映画『虹色ほたる~永遠の夏休み~』レビュー

【昭和50年代の田舎を舞台に子供たちの日常、離別の哀しみ、再会への希望の物語がとてつもない作画で描かれる】


 能登かわいいよ能登。こと能登麻美子さんを見に行く。じゃなかった、朝も午前7時半には家を出て向かった新宿はバルト9で、今日から上映が始まった長編アニメーション映画『虹色ほたる~永遠の夏休み~』の上映と、舞台挨拶を見に向かう。

 すでに1度、試写で見ているけれどその時ですら感涙にむせび泣いた作品。ストーリーを言うならユウタという名の少年が、ダムのそばにある山にひとりでカブトムシを取りに来て、嵐に巻きこまれて濁流に流され気がつくとそこは昭和52年という、少年の生きていた時代からはおよそ30年前後は遡った時代で、自分が見た時はダムに沈んでいた村がまだあって、出会った少女に引っ張られるようにそこに連れて行かれたユウタは、何故か少女の従兄弟だとして受け入れられ、秋はもうみんなが引っ越してしまうだろう最後の夏休みを目一杯に過ごす村の子供たちに混じって、いっしょに昔の田舎の夏を遊ぶ。

 昭和を描いて今の大人に子供の頃を思い出させるというノスタルジーな感動だけなら、他にもいっぱいあるだろう展開だけれど、ここにまずダムに沈む村という要素が入って、そこに暮らしている人たちの離別という悲しみが折り重なって気持を揺さぶる。ケンゾーというダムに沈む村に暮らしているて、未来から来たユウタとすぐに仲良くなった小学6年生くらいの少年にずっと好意を寄せていた芳澤さんという少女も、夏の祭りが開かれる前に村から引っ越して行かなくてはならなくなって、今まで言えなかったケンゾーへの思いをユウタを介して、というかまあ彼をダシにして告げ、一夏の一晩の逢瀬を繰り広げてそしてしばしの離別へと向かう。

 何とも切ない展開。また会えるね、絶対に会おうねっていった転校とかにまつわる子供の約束なんて、その後かなったためしがないんだってことを妙に知ってる大人たちには、そんな記憶も重なって余計に切なさが募るけれども、そこは純情一直線なケンゾーだった様子。物語が現代に戻ったところで、ダムの湖に蛍を呼び戻そうと頑張った彼の横にいた女性たぶんあの時の芳澤さんじゃないのかな。離れても忘れないで出会えて結ばれて。そんな関係がちょっと羨ましくなって来た。というより無茶苦茶羨ましい。ケンゾーもげろ。爆発しろ。ケンゾーと元芳澤さんが連れてた子供2人がユウタとサエコに似ていたように見えたけれども、一瞬だったんで不明。次に見るときはしっかり見よう

 そしてもうひとつとして、自分とは違う過去という時代に来たことで生まれる離別がある。それはユウタが夏を通じて仲良くなったケンゾーや、面倒をみてくれたおばあちゃんたちと別れなくてはならない寂しさでもあるけれど、それよりもユウタをおばあちゃんの家まで連れて行った、サエコという少女をめぐる離別のドラマがどうにも寂しく、そしてどうにも狂おしい。

 それはいったいどういうシチュエーションから浮かぶ感情なのかは、映画を観て知って欲しいけれどもとにかく、その道を選んではいけないという切なる叫び、けれども留まったとして何を拠り所にできるのかという懐疑、そんな狭間で懸命に手を差し伸べることで開ける可能性への歓喜といった様々な感情が、わき上がってせり上がってきて知らず目を涙で濡らす。例え出来過ぎかもしれない奇跡でも、訪れて嬉しい奇跡。安寧の中に瞼を閉じて彼と彼女の未来に喝采を贈りたくなる。

 そんなストーリーをしっかりと、昭和50年代の山間部の風景に描いてみせた宇田剛之介監督の手腕に拍手。加えて、そうしたノスタルジックさと田舎の子供たちならではの躍動感を、揺れて動くキャラクターたちの絵の中に表現してみせたアニメーターの人たちにも。まるでいわゆる”アニメ的”とは言えない絵で、イラストや絵本が動いているような感覚を人によって味わうかもしれない。アニメ的な定まって綺麗で可愛らしい絵に慣れてしまった目には、ちょっぴり雑で不思議に映ってしまうかもしれないけれども、やっていることはとてつもなく凄まじく高度なことだったりする。

 どんなにデフォルメされて簡略化された場面でも、あるはアップのシーンでのべつまくなし線が動くような絵にしても、人物としての雰囲気は崩さず、しっかりと動きを見せつつ、それで空気感から心象から表現してしまっているから驚くばかり。日本のアニメーションが持つ技術力の高さ、表現力の幅広さという奴をまざまざと見せつけられる作品として、絶対に崩れず最後まで極めて真っ当に整っている沖浦啓之監督の『ももへの手紙』とは、表現の方法として対局に置かれるかもしれないアニメーション。個人的には内容とのシンクロ具合、それを表現するための必要さって意味で『虹色ほたる~永遠の夏休み~』に気持が傾くかなあ。この話を『もものへの手紙』の絵でやっては、受ける印象がやっぱりちょっと違うんだ。

 子役として活躍している少年少女が声優として実に巧みな演技を見せてて、とりわけユウタを演じた武井証さんと掛け合いをやった、青天狗として出演していた大塚周夫さんも驚いたという話。サエコを演じた木村彩由実さんの可愛らしさといったら、能登さんに負けず劣らずとてつもなく。小さくて細くて映画のサエコみたいだったけれども、その淡々と喋る声に反して、映画の方では明るく気丈に見えるサエコから、夜にひとり悲しみを思い出してむせび泣くサエコまでを演じきってみせてくれる。その声を、あの作画による千変万化の表情とともに見るだけでも価値は存分。もう可愛くって頬ずりしたくなる。ふくらました頬をひっぱたりとか。出来ないけどね、絵だし。

 観客を前にしても動じずそしてしっかり自分の考えを言えて世間に対して映画の良さを伝えられる言葉ももった子役の人たちの舞台挨拶に、大人たちも冗談めかしたことは言えないで、ユウタの大人を演じた櫻井孝宏さんも、サエコの大人を演じた能登麻美子さんも、ケンゾーの大人を演じた中井和哉さんも、それぞれに映画の良さ、子供たちの演技への賞賛、そして過去に戻れたら行ってみたいところといった質問に答えて観客を喜ばせつつ、映画の魅力を伝えていた。

 誰もが参加したことに喜びを感じている映画。見た人も好かったと喜び涙する映画。大スクリーンでやっているうちに絶対に見るべきと断じたいけれど、これほどまでにすべてが重なり合ってかみ合ったアニメーション映画を、新聞メディアあたりは、映画の紹介で小さく扱うくらいでその超演技も超作画も超演出も紹介しようとはしない。もしもこれがスタジオジブリの映画だったら、誰の作品だってでっかく取り上げるのに。見るべきものを見ず伝えるべきことを伝えないメディアの至らなさ。そうやって取り残されていくんだろうなあ、時代から。

 そして3度目の『虹色ほたる~永遠の夏休み~』。見てその度にグッと来るピークが少しづつ違う。3度目はユーミンこと松任谷由実さんが作って井上水晶さんが歌う「水の影」が流れて来て、ユウタがさえ子の手を引き燈籠の並ぶ道を駆け抜ける場面がピークになった。とてつもなく絵が凄いってことで話題にもなっているけれど、そこはさえ子にとっては中陰ともいえる場所だったダムに沈む村から、最愛の兄がいる場所へと向かおうとしていた気持をユウタが懸命に引き戻すというシーンは、現代でも過去でもない時空の狭間、あるいは生と死の間を駆け抜けるという真摯な意味合いを持っていて、だからこそああいった絵が生きてくるんじゃないかと気がついた.

 そこから浮かぶのは、「生きてさえいれば」という思いと願い。それらがギュッと凝縮されたように感じたからこそ、見ていて心にじんわりと来るものがあったのかもしれない。迎えに来たのかそれとも見送りに来たのか、道の脇に立つ兄を見つけながらもユウタの手を離さないまま、兄の通り過ぎ生きると決めたさえ子の思い。行っちゃだめだと訴えまた会おうと約束をして、さえ子を中陰から引き戻そうとしたユウタの願い。それらが通じ合い、時空を戻して結ばれるラストシーンに、今再びの歓喜が湧いて泣かされる。凄いアニメーションだったなあ。でも次に見るとまた違う場面で泣くんだろうなあ。

 それとは別に、さえ子がユウタを見上げて「あーやしーぃ」とニヤつくシーンでのさえ子の表情が本当に可愛かった。あと町の花火が輝くと岩だなから見ているユウタや芳澤さん、ケンゾーの体の縁がチラと光るように見える作画が地味だけど凄かった。見れば見るほど発見がある『虹色ほたる~永遠の夏休み~』。あと2回は見たいな。次は練馬のTジョイへと行くか、東映アニメーションの本拠地だし。

 というわけで、午前6時に起きて大泉学園まで行ったけれどカブトムシはいなかった。陽が当たっていない木の斜めになった裏側を探そうとしたけれど、陽が照ってなかったし斜めになった木もなかったしその裏側にもぐりこめもしなかった。午前7時過ぎではやっぱりカブトムシも家でお寝んね。まだ暗いうちに懐中電灯で探すこくらいのことをしないと見つからないんだろうなあカブトムシ、ってどっちにしたって大泉学園では無理か。

 カブトムシ探しは諦めて、ほたる見物に目的を切り替え試写も含めて4度目となる『虹色ほたる~永遠の夏休み~』をTジョイの大泉学園で見る。なんでまたはるばる練馬まで、ってことになるけどそこはほら、本拠地の東映アニメーションが真横にある聖地で観たいじゃん。聖地だけあって虫かごとか原画とかが飾られたショーウインドーがあって、それからプリクラじゃないけど撮った顔写真を、『虹色ほたる』の場面と合成して出力してくれるマシンがあって、資料を眺めたあとはそのプリント機で自分をパチリして遊ぶ。

 これで夕方だと近所から子どもたちがいっぱい集まっている中で、大のおっさんがひとりでプリクラってそりゃキモがられること確実で、出来そうもないけどそこは午前8時半からちょいの静かな館内、誰にはばかることもなくダムの村の子どもたちをバックに撮ったり、大人になったサエ子とユウタがダム湖のほとりで寄り添う画像をバックに撮ったりして楽しむ、って後者はあんまり楽しくないなあ、リア充爆発しろ、でもサエ子は可愛いからユウタだけもげろ。もしも映画の熱烈なファンでいっしょにフレームに収まりたいと思いつつ、女子高生のエグい視線に怯えてできない大人の男子は午前8時50分とかからのTジョイ大泉学園を見るついでに、誰もないロビーでパチリすると良いと思うよ。

 映画は見返して、やっぱりサエ子がとっても可愛いと分かった、って今さら言う話でもないか。シーンでいうならまずは初登場の場面でのちょい堅そうな表情がつぶらなヒトミと相まってなかなか。それから芳澤さんとケンゾーが前を歩く後ろでドギマギするユウタを「あやしーっ」ってからかう場所のちょい下がふくれた顔と声。さらにその後に気持を揺らがせて倒れて深い眠りについてから、目覚めて鏡台で髪をといてもらっている時のきょとんとした顔やにかっとした笑顔がもう可愛くって可愛くって、この顔を見るためならまた通いたくなるってくらいに可愛かった。そういう部分がある映画って強いよね。声を演じている子の演技力や声質もやっぱり最高だよなあ。そんな最高の結実があの空気感につながっているんだろう。

 エキサイトレビューでは、宇田鋼之介監督のインタビューも出ていて気になっていた場面がやっぱりといった感じに理解できるようになって、さらに見る楽しみも増した感じ。中陰あるいは中有をたゆたう感じの立場でいたサエ子が、どちらにいくかの決断を迫られ傾いた兄への思いを、ユウタの強引な引っ張りが引き戻したという解釈はやっぱり正しかったみたい。そして、そうした彼岸と此岸の間にある場所があの燈籠が立ち並ぶ細い道で、そこを走り抜けながらサエ子は彼岸にいる兄にサヨナラを言って生きる決意を固める。

 だからこそのあの絵であり、あの動き。ただものではない雰囲気をあの絵によって感じさせられ、見る人はただごとではない何かが起こっていると、分からないまでも感じ取れる。だからきっと監督も、絵コンテとはまるで違った大平晋也さんが描いたあの絵にOKを出したんだろう。監督のアイディアだけでなく、多のクリエーターの考えも入る集団作業によって得られるこれが効果って奴なんだろうなあ。それは杉井ギサブロー監督も『銀河鉄道の夜』であったって言ってたっけ。技術が進みツールが発達してひとりでもアニメを作れる時代になったけれども、集団には集団の良さがある。それを杉井監督は感じてもらおうと『フミ子の告白』や『rain town』で注目されてた石田祐康さんを『ブドリ』の現場に引っ張ったのかな。

 映画館を出てそしてちょっと歩いて東映アニメーションギャラリーの『虹色ほたる~永遠の夏休み~』に関する原画や絵コンテの展示を見物。絵コンテはAパートの1枚くらいしか見られないんで他の場面がいったいどんな感じに描かれていて、それをアニメーターがどう自分なりに料理したのかまでは分からないのが少し残念。是非に絵コンテ集は出してほしいし、単著が無理でもBDやDVDにくっつけるか、映像と同じシーンを互い違いに再生できるような仕組みなんかを入れてくれたら勉強にもなるので是非に。そういうことって可能だったっけ、ジブリアニメでやってたっけ。

 展示してある原画はユウタもサエ子もケンゾーもぴたっとま止まったシーンしかなくって、崩れながらも動きまとまって見せるシーンはなかった。それも見たい見たいみたーいーっ。サエ子みたい。あの青天狗の前でぐにゃぐにゃとなるユウタの原画が見てみたい。そんな原画はありません、あれはモーフィングで作りましたってんならちょっと笑う。というわけで面白かった4度目の観賞。また行きたいけれど次はどこで見ようかな。最終日に浴衣を着て背に内輪を挟んで手にほたるの入った虫かごを持って行きたいな。映画館で光ったら迷惑か。やっぱりほたるはやめておこう。

 そして5度見ても、言いたいことがいっぱいあってついつい後回しになってしまうこともあるくらいに、いっぱいの情報にあふれたアニメーション映画『虹色ほたる~永遠の夏休み~』。あのダムに沈んだ村での生活が幻想で、ユウタとさえ子の脳内に繰り広げられた光景かもしれないという見方も出来そうだけれど、それだとユウタがケンゾーに渡した帽子が、ほたるミーティングの時にケンゾーの子供に渡っているという理由につながらない。だから、多分過去は過去であったと理解しつつ、そんな輪から外れてしまっているおばあちゃん、というキャラクターの実在については案外に、まだまだ検討の余地があるのかもしれないと思っていたりする。

 ラストに近い、ユウタがせつ子の家のトラックに乗って離れるシーンで、おばあちゃんの家を出るユウタにおばあちゃんは、お弁当を渡したあとでトラックの所に見送りに行くことはしない。一応は孫が帰るというその姿を間近で見ないのは子供たちの挨拶に年寄りが水を差すのは遠慮したい、という気持からなのかもしれないし、杖をついている姿から足が悪くて遠出が出来ないからなのかもしれない。ただ、普通だったらそこで笑顔なり、泣き顔なりを見せて見送るだろう場面でおばあちゃんの顔は、門の陰にかくれて黒くなってよく見えないようになっている。

 それは、表情を曖昧にして感情のたかぶりをもうちょっと後の、ユウタとケンゾーの別れに持って行きたかったからか。それともあの世界における中陰あるいは中有としてさまよえる魂に安寧を与える場所としての役割を果たすための、一種象徴的な存在だったのか。後者ならあそこでユウタを送り出して役目を終えて向こう側へと戻っていく、そんな彼岸と此岸の狭間に立っている姿を、あの顔が見えず書き割りのような姿でもって指し示そうとしたのか。正しいところは分からないけれど、宇田鋼之介監督のことだから、絶対にその顔を陰にしたことに意味を持たせてある。

 そんなところをムックとか出る予定があるなら誰か、尋ねてあげて欲しいなあ。DVDが出る時にまた話を聞いて記事にするってメディアが出てくれてもいいけれど。僕にはそれができそうもないから。(タニグチリウイチ)

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