「画面の向こうの『悪役』と『かわいそうな人』」の話

※この記事は個人的な情報の整理のため書いた記事であり、特定の事件や人物について批判・揶揄する目的はございません。主旨と異なる風説が出てきた場合は、記事を取り下げさせて頂きます。

最近、ニュースを見ていると、世の中は、何かと『悪役』と『かわいそうな人』を作って、『悪役』を追い込んだときに『ざまあみろ』と思い、『かわいそうな人』は『その人がいかに可愛そうか』とストーリーを作り、勧善懲悪をエンタメとして消費しているのだなあ、と思うようになりました。
ほかにも、スポーツの国際大会で素晴らしい成績を獲得した人は、一スポーツ選手から、『国の英雄』となるし、小さな女の子に対する犯罪がニュースになれば、血眼になってアニメ作品や漫画を探すこともよく見かける気がします。(そして『悪役』にされますね)

そのうち、『悪役』についてもう少し考えてみました。

『悪役』に対する大まかな筋書きでは、「悪役がその地位を失うなどして打倒される」ことが割と共通するように思える。それを打倒するのが、例えば『英雄』であったり、『"ごく普通の正義感を持つ"一般人』になります。
少しずれるけれど、『悪役』がいない場合、代わりに『強敵』、特に『その世界のトップ、あるいは師匠』を超えることが、『良い筋書き』とされるように思います。

本筋の『悪役が打倒される話』に戻して、ニュースを絡めたからにはその例もざっくりと挙げておきます。
なお、これはあくまで説明のためであり、『ニュースの中で『悪役』として据えられている』ように感じる対象について列挙するだけで、自分自身の感情や政治思想を述べるものではないです。

・スポーツにおける組織内暴力・傷害・パワハラ事件
・~幼女誘拐(殺人)事件などの類い

具体名を出すよりも、何度か繰り返されていること、かつ『登場人物』という形で置き換えられているパターンを整理しました。

何らかの事件が起きた場合、犯人や首謀者について『なぜそんな悪意を持つようになったのか』と動機付けをするような印象があります。これは、事件を空想の物語に仕立て上げるようなものなのか、と思うことがあります。
『勧善懲悪』の筋書きが成立したときに、『物語』として書き換えられ、何らかの形で裁かれるまで、その物語は、少なくとも身近な、現実的な問題として扱われなくなる印象があります。

これはきっと、事件が空想化する感じでしょうか。殺人事件であれば『サスペンス』、組織的な事件であれば『勧善懲悪』として。物語であるから、『読者』『視聴者』は好きに感想を言い、動機を推理したり、組織を生まれ変わらせるにはと意見を述べる。
確かにそれはそれぞれ、思考の整理に必要な印象は受けるのですが、『登場人物』と『読者』の壁はあるのだな、という考えを変えるには至っていません。

よく、『架空(空想)と現実の区別がついていない』と批判する人を見かけますが、物事を理解しようとしたときに、架空のこと、『他人事』として扱った方がスムーズな理解をしやすいのかもしれません。
あくまでそれを良しとするものではありませんが、個人的には理解できるものではあります。これも一つの『創作』なのだと思います。

ただし、そこに『登場人物』の感情はあるのでしょうか、ともよく思います。

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