映画『リズと青い鳥』レビュー

【わたしがあなたを「好き」なのと、あたながわたしを「好き」なのは同じじゃないの?】

 わたしがあなたに抱く「好き」という思いと、あなたがわたしに抱いているかもしれない「好き」という思いが、まったく同じなんてことはない。わたしとあなたという違う人間が抱く感情は、「好き」に限らずどんなものでも強さが違うし、熱さも違うし、向いている方向、気持ちが及ぶ範囲だってまったく違う。そんな違う感情の中から重なる部分を見つけ出し、感じ合うことでわたしとあなたは同じような立場の上に自分たちを置いて、同じような日々を送ることができる。

 それは、人間という思いを抱き巡らせることができる生物にとって当たり前の話なのに、なぜか物語の中に出てくる登場人物たちの思いを、読者なり視聴者なり鑑賞者はまるで同じもののように感じ取っては、重なり合って強くなったその思いが何かを成し遂げようとするさまに強く感情を添えてしまう。「友情・努力・勝利」といった方程式の上で繰り広げられる物語が人気なのも、それぞれが違っている人たちが気持ちを寄せ合いひとつにまとめて同じ方向へと進む強さに惹かれるからだろう。あるいは、現実にはそうではないからこそ、現実ではない物語にこそひとつの重なり合ってズレのない感情を求めたがるのかもしれない。

 けれどもやっぱり、ひとりひとりの思いは違う。「好き」という感情もわたしとあなたでは違うのだという”現実”を、改めて示して突きつけようとする。山田尚子監督が『響け!ユーフォニアム』という武田綾乃の小説シリーズをひとつの原作に、同名のテレビアニメーションや総集編的な2本の映画とはまた違った視点から描き出した長編アニメーション映画『リズと青い鳥』は、そんな作品なのだと言える。

 メインとなるのは、鎧塚みぞれというオーボエを吹く少女と、傘木希美というこちらはフルートを吹く少女。『響け!ユーフォニアム』のシリーズで舞台となっている北宇治高校吹奏楽部に所属する3年生で、それぞれが全日本吹奏楽コンクールをひとつの頂点にしたコンクールに向けて練習を始めている。映画では説明がないけれど、みぞれと希美は同じ中学校の吹奏楽部を経て北宇治高校へと入り、そこで同じ吹奏楽部に入ったものの、1年生の時にやる気がない先輩たちに嫌気を覚えた部員が大量にやめる事態が起こり、希美はそのひとりとして吹奏楽部を離れた。

 ずっと希美といっしょだった、そして『リズと青い鳥』にも描かれるように希美に誘われるような形で吹奏楽を始めたみぞれにとってそれは青天の霹靂で、なおかつ一言も相談がなかったことを悲しみ怒りすら覚えたのか、長く引きずって希美のことに触れるのを極端にいやがっていた。そんなエピソードはテレビシリーズで、2年生になっていた希美が吹奏楽部に復帰を願いながらも、副部長の田中あすかがみぞれの調子が崩れることを恐れ、拒絶し近づけようとしなかった展開に描かれている。

 それでもやはり腕は良かったからか、希美は復帰を果たしてふたたびみぞれと一緒にフルートを吹き、みぞれも希美といっしょにオーボエを吹くことが嬉しかった。そして迎えた3年のコンクールで自由曲として与えられたのが「リズと青い鳥」という楽曲。とある童話を元にした音楽で、ひとり暮らしをする人間の少女リズが、ある日家の前に倒れているのを拾った青い服を着た少女とともに暮らし始めるものの、その“正体”に気づいてある決断をするといったストーリーに準じている。

 そのリズと青い服の少女の関係に、みぞれと希美は自分達を重ね合わせる。自由に羽ばたける翼を持ちながらもリズのところに居続けたいと願う少女。その少女が気になりながらも自由を奪っている自分を責めているリズ。ともに抱いているお互いがお互いを「好き」だという感情の、純粋な美しさを感じさせつつだからこそ奪ってはいけないものがあるのだとも思い起こさせる。

 もっとも、リズと少女の関係とみぞれと希美の関係はまったく同じではない。当たり前だ。人間の感情は同じ「好き」でもまったく違うことがある。リズは少女が「好き」だから追い出す。少女はリズが「好き」だから飛び立つ。その「好き」に果たして違いはあるのだろうか。同じだけれどでも、結果として正反対の方向を向いて放たれただけではないか。

 みぞれと希美の「好き」はそれほど単純ではない。吹奏楽部に誘ってくれて、いっしょに演奏してくれて、自分を気にしてくれる希美をみぞれは「好き」だった。その全部が「好き」だったけれど、希美はどれくらいみぞれが「好き」だったのだろう。そこの判断がとても迷う部分だ。映画の中で希美はみぞれの音楽が「好き」だったことを打ち明ける。それはみぞれが希美に抱く「好き」な気持ちと比べて少し冷めてて小さく薄いようにも感じられる。同じ「好き」という言葉の上で、共に努力し友情を育みながら勝利を目指す物語にはない、人間の世界ならではの感情のズレが、とてもよく表された場面だ。

 かたや親愛でありこなた恋情とも取れそうな感情、かたや救済でありこなた依存とも言えそうな関係が浮かび上がって、そこら生まれるもどかしい思いに観客は心をさいなまれ、ふたりの間を飛び交う針のようなものに突き刺されている痛みを覚える。そうしたすれ違いを含みながら、それでも重なる部分を探り合って近づきまったく同じではなくても、同じような方向を向いて歩み出す。そんな展開に良かったのだろうか、良かったのだろうといった葛藤の果ての諒解を得て、ホッと安心して劇場を後にできるのだ。

 もっとも、そうやって観終わって思い返して、希美のみぞれへの「好き」な感情が果たして本心なのか、実のところはよく分からない。自分を隠して表面を取り繕うことの少なくない希美の「好き」を真に受けて、みぞれが振り回されるといった構図もあるにはあるけれど、才能への嫉妬や上に立ちたいという欲望、もっと単純に見捨ててはおけないといった親切心がまだら模様になって存在している希美というキャラクターを理解するには、90分の映画はあまりにも短い。

 シンプルに希美が「好き」なみぞれの起伏する感情を追いかけながら、容れられない思いにやきもきをして涙する見方もありだろう。一方で、その時々に置いて「好き」の熱さも濃さも方向性も変わる希美という少女の、とてもとても人間らしい複雑な感情を探りながら、自分ならこの場合どういった「好き」を抱くのだろうかと考えてみるのも良さそうだ。

 『リズと青い鳥』はそんな、鎧塚みぞれと傘木希美の物語であるけれど、他にも登場するキャラクターたちもそれぞれにみぞれと希美の関係をいろいろと心配して眺めている。部長になった吉川優子に副部長の夏川夏紀のコンビは、みぞれの心境、希美の態度が生むギャップに気づいて何とかしようとしている。ふたりですら気づいているなら当の希美だって分かっていただろうけれど、それを表に出さないのも希美の強がりであり弱気でもあるのだろうと、改めて思えてくる。

 『響け!ユーフォニアム』のシリーズでは、メインヒロインの位置にあるユーフォニアム担当の黄前久美子とトランペット担当の高坂麗奈も、たぶんみぞれと希美の煮え切らない関係をその演奏から感じ取っていたのだろう。それとも麗奈だけが高い音楽センスの中から直感したのかもしれないけれど、そんなふたりが明らかにみぞれと希美を意識してぶち込んでくる企みがなかなかに素晴らしく、そして末恐ろしさも感じさせる。ふたりが3年生になって北宇治高校吹奏楽部が目指す場所、たどりつく地平が今から気になって仕方がない。

 みぞれの下でオーボエを吹くことになった1年生の剣崎梨々花がとても良い味を出していたのも『リズと青い鳥』の見所か。下級生の面倒見が良く人気もあって社交的な希美を見つつ、自分たちもみぞれと交流したちと願いながらも果たせずガッカリする、その感情を思うと可愛そうになってくる。それでもへこたれず諦めないでぶつかり続ける健気さが、プールに誘われるという行幸をもたらしたのだとしたら、やはり無理でも挑み続けることが大切なのかもしれない。

 そんな梨々花がプールに誘われるシーンで、そのことをみぞれから打ち明けられた希美が見せる表情もまた、『リズと青い鳥』の表現手法としての見所だろう。メロディアスな音楽によって感情を表現することをせず、セリフに乗せて感情を吐露させることもないこの映画において、描かれたしぐさや表情、あるいは全身のどこを見せているかという演出、そして演じる人の声音が、人間の奥深い感情といったものを浮かび上がらせる。

 目配りして耳を澄まし、流れからしっかりとそれらをつかむ必要がある映画は、あるいは優しさに欠けるかもしれないけれど、それだけ集中力を求められ、だからこそ感じ取れた時に得られる感慨も強くて深い。そうか。そうだったのか。そうなんだ。そんな驚きと発見に満ちた時間を過ごし、観終わっても考えながらそうかもしれないと思索を巡らせる。そしてまた映画館へと足を運んで確かめる連続によって、その時々の『リズと青い鳥』への「好き」な感情が生まれる。

 それは次にまた『リズと青い鳥』を見て感じる「好き」と同じものとは限らないのだけれど。(タニグチリウイチ)

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