世紀ぐらいだったら、まだまだレボリューションという発想はわかり易かったと思う。経済的には恐慌が来てこうなる、というのがあったし、それから統治機構、官僚機構も小さいから、パリの市役所なんかすぐ襲えた。革命にもリアリティがあったけど、今はそれがない。20世紀になるとレーニン(注24)なんかは軍隊使わないと駄目だというようなことになっていて、そうすると今はそれを飛び越えて大衆運動で一気にひっくり返すとかはねえ・・・。確かにフィリッピンのアキノの時はひっくり返しはしたんだけど、後そんなに変わらなかったわけで、だから革命はもう・・・。

ロシア革命(1917-1923)


フィリピン・エドゥサ革命(1986)


の いまだにそういう幻想持っている人いるよ(笑)。サヨクとかアナーキストとか一杯いるよ。
 いるいる。負の遺産は知らんぷりしたままでね(笑)。さすがに革命は即実現可能とは思ってないけど、考え方の根っこにあるもの。
 体制が変わっても単に変換でしかないから同じやないの・・・ どこまで行ったって。ただ記号的変化はあるだろうけど。
タ それはアナーキズムの基本的発想でしょ。プルードンが言っているよね、どんな体制であろうが誰が来てどんなことやっていようが変わらないと。
の 仮にアナーキズム革命が成功したとして、その革命後はどうなるの? 誰も答えてはいないよね。
 それは誰も答えられないよ。
乱 それはこの日本に限っていうなら、体制変換でしかない運動すら真面目に追及したとは言えないんじゃないのかな。緻密な戦術戦略を張り巡らすわけでなく、むしろ個人主義的アナーキスト気取りで、何も考えずに、そこに逃げ込んでただけでさ。それか社会党みたくソ連崩壊後になってようやく「現実路線」に目覚めたのか「自衛隊容認」なんかしちゃってさ。心優しきサヨクの皆さんは「権力」を握るという汚れ仕事を嫌がったんだよね。今や負の相続放棄はおくびにも出さずアナアナばっかり言っててさ。敗戦後の俄か民主主義みたいなもん。イデオロギーロンダリングしちゃってさ。でも性根だけは、昔から変わらず権力志向じゃない。「敵」はやっつけろ、という。
タ ランダウアー(注25)が言ったのは、その一点革命みたいなことはやめようということ。彼の言う「革命」は「いま、ここで」始められるもので、それは、彼に言わせれば「文化」なんだけど、新しい生活のあり方とか発想を、現実の社会の中ではぐくんでいくこと。ランダウアーは、ミュンヘン革命の時、数日ほど政府らしき組織のなかで役職に就くけど、間違ってなかったんじゃないんかなあ。そりゃ、アナーキーという目標とは矛盾しちゃうけど、結局、実際に革命みたいなものの渦中に入ったら、それまで言ってきたり考えてきたことが試されちゃうんだから、引けないじゃない。スペインの時共和国の政府に入ったやつとかも、まあ責任とってるっていうかな・・・。
 うん。アナということなら別にいいのじゃないかな。
  でも、ミュンヘン革命に参加したのは行きがかり上そうなったというところがあって。その直前までランダウアーが主張していたのは、個人の生き方とか、新しい生活のあり方を通じて、まずは自分から革命を起こそうっていうことだった。
の そういうのは、アナーキズムなのかな、インディヴィデュアリズムっぽいけど。アナーキズムってやっぱりもともと社会主義だから、体制変革思考でしょ。
 えっと、やっぱりさっきから話していると、のんさんは、アナーキズムはそもそも社会主義的で、だから個人主義は違うということにこだわっているような感じがするけど。たしかに、19世紀以来のいろんな議論を前提にすればもっともなんだけど、今はその境界線が崩れていっていると思う。
の 僕も前はそう思ってたんですよ。でも日本のアナーキスト運動なんか見ていてもガチガチに固めていて「こうじゃないとアナーキストとは言えない」というようなのが多すぎて・・・。
タ どうしてそうなっちゃったの?
の それはわからないけど、ぼくが何を言ってもダメみたいに言われて、それでどんどん離れて行ったんです。乱君もそうで。
タ 『自由意志』(注26)なんかそうなのかな?
 最初はサヨク風というか党派機関紙風、末は自由主義史観。正統な流れです(笑)。某アナ系誌など革〇派のそれの方がまだユーモアがあって面白いぐらい。
の ビタミン不足ならぬ自由不足。オナニーもしないような神学者みたいな人とか。
乱 硬い所ももちろんあっていいけど、自分を突き放して見ている視点がないよね。ただ本人たちは善意だし、「正しい事」をどんどんやっていくわけだから・・・その「正しさ」が危ないんでね。ブッシュもアイヒマンもみんな「正しさ」に溢れたしね。

ルドルフ・アイヒマン(1906-1962)

じゃ、日本のアナーキズムって社会党とか共産党とかとどう違ったわけ? ・・・選挙とか拒否したとか、綱領や会員証がなかったとか、・・・あったかな。の 僕からみればどっちもどっち。
 結局、権力とかとまともにぶつかっていく、というやりかたには、実は根本的に相容れなかったりして、アナーキズムって。それをやろうとした時点で、アナーキズムっぽいところを失っていく・・・。
 ぼくもそうおもう、権力つぶしたろう、なんて考えたら、組織を作っていかないといけないし、軍隊のような指揮命令系統があったり、武装したり・・・
 じゃ、のん君のいうとおり、やっぱりアナと個人主義は相容れない、ていう結論でこの対談は閉めましょうか。
 うーん、ぼくはやっぱり接点がある、というかアナーキズム突き詰めたら最後は個人、てところかな、とおもうんだけど・・・
 いや、やっぱりだめですよ、一致するわけない。
 アナーキストってたぶんすごくスジを通そうとする人で、しかも偏屈だから集団のなかにいても浮いちゃう人なんだと思うわけ、実例としては奥崎謙三さん(注27)。
 あの人はアナーキストを超越してます(笑)。
 人殺してるから、あれを誰もが受け入れる訳じゃないでしょ、彼独自のなにかがあるわけでもないし。
 でも、現実のなかで「個人」というものを出していったら、どうしたってああなるでしょ、奥崎さんは国家や家族が諸悪の根元だ、なんて映画ではなしているけど、別にお勉強をしてああいう風になったわけでもなさそう、19世紀のアナーキストも、みんなあちこちスジを通そうとしてぶつかっているうちに、結論として権力の中枢を諸悪の根元だと言い始めたところがあるでしょ。
 でも奥崎は違うよ。だってぼくが知ってる日本のアナーキストは、彼のことなんて認めないでしょ。社会のシステムをどうするのか、なんて話はないし、そもそもアナキズムに賛同なんてしてないし、人殺してるし・・・。 そうかなあ、やっぱりあの辺が、「生きている」アナーキストとしてはわかりやすい例だと思うんだけど、授業で学生さんが見て、驚いていたけど結構納得してた。
 あれは誰でも驚くけど、僕は勉強や自覚がなくても人はアナーキストたり得ると思っているので。その実例だと思うよ、彼は。
 うん。説得力もある、むちゃくちゃだけど(笑)。あの人個人主義者かなあ・・・ やっぱり、ぼくはアナーキズムと個人主義は絶対相容れないとおもう。
 ぼくは、突き詰めれば、アナーキズムは個人主義に行き着くと思う、たぶん、のん君が想定している「アナーキズム」と「個人主義」とは違うかも。
 イデオロギーという点では変わらんけどね。ぼくはどっちでもええわ、それよかぼちぼち店を変えたい(笑)。
 それじゃ鬼編集長が怒るって。やっぱり結論出さないと・・・。
 いいんじゃないの、アナーキストなんだから。(第二章に続く)
 

(1)
Epicurus (BC341-BC271) ヘレニズム時代、ストア派と並ぶ学派エピクロス派の始祖。「人間は拷問台の上でも幸福であり得る」と言い切るくらいの「快楽主義者」であり、宗教を否定し憎んだ「宗教の破壊者」でもある。「享楽の個人主義」としてアン・リネルによっても位置づけられている。
(2)Diogenes (BC413-BC323) キニク学派の始祖。キニクとは「犬のような」の意。宗教や儀礼は基より衣食住の一切を否定。動物をも自分の同胞とし、生涯を物乞いして暮らした。風呂桶に住んでいたというのは間違いで棺桶だったとか。

浴槽にいるディオゲネス

(3)Duns Scotus (1270-1308) 神学者。トマス・アクィナスのライバル。「個別化原理」で知られる。神のペルソナ/個を追及する果てに、人間個々の独立不羈性に到達する。それは神学者でありながら不信仰者の自由意志をも認めるというラディカルなものであった。八木雄二『「ただ一人」生きる思想』(筑摩新書、2004年)参照。
(4)Max Stirner (1806-1856) なにが言いたいのか、よくわらなくて、つまらない『唯一者とその所有』を書く。その後、マルクスーエンゲルスから「聖マックス」として見当はずれな批判を浴びる。ベルリン時代以外は不遇な人生を歩み、元妻から「陰険」とか「エゴイスト」とか言われている。前者は知らないが後者は、本人がそう自称しているので当たっている。死亡原因が虫に噛まれて、という噂もある、わけのわからない死に方をする(笑)。ドイツの精神科医がシュティルナーの『唯一者とその所有』を読んで、これを書いた人物は狂気に犯されているといった(笑)。ちなみに私(のん)はバイロイトのマクシミリアン通りにあるシュティルナーの生家を訪れたことがあるが、シュティルナーの生家はマクドナルドになっていて、シュティルナーもグローバル化の波には勝てなかったんだと思っていたら、どうも番地を間違えていてマクドナルドになっているとこは別のとこでした(笑)。その数年後、再度バイロイトに行きましたがシュティルナーの生家を発見。現在は化粧品屋になっていて、建物の横にシュティルナーのプレートがありました。
(5)Georges Palante (1862-1925)  シュティルナーの個人主義も甘い!とかいう変な大学教員。最近フランスでは彼の著作が再刊されたり、Michel OnfrayがPhysiologie de Georges Palanteを書いたりで一部で見直されている。日本では、久木哲訳のパラント著作集が出ているが、自費出版なので手に入りにくい。大杉栄の『近代個人主義の諸相』はパラントのパクリなので手っ取り早くパラントを読むには大杉の本を読むほうがいいかもしれません。日本語で読めるパラントサイトがあります(http://www.ne.jp/asahi/watanabe/junya/palante/palante.htm)。

Georges Palante (1862 - 1925)

(6)Han Ryner (1861-1938)個人主義者。主な著書に、松尾邦之助が日本語に訳した『近代個人主義とは何か』があります。でも、あんましおもしろくない(笑)。ちなみに松尾の読売新聞時代の門下にはナベツネがいます(笑)。ナベツネがシュティルナーやアン・リネルを論じていたのが笑える。実はナベツネこそ個人主義者という気もする。実際には個人主義など、この程度のものかもしれない・・・。
(7)辻潤(1884-1944) 変態オヤジですが、シュティルナーの著作を『自我経』というタイトルで訳しました。辻はよく意味もなく「天皇陛下万歳」とか書いたり言ったりしてますが、シュティルナーの「唯一者」を戦時中に実践して生きていた「唯一」の人物かもしれません。
(8)George W Bush(1946-) 第43代アメリカ大統領。新世紀の恐怖の大王。ある時ブッシュ曰く「・・・僕は好きなんだ。僕が僕自身のことについてしゃべるときも、彼が僕自身のことについてしゃべるときも、それってみんなが僕のことをしゃべってるってことだよね。」(2000年5月31日MSNBC Hardballテレビ番組)(フガフガラボ編『ブッシュ妄言録』ぺんぎん書房 、2003年、10頁)ってこりゃ個人主義というよりいかれたナルちゃんだよね。
(9)
シュティルナーは、1845年にベルリンに牛乳屋を開店するが、宣伝を全く考慮せず客が一人も来ず失敗。ジョージ・W・ブッシュの経営するアービュスト石油も(後にブッシュ石油探査株式会社と改名)わずかな石油すら採掘できず一度も利益をあげず倒産寸前にまで至る。ただ違うのは、ブッシュにはそれで良しとする投資家たちがいた。背後にはビンラディン家の影も。
(10)Adolf Hitler(1889-1945)独裁者の正にアーキタイプ。死後なお人々のダークサイドに存在している。ある時ヒトラー曰く「・・・だが、決定するのは私の意志なのだ。私の命令に従わぬものは、抹殺されよう。反抗が、すでにだれの目にも見え、世間の口にのぼるようになってからではなく、私が反逆の嫌疑をかけたときに。私は迷うことなく断固としてわが道を行くのだ」(ヘルマン・ラウシュニング『永遠なるヒトラー』船戸満之訳 都市出版社、1972年、213頁)。迷いがないですねえ(笑)。怖すぎるナルちゃんです。
(11)金正日(1942-2011)は、「人間があらゆるものの主人であり、すべてを決定するという思想、言いかえれば人間が世界と自らの運命の主人であり、世界の改造者、自らの運命の開拓者であるという思想は、観念論や形而上学とは根本的に対立するものです」(『金正日文献集』金日成主席著作翻訳委員会訳未来社、1987年、111頁)とチュチェ思想について論じている。これって左翼やそのシンパからも似たようなことよく耳にすることが出来る。でも実際は「人間」でなく「自分(指導者)」や「組織」だったりするわけで、「キム・ジョンイルは何でも欲しがるワガママなガキだ!」というブッシュの評価が案外正しいかも(2003年1月10日ニューズウィーク誌より引用)(フガフガラボ編『ブッシュ妄言録2』ぺんぎん書房 、2003年、12頁)。余談ですが『ブッシュ妄言録2』には、ジョージ・ブッシュとキム・ジョンイルの罵倒合戦が、後のトランプVSキム・ジョンウンと負けないぐらいやりやってるのが掲載されてます(笑)。

金正日(1941-2011)

(12)スターリン(1879-1953) 左翼の原父。否定されながら今尚愛されているといえるだろう。ただし究極のDV親父だけど。
(13)アントニオ猪木(1943-2022)元プロレスラーで現在は北朝鮮とパイプのある事でも知られる参議院議員である。しかし昔、誰の挑戦も受けるといっていたわりには、梶原一騎に拉致されたときの、無様さはなんだったのだろうか?
(14)梶原一騎(1936-1987)劇画原作者の巨星にして凶星。革命の怖さは梶原先生原作の『カラテ地獄変・牙』『新カラテ地獄変』『人間凶器』等で堪能してください。

梶原一騎(1936-1987)


(15)Hakim Bay(1945-2022)個人主義的アナーキズムに近いと思われるが、よくわからない。意味不明な本を何冊か書いてます。

Hakim Bay(1935-2022)


(16)
TAZ (The Temporary Autonomous Zone)が「一時的自律ゾーン」と訳されます。『T・A・Z』ていう訳書が出てます。でも具休的な一時的自律ゾーンの定義は示されていません。誰でも理解できるように書くのかスジだと思うですけどね・・・。
(17) Jone Henry Mckay(1864-1933) 個人主義的アナーキストでシュティルナーを再発見した人。彼がいなければおそらくシュティルナーは忘れられた人になっていたでしょうし、この『アナキズム』誌でも、「個人主義」という特集はなかったかもしれませんね。
(18)Bruno Bauer(1809-1882)弟のエドガーとともに、ヘーゲル左派。最初は右派系神学者だったが、その後転向し、ヘーゲル左派に属する。ヘーゲル左派の中では一番アナーキズムに近いかも?
(19)John Moore(1957-2002)イギリスでアナーキズム関連の著作を多数書いた人物。以下の論文を参照。 John Moore, 'Lived Poetry, Stirner, Anarchy, Subjectivity and the Art of Living', in: Changing anarchism, Anarchist Theory and Practice in a Global Age, Manchester University Press, 2004, pp.55-72.
(20)Murray Bookchin(1921-2006) エコロジストとして紹介されることもあるがアナーキストを名乗っていたこともある。近年はアナーキストはやめたという。1990年代には、個人主義的アナーキズム(ブクチンは「ライフスタイル・アナーキズム」と呼ぶ)を主張する主要人物(ハキム・ベイなど)と彼らの考えをメタメタに批判する『社会的アナーキズムかライフスタイルアナーキズムか』(Social Anarchism or Lifestyle Anarchism, the Unbridgeable Chasm, AK Press,1995)というパンフレットを書いている。この全訳は『アナキズム』第1号(2001年)所収。以下のサイトでも読める。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/bookchin.html
(21)Benjamin R. Tucker (1854-1939) アメリカの代表的な個人主義的アナーキスト。ジョサイア・ウォレン、プルードンなどから影撃を受ける。1881年から1908年まで『リバティー Liberty』紙を発行。ヘイマーケット事件で死刑判決を受けたアナーキストたちの無実を信じて彼らを擁護した。注17のマッケイは友人で、タッカーの著作をドイツ語に翻訳した。1907年、タッカーは協力者たちとともにシュティルナーの『唯一者とその所有』を英訳。マッケイとタッカーが友人でなければ、そしてタッカーが英訳をしなければ、辻潤による日本語訳『自我経』はなかったはず。

ヘイ・マーケット事件(1886年5月4日)

(22)Henry David Thoreau (1817-1862) 日本語では「ソロー」と表記するのか普通だが、英語で話しているときには「ソーロウ」ぐらいに発音しないとまず通じない。奴隷制やメキシコ戦争に反対して税金を払っていなかったため、1846年7月、一日だけ投獄される。その経験にもとづいて「市民政府への抵抗」という論文を発表。そこで、不正な法律は破るべきだし、政府の不正行為には抵抗すべきであると主張した。彼の主張で重要なのは、抵抗の出発点が個人であるという点だろう。彼の影響を受けている人物としては、個人主義的アナーキストたち以外では、とくにガンジーが有名である。ソローの主著『ウォールデン』(Walden: or, the Life in the Wood, 1854)の影響は、川上卓也『貧乏神髄』(WAVE出版、2003年)に見られる。全日本貧乏協議会のページ (http://taku3.jh.net/binbo/)も参照。

Henry David Thoreau (1817-1862)


(23)Bob Black (1951-)は、プクチンの「ライフスタイル・アナーキズム」批判に対して一番激しく反論している。その主張は、あえて分類すれば個人主義的アナーキズムになるか。『アナキズム』第1号(2001年)所収の論文、高橋幸彦訳『労働廃絶論―ボブ・ブラック小論集』 (アナキズム叢書、2015年)、および以下のサイトを参照。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html

ボブ・ブラック「労働の廃止 」


(24)レーニン (1870-1924) 言わずとしれた左翼著名人。某左翼雑誌で近年特集が組まれるほど、日本の左翼界では老若男女を問わず幅広いファンを持つオッサン。
(25)Gustav Landauer (1870-1919) ドイツ出身のアナーキスト。1919年4月に数日間だけ成立したミュンヘン評議会共和国で教育などを担当する役職に就任したので、ドイツ史で触れられることがある。アナーキズム関係文献でもあちこちで言及されながら、日本ではちゃんとした研究がない。訳書としては、大窪一志訳『レヴォルツィオーン―再生の歴史哲学』(同時代社、2004年)、寺尾佐樹子訳『自治‐協同社会宣言―社会主義への呼びかけ』(同時代社、2015年)があり、以下の論文もある(田中ひかる「アナーキズムとマルクス主義」『アソシエ』第六号、2001年4月、99~113頁。田中ひかる「グスタフ・ランダウアーの描く国家と権力、そして「革命」」『アナキズム』第13号、2010年、123~134頁)。
(26)『自由意志』は1980年代後半頃に創刊されたアナーキズム派の定期刊行物で、90年代に消滅した・・・かに見えたがその後細々と刊行され続けている。90年代で一番面白かったのは「ゲバタリアン」という四コママンガだった。毎回、「このゲバタリアンは実在する」というオチだったが、それを読みつつ内心「自分のことか」と思って冷や冷やしていた人は実在する、というもっぱらの噂である。最後のほうは「これって、なんの新聞」っていうくらい変質していた。
(27)奥崎謙三(1920-2005)神軍平等兵 もう何の説明もいらない人です。

奥崎謙三(1920-2005)

                            第一章 END

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