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男二人で福岡県八女市の廃線跡(北川内トンネル)巡り。吹雪の中のサイクリングロード下見と朧大橋の裏話。

新元号発表だとか桜の季節だというのにわたくし、今から真冬の話をいたします。

2019年1月26日 、私と森音さんは福岡県八女市上陽町に向かった。
理由はKYismの取材のためである。
私が福岡県の廃線の情報を寝転がってGoogleで探していたところ、八女市上陽町の山の中に矢部線の廃トンネルが残っているという情報を見つけたからだ。

私と森音さんは昼前に車で出発。まずは北川内駅跡に向かった。
ところがどつこい、目的地に到着する直前雪が降り始め、次第に吹雪いてきたのである。
「これは日頃の行いのせいじゃないかー」なんてありきたりなことを言いながら目的地に到着した。
しかし車から出る気は一切しない。
だって吹雪いてるんだもの。
ここは東北かどこかかい?と自問したくなる悪天候。
頭の中には「もう帰るか」という言葉が何度もちらついた。
しかしここまで来て帰るのも癪だ。
つーかここまで来て帰るってなんだよ。

ちゅーわけで私達は車を降りた。

寒い。

吹雪いてる。
車を出ただけなのにもう頭と肩に雪が積もっている。
私はまだいいよ。南極の寒さにも耐えられるダウンジャケットを着てるから。
森音さんがやばかった。
彼はミリタリージャケットを着ているので、すぐに雪でジャケットが濡れてしまった。
衣服が濡れて体が冷えるなんて登山じゃ絶対あってはならないこと。
つーか、なんでこんな日にそんな格好できたのさ。

吹雪の中撮影した北川内駅跡の写真はこちら
吹雪の中撮った甲斐があった。
たぶん普通の晴れの日に撮ったら眠たくなる写真になってたと思う。
雪の粒が落ちてくる中佇む看板。
矢部線巡りをしている廃線マニアは数いれど、この写真を撮れた人はなかなかいないだろう。

私達は再び車に乗り、上陽公民館を目指した。
ここに矢部線に関する書籍があるらしいからだ。

公民館に到着。
到着するとなぜか雪が止み、雲の隙間から太陽が顔をのぞかせた。
公民館の周りには子ども達がたくさんいた。
習い事でもあるんだろうか。
公民館の造りも小学校っぽい。
近所の子ども達だけが使うという雰囲気の場所。
明らかに私達は場違い。
しかも一人はびしょ濡れのミリタリージャケットを着ている。
脱走兵かよ。

私達は公民館の中に入り、図書館に向かった。
図書館は規模が小さかった。
でも、本がきちんとカテゴライズされているし、ちらほら子どもの利用者がいる。
手入れが行き届いてる感じだった。

私達は郷土史の棚に向かった。
充実した郷土史。
どうやってこんなに集めたのか。
KYismの編集者としてはお宝の山である。
私達は棚の隅から隅までを探した。
そして下の方の段に目当ての本を見つけた。

『写真・資料集 矢部線 ー誕生から終焉までー』

間違いない。
これで合っている。
本を開くと思いの外文章がびっしり書かれていた。
てっきり矢部線の線路や車両の写真が満載なのかと思いきや、文章で語り継ぐタイプの本のようだ。

書籍の中には矢部線の駅の構造、矢部線開通の歴史、矢部線廃止の思い出などが書かれていた。
黒木瞳の矢部線に対する作文も載っていた。
別に黒木瞳のファンというわけではないが、この作文を読んだら涙が出た。
矢部線廃止が決定した時地元では反対運動が起きたらしい。
反対運動の写真も載っていた。
この情報は私にとっては新鮮だった。同時に、この歴史はちゃんと残すべきだと思った。
なぜなら矢部線廃止の件は現在八女市内の中でもほとんどなぁなぁ扱い。
「惜しまれつつも矢部線は廃止されました」程度にしか伝えられていない。
私は広島県で育った。
幼い頃から路面電車は当たり前だった。
大人になって広島を離れて、初めて自分は電車と近い生活を送っていたんだと思ったものだ。
もしその広島の路面電車が廃止されたら、私は悲しさで怒るかもしれない。
電車とは単なる利便性だけの乗り物ではない。
きっと電車とともに青春を送ったことがある人はこの感覚がわかると思う。

矢部線の本には過去の矢部線の地図が載っていた。
駅の場所。線路の場所。
地形図も載っていたからだいたいどこにトンネルがあるのかもわかる。
私達はスマートフォンを開きGoogleマップと書籍の地図を照らし合わせた。
「さっき通ってきた道がこれで…」
「ここ、水害で崩れたところだ」
「ここに有名な釣具屋さんがある」
そんなことをぶつくさ言いながら地図とにらめっこをした。
想像してもらいたい。
小学生しかいない図書館内でぶつくさ言ってるおじさん二人の姿を。

目当ての北川内トンネルを探す。
地図を見ると公民館のすぐ近くのようだ。
歩いて行けそうだ。
いや、どれくらい山の中にあるのかわからないから、歩いて行った方がいいだろう。
私達は本を元に戻して北川内トンネルに向かった。

さて、トンネルは簡単に見つかった。
なにも勇んで行くほどのことはなかった。
ネットで「矢部線」を検索したら必ず出てくる築堤が早々に見つかったからだ。
ご丁寧に駐車場まで付いている。
私達は駐車場を横切って築堤に向かった。
築堤を登るための階段もあった。
「桜があるんですね」
私は『蘇り孤高の山桜』と書かれた看板を指差した。
「一応ここも観光スポットってことなんですかね?」
私の問いに森音さんは首を傾げた。
わかるわけない。
なんせ私達二人は初めてここに来たのだ。

築堤の階段を登った。

登っていると右手に民家が見えた。
「え、誰か住んでるのかな」
「いや、どうだろう」
遠目で様子をうかがって見る。
人の気配はない。
誰かが最近訪問した様子もない。
民家には貯水池のようなものがあった。
「なんか飼ってたんすかね? 養殖してたとか?」
「この辺りの民家って貯水池あるところ多いよ。火事の時の消火水に使うらしい」
「へー」
相変わらず森音さんは物知りだ。

私達は築堤をさらに登った。
近所の学校から学生の掛け声が聞こえてくる。
部活か体育の授業をしているのだろうか。
築堤を登りきると、森音さんが指をさした。
私は指の先を見た。
草むらの中に佇むトンネルが見えた。
「これかー!」
私は少し息の上がった状態でそう叫んだ。
自然の中に現れたコンクリートの遺物。
ぽっかりと口を開けたような真っ暗な空間。
トンネルの周りは真冬にも関わらず草が生い茂っていた。
私達は事前にネットで北川内トンネルの情報を調べていた。ネットで見つかる北川内トンネルの画像はどれも草に覆われた画像だった。
きっと廃線マニアが夏休みを利用して回ってるから草ぼーぼーなんだろうなと思っていたが…。
「いつでも草ぼーぼーやん」
森音さんが呟いた。
私も全く同じ感想だ。

私達はカメラのファインダーを覗いてみた。
トンネルの写真というのは構図が難しい。ありきたりな構図になりがちだからだ。
2人で背伸びしたりしゃがんだりして構図を考える。
森音さんが桜の木を入れた構図を提案してきた。
桜が開花した時に桜と枝が入る構図でトンネルを撮ったらどうかと言うのだ。
なるほど、たしかにそれは面白い。
だがこの桜の木、果たして咲くのだろうか。
表皮は白いし、これまた手入れをされてる気配はない。
空き家はすぐそばにあるし、木の根元にはお墓もある。
「咲く自信ないんですけど」と私が呟くと、森音さんは苦笑した。

藪を掻き分けてトンネルに近づいてみる。
ネットで調べたところ北川内トンネルに接近した人は少ないようだ。
足元の地面は水分を多く含んでいた。
少し油断すると、靴がずぶずぶと吸い込まれてしまう。
まるで湿地帯のようだった。

バランスをとりながらトンネルに到着。

トンネルの中は水が溜まっていた。
透明な水。
水底がはっきり見える。
水底には生痕が見られた。
水底の砂を貝が這ったような痕。
「これ、カワニナだ。カワニナがいるよ」
森音さんが指をさした。
水底を目を凝らして見ると巻貝のような生き物がいる。
これがカワニナだ。
カワニナとは淡水域に生息する巻貝の一種。
地方によっては食用としても利用されている。
しかしカワニナとくれば、話題になるのはホタル。
そう、カワニナはホタルの幼虫の餌なのだ。
ホタルといえばあのお尻が発光するで有名な昆虫だが、幼虫の時は扁平な芋虫のような形をしている。
この幼虫が体をうねうねさせながらカワニナの貝殻の中に入り肉を食べる。
ちなみにインターネットではホタルの幼虫がカワニナを捕食する動画を見ることができるが、結構えげつないので耐性のない方は見ないほうがいいだろう。
ホタルに対するイメージがガラッと変わること間違いなしだ。

北川内トンネルの中にはクレソンも生えていた。
クレソンとは別名オランダガラシ。
サラダにしたり、肉や魚に添えたり、パスタと絡めたりして食べると美味しいアブラナ科の植物である。
栽培が容易なので自家栽培をしている人もいるかもしれない。
北川内トンネルの中に生えているクレソンは、思わず私の隣にいたモリネッチィさんが「食べたい」と言い間違えてしまうくらい綺麗な見た目をしていた。

北川内トンネルの中には金具のような物が残っていた。
現役時代にはどのように使われていたのだろう。
整備士が点検をしている姿を想像するとわくわくした。
矢部線は第二次世界大戦後日本で初めて開通した国鉄路線だ。
現役時代は筑後市羽犬塚駅から八女市黒木駅まで線路が繋がっていた。
予定では八女のさらに山奥、矢部まで線路を繋げる予定だったらしい。だから「矢部線」と呼ばれた。
さらに予定では大分まで繋げる予定だったというから驚きだ。
今ならわかるがその計画は素人が見ても赤字だったと言える。
矢部線が開通した時代は戦後復興の最中。
木材となる木を山から大量に運ぶので列車の需要があったのだろう。
日本の経済成長も見込んで「これからは鉄道がじゃんじゃん走る時代になる!」と地方の政治家や国鉄関係者は思ったのかもしれない。
経済成長は思わぬ方向に発展し、一家に一台。いや、一家に複数台車を所有できる時代が到来してしまった。
そうするとたかだか20キロメートル弱しかない矢部線は利用者が減り、廃線に追い込まれた。
前述したが電車は利便性以上の思いが込められた乗り物だと思う。
KYismの取材を通して矢部線の思い出を語る人物に何人か出会った。
青春時代を矢部線と共に過ごした人達にとって、矢部線廃止は青春の風景が失われたに等しいのだろう。

私達は廃トンネル散策を終えて上陽公民館に帰還した。
ここで私達は不思議な光景に出会うことになる。

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