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家族の虫報告の恐怖。


先日、夜中に地震があった。関東の方が強く揺れ、日暮里の舎人ライナーが脱輪したらしい。私は観光目的で舎人ライナーに二度ほど乗ったことがあるけれど、あれはなかなか妙な浮遊感があり、普通に乗っただけでもけっこう怖い。今回はそれに地震と脱輪が加わったのだから、スリル的にはビッグサンダーマウンテンとどっこいどっこいぐらいじゃないだろうかと想像する。


地震、雷、火事、おやじ、弾道ミサイル、カメムシ、催促状。世の中怖いものに満ち溢れている。怖い怖いと怖がっている、その人自身が誰かにとっての恐怖であったりするから、もう訳が分からない。私だって怖いものはたくさんある。成長すれば怖いものも少なくなるかと思ったら大間違い。恐怖のタネは日々増えていく一方だ。深夜、喉が渇いて冷蔵庫を開け、木綿豆腐がそこにあっただけでも、ちょっと怖い。


一方で昔から一貫して怖いものもある。先日、自宅に戻ってくると、母上から、「さきほどな、黒き影がわらわの視界に入ったぞ。すばしこい奴じゃった。はっは。あれはなにかしらん。ま、わらわには予想がつくがな。よりによって、それが二階のお前の部屋に飛んでいきおったぞ。まあ頑張れ。手助けはできぬぞよ。わらわが相当な虫嫌いであることは存じておろうな。はっは」との報せを受けて、慄然となった。


私は虫が(全般ではなく、特定の虫だけが)異常に嫌いである。往々にしてそういう虫こそ生活の側に立ち現れるものだ。そして、これは事象の認識における本質的な部分だと思うが、恐怖の対象そのものと直に対面するよりも、その対象が実際に現れるまでの、こちらからは一切手出しができぬまま過ぎる不穏な時間。これこそ、私がなにより恐れる緩慢な恐怖なのだ。


恐る恐る自室のドアを開けてみる。いきなり体が少し浮いた。なんだ、床に10円玉が4枚転がっているだけだ。しかしなぜ10円玉が4枚も転がっているのだ。どういうことだ。自分で自分が分からないぞ。10円玉を拾い上げる。壁や床を眺める。黒い影はない。ベッドの上、机、本棚、クローゼット。確認したが、特にどうという事はない。


(お前は自分への嘘が上手いな。表面的な部分だけ確認して、それで済むとは思うまい。ベッドの下の隙間は? 本棚やクローゼットの裏は? 真実とは大抵、影に潜むものだ……)


そんな声が響いたが、覗く勇気は出ない。そのあとは努めて、尋常に生活した。本を読み、ブログを書き、動画を観て勉強した。あまり遅くならないうちに寝床に横になり、天井を見上げる。とりあえず今日は助かったかと思ったが、これもおかしな感覚だ。檻の中に猛獣と住んでいて、たまたま今日は襲われなかったとでもいうような、寄る辺ない感覚じゃないか。一番安全な自分の部屋がそれでどうする。そのうち意識が遠のいたが、羽音を微かに聞いた気もした。


何も姿を見せないまま数日たって、この文章を自室で書いている。とにかく、なにもない。虫の気配らしいものなど一切なく、むしろ、季節の深まりと共に、穏やかな静けさが増してきている。恐怖感は薄れてきているが、まだ蟠っている。びちびちびちびち。いよいよもって硬質な羽の音を聞いた時こそ、この曖昧な霞の如き恐怖感が晴れ、ようやく安心を感じるのかもしれないと思う。ゴキジェットは常に隣に置いてある。今宵もゴキジェットと共に眠る。

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