映画『未来のミライ』レビュー

【4歳の子供も40歳の大人も自分の願いと他人の思いの価値を知る】

 結婚はしておらず、子供もいないから子育ての苦労というのはまるで分からないし、子供がどういった仕草を見せ、思考を示し、わがままを言い甘えもしては親を喜ばせ、悩ませ、怒らせ焦らせるのかもよくは知らない。

 一方で、兄弟はいても双子で歳に差はないため、弟なり妹が生まれてそちらに親の関心が向かい、兄なり姉として見捨てられたような気分になるかどうかも分からない。双子でも扱いに差はあることはあるけれど、本当の幼少期にそうした差異は感じるほどには大きくなく、長じて浮かび上がる差異も愛情の多寡と取れるかというと、単純に人間の違いによる区別だと割り切って受け止めることができるくらい、自分という存在を理解はしていた。

 だから、親という立場に自分を重ねて4歳の男の子が愛情の揺れを感じて暴れ泣き叫ぶ姿に慌てる感情は浮かばないし、くんちゃんという4歳の男の子の立場に自分を重ねて愛情を奪っていった誰かに嫉妬し暴れるような感情も浮かばない。その意味では、細田守監督による長編アニメーション映画『未来のミライ』は自分とは縁遠いキャラクターたちによって繰り広げられている、無縁に近い物語だとも取れる。

 けれども、だからといって『未来のミライ』は自分と無縁の映画では決してない。逆に、人間としてこの世界に生まれ、育ち、長じて老い、死んでいく日々を経験している者のすべてが、どこかに自分との重なりを感じ、共感めいたものを覚えることができる映画だ。全方位に全開放され、全世代から関心を持たれ得る映画と言っても良い。親でも子でも、青春まっただなかの男女でも、友達の少ないオタクでも見ればそこにつながりを感じられる。そんな映画だ。

 大人の身で見るならば、美人で頭の良さそうな女性が妻になったからといって、家庭は毎日が明るくて楽しく幸せに満ちたものではないし、優しげで才能のある夫だからといって、家庭内で役にたち自分のことだけを思っているものでもないということを突きつけられる。

 有り体の幸せな家庭像といったものとは違う現実を現出させては、人間はそれぞれに個人であって、個性があってほかと相容れないこともあるけれど、それでも重なり合う部分を見つけて寄り添っていけるのだという真理を感じさせる。全部が理解できる訳ではなく、全部を受け入れられる訳ではないけれど、それでもお互いを認め合うことはできる。そんな真理も感じられる。

 子供の立場で考えるなら、自分を中心にして世界は回っている訳ではないけれど、それでも自分を強く思って欲しいのだったら、誰かをちゃんと思うこともしておいた方が良いと諭される。受け入れること。認めること。そうやって子供は自分を貫き通しつつ、誰かに譲ることも覚えて、この大勢の人が生きている世界を歩んでいけるのだと知るのだ。

 誰だって自分ひとりでは生まれてこられないし、生きてだっていけはしない。遠い昔に誰かがいて、生まれ成長して誰かと出会ったから今の自分が存在する。そういった成長や出会いの過程で感じたつながりの価値が、くんちゃんという4歳の男の子の周辺で繰り広げられるファンタスティックな出来事によって描かれる。自分は自分だという当たり前のことを知らされ、そして誰かもそんな風に自分は自分だと思っている誰かだと教えられる。そのことによって自分がいて、誰かがいるこの世界にしかりと足を下ろし、踏みしめて進んでいけるのだ。

 くんちゃんでもない。お父さんやお母さんでもない。ばぁばやじぃじやひいじぃじでもない。特定の誰かに自分を重ねて見るよりも、物語の中で起こるさまざまな出来事の中で親になり、子になり、犬になり妹になり自分自身にもなって自分を感じ、周囲を感じ取っていくことの大切さを知る映画。全方位で全世代向けというのはそういう意味だ。

 それでいて決して平板にならされていて、どこから食べても同じ味の甘い菓子にはなってはいない。それぞれの世代、それぞれの属性につきものの苦みを感じさせ、それによって自分との関わりを改めて思い起こさせるるという、テクニカルなのか強引なのか分からない手法に満ちた映画でもある。計算なら凄いし本能なら素晴らしい。細田守監督にとってこれはたぶん進歩だろう。どこかへと向かう。その行き先はちょっと想像が付かないけれど。

 4歳の男の子には最初聞こえなかった上白石萌歌の声が、どんどんとわがままで愛情に飢えた4歳児に聞こえてくるから不思議だし、母親の麻生久美子はきりりとして美しくて愛らしい母親といった感じを存分に味わわせてくれる。星野源の父親は優しげでどこか抜けていながらも時々薄情で自分勝手な感じもある、案外にクズかもしれないけれどそれでも頑張ろうとしている父親の感じをよく出していた。そしてひいじぃじの福山雅治。ビジュアルともども格好良すぎだ。

 そうした声の演技の一方で、絵の方も顔の芸があちらこちらで炸裂していて楽しく、動きの方もコミカルな仕草がいっぱいにちりばめられていて、こちらも見ていて実に楽しい。アニメーションを見ている意味というものがあるとしたらそこだろう。実写の俳優では出せない表情や仕草。そこへの関心を抱かせることによって映画館でまた見ようといった気にさせてくれる。ストーリーだけでは引きつけられない観客を動きや表情によって何度でも見たいと思わせる。

 だからまた見に行ってみようと思っている『未来のミライ』。通って繰り返し見て自分との関わりをさまざまな方面にだんだんと感じることによって、家族を持とうと思うとか子供が欲しいと感じたところでもはや手遅れ感もあるからそこは抑えつつ、誰かへの関心と配慮を覚えつつ、自分への関心や配慮もお願いと思う、そんな連鎖が世界に満ちれば誰かに思われ誰かに思うつながりの中、もっと楽しくて生きやすい世界になるかもしれないのだけれど。(タニグチリウイチ)

≪2018年7月30日追記≫

 映画館で2度目となる「未来のミライ」を鑑賞。やっぱり面白い。4歳児の経験という形で繰り広げられるさまざまな出会いと、そしてその時々の問題意識の解消は、子供の立場から考える世間の荒波の突破の仕方でもあるし、大人の立場から見る子供が抱えた問題の検知でもあるんだけれど、そうした親子の問題に限定して考えるから、ティーンや大学生といった若い層が映画館へと足を運びづらくなる。自分たちとは関わりのない映画だと思ってしまう。

 でも、この映画は、そうやって親子のそれぞれの問題に見せかけて、誰かの子であり誰かの親になるかも知れず、そうでなくても誰か大勢の人たちの中に生きている自分たちが自分を分かってと願い、誰かを分かろうと感じる気持ちの大切さを改めて突きつけてくるもの。つまりは誰とでも関係を持ち得る開放されたものなのだ。

 自分の子供でなくても、誰かの子供が困っているならそれはどういうことかを感じ取る。子供がいる親が悩んでいるようなら、それはどういう理由からかを推察する。弟や兄や姉や妹がいる同級生が抱える悩みも戸惑いも、そしてこの世界に生きるすべての人たちが日々直面しているさまざまな苦しみも、すべて自分に関わりのあることとして考えることで道は開け、自分自身にも今あるなりいつか訪れる壁の突破につながる。

 そういった意識で見ることができれば最高に楽しくて面白い映画で、なおかつコミカルな描写もたくさんあって笑いながらエンディングを迎えられるんだけれど、すでにして子と親の映画であってティーンには無関係のような顔立ちを持ってしまった。

 そこを崩すだけの材料がないと、このままランキングも落ちていって『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』のような成績に終わってしまうんだろう。『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』も最高の映画で、10回は劇場で見ただけに世間は何で分かってくれないという思いも強いけれど、分かってくれないのが世間だとも知っている。だからせめて自分たちとの関わりを感じて欲しいとここに呼びかけ、焦りまくる未来ちゃんのかわいらしさを味わえる映画だと喧伝して観客の動員を促そう。

 本当に本当に面白いんだから、『未来のミライ』は。山下達郎のオープニングとエンディングを聞き、そしてやっぱり『けいおん!』のさわちゃんに聞こえてしまう真田アサミのセリフを聞きに行くだけでも価値があると断じたい。さわちゃんがあの福山からプロポーズされるシーンを脳内に浮かべられる映画。ほら、自分と関係あるように思えてきただろ?(タニグチリウイチ)

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