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若くてちょっと綺麗な女として生きること

女として生きる、という言葉がある。私たちは女として生きているのだろうか? 慶應ミスコンセクハラ問題の記事を読んでいたら考え込んでしまった。

感覚的には、私はただ生きてるだけで女だ。生まれ持った性に違和感はない。私は女だ。だからといって女を振りざして生きてきたつもりもない。

でも、私が文字を書く仕事を始めたきっかけを「女優の卵だったとき、『編集長がきっと媒体にあっていると思うから』と誘ってくれた」と語ると、「あ〜……」みたいな空気がにじむ。続けて話しているうち、「編集長って女性なんだ!!」ってびっくりされる。

それで気づいた。「あ〜……(おじさんに気に入られたってことね)」なのだ。

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高校生のとき、キラキラ派手なグループの女の子たちが、自販機を管理するおじさんと仲良くしていて、ジュースをもらっているのをよく見かけた。

そういうのやだなーと思っていた。女の子たちはいい。明るくて可愛いだけで、なにも悪くない。可愛い女の子に、可愛いって理由で利を与えてしまうおじさんってやだなー。

わたしは自分が若くて可愛いだけで仕事がもらえるほど、自分が可愛くないことも、若くもないことも知ってる。つもりなので、「あ〜……」って言われることが、すごく不思議だった。みんな若くてちょっと可愛いことに期待しすぎじゃないか? 世の中そんなに甘くない。

大学生のころ、「私は女であることで得をしたことも、得をしようとしたこともない」と言ったら、インカレサークルの男の先輩が言った。

「そんなことは絶対ないよ。うららがうららであるっていうことで得をしたことが絶対あるはず」。面とむかってそんなことを言われたことがなくて、よくわかるような、全然わからないような気がした。この感覚と「生きてるだけで女」は近いかもしれない。

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私は女子大を卒業している。
上京してから、毎朝顔を合わせるのは寮の女の子で、学校に行っても女の子しかいなくて、週のうち5日は寮番さんや教授くらいしか日々男性を見かけない。

うちの大学にはごりごりの「フェミニズム」の血が流れていて、「権利は勝ち取るもの」、「主張し続けなくてはならないもの」、「屈してはいけない」というのが「女として生きる」原則のように言われていた。

めっちゃしんどいじゃんって思った。

高校まで地方の公立学校に通っていた。
それまで私は私が女であるから男に負けたと思ったことが一度もなかった。

運動はもともと別に得意じゃないから、女だから勝てないってこともない。ふつうにできない。勉強だって、体力の限界や差を感じるほどやってない。女だから敵わないってこともない。学習量と努力の差だ。弟がいるけど、お姉ちゃんだから、弟は男の子なんだから、お父さんは偉いからって言われて育ってこなかった。

女だから何か不利益を被ったこともなかった。
女だからかなーってあの頃思ったのは、男の子たちのなかよしグループにいれてもらえなかったことくらいだ。(いま、ブロマンスを溺愛しているのは男ノリに憧れがあるからかもしれない)

女子大に入ったことで、私は強制的に「女」にされた気がした。だって私はそれまで男でも女でもなく、一人の人間でしかなかったのだ。

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二十歳をすぎるまで私は恋人ができたことがなかった。言い寄られたりすると気持ち悪く感じてしまった。それまでたのしくやってたのに、「女」であることを急に押し付けられたような気がして。振り返ると、自分の性がパーソナリティに追いついていなかったのかもしれない。

だんだん、どうしたって私は女だから、それによって生まれる「好意」も「利」もはねのけるのはしんどいって思うようになった。今は世間のいう「女の利」は「女であることによる損失」と紙一重だと感じる。女だから起こる損失は生きていく上で、必ずある。それはビジネス上でも、感情の上でもそうだ。

利を受けないから、不本意な損失を受けないわけではなく、利をはねのけても、私が女であることには変わりない。それを甘受しないからといって、私が女ではないことにはならなかった。

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若くてちょっと綺麗な女であることは、有利なことだと言われる。そこに分類されることはいいことだとされている。

私自身もいまミスコンに参加している。私は自分が若くてちょっと綺麗だと思っているからミスiDに応募したんだとおもう。なんで出場したのか 素直に考えると、焦っていたからだ。その若さやちょっと綺麗であることを持て余しているかもしれない と焦っている。自分にはそれしかないっていうほど大きなものじゃないけど、いくらか私の人格を支えてきたものたち。失う前になにかしておきたかった。なにかしたと思いたかった。

遠くない未来に私は若くてちょっと綺麗な女という扱いを受けなくなる。それをどこかですごく恐れていて、でも、あれもこれも若くてちょっと綺麗だからでしょって扱われることが、とても不本意だ。

慶應ミスコンのような一件が露呈すると、ミスコンに出るから、調子に乗っているから、そういう目に遭うんだ という人が必ずいる。違うって思う。でも、もしかしたら違わないのかもしれない、仕方がないのかもしれないという諦めが知らない間に胸に埋まっている。

若くてちょっと綺麗であることは、必ず解ける魔法で呪いで、私はいま自分にそれが降りかかっていることを日に日に肌で感じている。誰も私に今だけだよ なんて言わない。私が自分に言い聞かせているのだ。

ただ生きているだけで女であること。柔らかい体も、ひらひらした洋服も、メイクもスキンケアも、全部気に入っている。それはとてもしあわせなことなのに、呪いのように感じる日がある。

きっとしんどいのは、自分の中に自分を苦しめる架空の世間があるから。自分の中にある限り、どんなに正しそうな見た目でもそれは架空でしかない。人のことって変えられないから、せめて自分を救えるようになりたい。自意識とセクハラと女の生きづらさ。私の中で全部すごく近いところにあるけど、うまくまとめられない。うまく言えるようになったら、全部綺麗にほどけそうなんだけど。


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