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日曜日の出口

日曜日の夜、ひとり椅子に座ってぼんやりと本を読む。目で活字を追ってはいるが、あまりその文章の内容はすっと頭に入ってこない。すると、テレビから聴き覚えのある音楽が流れ出す。大河ドラマのテーマ曲だ。「5分で分かる「西郷どん」」が始まった。深夜に、つい数時間前に見た「西郷どん」のダイジェスト版が放送されている。もうすでに見て知っている内容なので、読んでいる本に集中するためにテレビのヴォリュームを極限まで絞ることにする。だが、それでも少し気になって、ちらちらとテレビ画面に目がむかう。音は出ていなくても、画面の下には大まかなあらすじを説明するテロップが出ているので、何の場面かはすぐに把握することができる。しばらく本を読みながら画面を見るという難儀な作業が続く(あまり複数のことを同時に処理することができないタイプなのだ。あれこれ同時にすると結局はいずれもが疎かになる)。ただし、最後に流れる次回の予告の部分だけは、しっかりと見て次週に何が起こるのかを再度確認しておく。
そのままテレビをつけっぱなしにしておくと、いつからかその後にアニメの番組が放送されるようになっていた(ちょっと前にはピアニストの話をやっていたように記憶している)。そこで放送されていたのは、ほとんどアニメを見ることのないものにとっては、ちょっと物珍しい感じのする時代物のアニメであった(時代劇が好きなわたしにとっては、かなり取っ付きやすいタイプのアニメであったといえる)。最初は、音を絞ったままちらちらと見ていたのだが、次第に少しずつヴォリュームを上げて、本を読みつつもアニメのストーリーを大まかにかいつまんで把握するという状態へと移行してゆくようになった(やはり相当に難儀しつつ)。そして、ほどなくしてアニメ「つくもがみ貸します」は、まんまとわたしの読書タイムを中断させることに成功するのである。
このアニメは、江戸は本所深川にある損料屋(貸道具屋)、出雲屋に流れ流れて流れ着いた個性的なつくもがみたちと出雲屋に関わる人々が粋に織り成す痛快人情時代活劇である。つくもがみとは、つまるところ物(道具)に宿っている神(物神)のことであり、人間がもっている所有物・専有物に対する深いフェティシズムから生じたものだといえる。所有する人間によって大事に扱われてきた道具は、それが物の持ち主のフェティシズムの対象となればなるほどに、それすなわちプシュケー/魂/神が具現化してそれが宿る物へと聖化されてゆくことになる。そして、いつしかつくもがみとなった道具たちは、勝手にお喋りをしたり様々な活動をするようになるのだ。出雲屋のつくもがみたちは、特に噂話が好きで饒舌であるのが特徴である。そして、とにかく話をまとめたがる(ものが約一名いる)。そんな神々の奔放で純朴な情け深い姿を眺めていると、いつしか「うさぎ、かわいい~」といった感じになってきてしまうのだ。つくもがみ、おそろしや。
今ではもう「つくもがみ貸します」が放映されている時間は、読みかけの本を傍らに置いて、すっかり江戸の街を舞台にした物語を見ることに専念するようになっている。かなりくだけた雰囲気の片岡愛之助の解説ナレーションも毎回なかなかに味わい深い。ただ、「つくもがみ貸します」でおそらく誰もが真っ先に気になってくると思われるのが、妙に派手なサウンドをもったオープニングの楽曲であろう。最初の頃は、この曲が流れ終わってちょうど物語が始まるところからテレビのヴォリュームを上げて見始める感じであったので、それがどんな曲なのかは全くわかっていなかった。最初のところからしっかり見るようになってから、このオープニング曲を初めてちゃんと耳にしたのだが、何となく感覚的にボコボコと打ち込まれているキック・ドラムにばかり気が取られてしまう感じではあった。だが、ハウス黎明期より四つ打ちの音楽が何よりも好きなものにとっては、そのなかなかに力強いキックの鳴り方には、少なからず「おっ」と思わさせられるものがあったことは確かだ。そして、この曲のクレジットをじっくりと確認するためにユーチューブにオープニング曲の映像がないかを検索してみた。するとすでにそれはそこにあった。さすがインターネットだ。
あらためてユーチューブの映像を見て、その曲がMIYAVI vs シシド・カフカの「Get Into My Heart」であることを知った。ギタリストのMIYAVIとドラマーのシシド・カフカによるコラボレーション曲ということで、派手めのサウンドになるのは火を見るよりも明らかであったというところか。だが、その個性やアクの強いサウンドが災いしてか、ユーチューブの動画のコメント欄には江戸を舞台にしたアニメの内容にはまったく合っていないという意見がすでに数多く書き込まれていた。個人的には、シシド・カフカの歌うメロディやコーラスが結構微妙で曖昧な音程となっていたりして、伝統的な日本の謡のスタイルに出来るだけ寄せようとしている感じが垣間見えて、なかなかにがんばっているなと思えたのだが、アニメのファンにとっては内容に楽曲の雰囲気が合うか合わないかの方が大問題となるということであるらしい。おそらくアニメ番組というエンターテインメントというものは、オープニングの曲から本編、そしてエンディングの曲までを、トータルでどっぷりと楽しむものという形式がひとつのトラディションとしてもはや十二分に浸透し定着しているということなのであろう。当のMIYAVIは、アニメ作品の世界に寄り添う楽曲をかなり思いを込めて制作したようであるのだが、どこかでその日本的なものや和物に対する価値観や捉え方に一般的なテレビの視聴者とのズレが生じてしまったということなのであろうか。これもまたある種のアニメ文化というものへのフェティシズムにまつわる問題であるのかもしれない。
そんな感じでいつの間にかゲット・イントゥ・マイ・ハートしてきていた「Get Into My Heart」であったが、もしかするとこの妙にクセになるサウンドは、猛烈に先鋭化していた今世紀初頭のニューヨーク・ハウスのレヴェルにも匹敵するものなのではないかと思えるようになってきていた。思わず、もう一度ユーチューブの映像で作曲家のクレジットを確かめてみて、誰か名のあるトラック・メイカーが作曲に参加しているのではないかと確認までしてしまったくらいである。そして、とりあえず手っ取り早く比較をしてみようと思い立ち、ダニー・テナグリアがリミックスを手がけたデペッシュ・モードの「I Feel Loved」のダブ・ミックス(01年)を(ユーチューブで)聴いてみた。するとどうだろう、すでに15年以上前の作品であるダニーのトラックの方が切れ味も疾走感もミヤヴィとカフカよりも格段に上なのである。「Get Into My Heart」のボコボコに打ち込まれるキックと乾いた軽いクラップの連打によって形作られる少々小賢しさの香るサウンドでは到底及びもつかないような本場モノのどっしりとしたグルーヴが、そこにはあった。ただし、ある意味ではサウンドの形式やスタイルという部分においてはすでにかなりのところまで突き詰められてしまった後でしかないという今の状況にあっては、もはや何をやってもある程度の凡庸さから逃れきることは不可能であるのが実際のところなのではなかろうか。ではあるが、まあ「Get Into My Heart」に関しては、もう少しシンプルなリズムの構成のトラックでオールドスクールなエレクトロ・ファンク~ファンク・ロック的な要素をサウンドに盛り込んでみてもよかったような気はする(もっと言えば、往年のプリンスあたりにグッと寄せて架空の江戸アポリス・サウンドに挑んでみるとか)。しかしながら、すでにかなりゲット・イントゥ・マイ・ハートしていた「Get Into My Heart」は、気がつくと頭の中で歌メロディがぐるぐると反復していたりもする。そんな、なかなかに中毒性がある曲であるだけに少しばかり惜しい気もしてしまうのである。ただ、変にわざとらしく全面的に和の楽音や様式を安易に取り入れていないところだけは多いに評価に値するように思える。
「つくもがみ貸します」が終わると、すぐに続けて「進撃の巨人 Season 3」が始まる。これまでの「進撃の巨人」をまったく見てないので、何が何だかさっぱり分からず、再びテレビのヴォリュームを小さく絞る。「つくもがみ貸します」を見るために、しばし読書をサボってしまっていたので、少しでも遅れを取り戻すために、音を遮断して本に集中したいという思いもあったためだ。元々、この時間は本を読むための時間と決めていたのだから、そんなにサボってばかりはいられないのである。しかし、集中して本を読もうと思っていながらも、やはりなぜか音を絞ったテレビの画面をちらちらと見てしまって如何ともしがたい。途切れ途切れに見ているため物語の筋はまったく掴めないままなのだが(最初は登場人物の顔の区別すらもつかなかったぐらいだ)。しかし、何となくぼんやりと画面を眺めながら巨人についてあれこれ考えを巡らせていると、とても遠くの方から何ものかがぐんぐんと迫ってくるのが感じられた。記憶の底に閉じ込められていた巨人が、再び目を覚ましたような感覚であった。そう、どうやらわたしは今から30年も前にすでに進撃の巨人と遭遇していたということのようなのである。
1987年、まだ10代の少年であったわたしはたまたま新宿の輸入盤店で見つけて手にした『Dawnrazor』という一枚のアルバムを聴いて、とても熱くなっていた。周囲の「Fool's Mate」を読んでいるようなインディーズのマイナー音楽にのめり込んでいた数少ない友人たちにとっても、このアルバムの発見はひとつの大きな事件であったように記憶している。『Dawnrazor』は、フィールズ・オブ・ザ・ネフィリムが発表したファースト・アルバムである。フィールズ・オブ・ザ・ネフィリムは、ロイヤル・アルバート・ホールでの公演を成功させ頂点を極めた観のあるシスターズ・オブ・マーシーが突然の解散をしてしまった後のダーク・サイケ~ゴシック・ロックのシーンに彗星の如く現れたブライテスト・ホープであった。この五人組のバンドはリリカルかつエモーショナルなギター・サウンドを中心とする重々しさと疾走感を兼ね備えた(芝居がかっているくらいに)ダークな音楽性で脚光を浴び人気を獲得していたのである。そして、何といってもフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムの楽曲の最大の特徴は、ヴォーカリストのカール・マッコイによるちょっとこの世のものとは思えないほどに不気味さが漂う暗黒系の歌唱にあった。それは、もっさりとした低音のだみ声を基本とするものであり、ロック・バンドのヴォーカリストとしてはやや致命傷的ともいえるくらいに通りのよくない声である。だが、その尋常ではない声質を逆手にとって、独特の無二なるマッコイならではの囁き唱えるような唱法が編み出されていたのである。その後ろに控えるバンドの面々は、マッコイの声の個性を最大限に活かす音作りに徹している。それは、どこまでも荒涼としてカサカサに乾ききった、もはや人間すらをも寄せ付けぬような世界を形作り、まるでホラー映画的な舞台セットをマッコイの歌唱の背景に用意してそれを引き立てる役割に徹していたのである。フロントマンのマッコイは、そこに不毛の大地を徘徊するゾンビのようにヌッと立って、まさに異界からの言葉を伝えるように訥々と歌い出すのである。
ネフィリムとは、旧約聖書などに登場する巨人の種族(巨人族)のこと。フィールズ・オブ・ザ・ネフィリムとは、まさにそうした巨人族のフィールド(領域)のことを指す(ネフィリムの楽園)。聖書にも明確に記されていることから、かつてそして今もそうした巨人族の棲む領域が地上のどこかに存在すると真しやかに信じられていたりもする。フィールズ・オブ・ザ・ネフィリムは、そのような人間の生きる世界の外部の領域(壁外)から鳴り響いてくる音楽をコンセプチュアルに奏でるバンドなのである。旧約聖書の時代に天から地上に落ちてきた巨人族によってもたらされる終末のときに天空から降り注ぐような音楽をフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムは80年代後半を生きるわれわれのもとに届けてくれていたのだと考えることもできるだろう。それくらいにその音楽はロックに究極的な異質性を求める若い世代の胸を高鳴らせるに十二分な不気味な魅力にあふれていたのである。だが、ファースト・アルバムの『Dawnrazor』の時点では、さすがのフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムにもまだまだ青く俗っぽい部分がやや残っていた。メロディや曲の構成に普通のロックっぽさが色濃く残存していて、そこから情感の表出や表現の方法においてポップやロック・イディオムの片鱗が時折ちらっと顔をのぞかせることも所々にあったのである。そうした部分の存在にあらためて気づかせてくれたのが、88年にリリースされたセカンド・アルバムの『The Nephilim』であった。このまったく隙のないサウンド・プロダクションが展開されたトータルな大作は、異様なまでの完成度を誇るアルバムに仕上げられていた。このアルバムで遂にフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムは、巨人のようにそびえ立つ異界と地続きの無二の音楽性を確立したといえる。この極めてオルタナティヴなバンドが為すべきであると運命づけられた音楽スタイルのすべてが、このアルバムに詰め込まれていたといっても過言ではない。
そして、その名作アルバムのラストの締めのパートをどっしりと飾っていたのが、10分近くに及ぼうかという渾身の長尺曲「Last Exit For The Lost」であった。暗くドンヨリと静まり返った伽藍堂にゆったりとしたギターの調べが微かに聴こえてきて、深い霞のような靄の奥から楽曲の楽音が少しずつその形状を浮かび上がらせてくる。幻想的な佇まいでぼんやりと立ち上がってくるゆったりとした拍子のバンドの演奏にのせて、マッコイは時に呟き時に呻くようにメロディを歌い上げてゆく。そして、そのサビのリフレインの歌唱が、徐々に気迫と力のこもったものになってゆくにつれて、バンドの演奏のスピード感もゆっくりゆっくりと高まってくるのである。そして、もはや猛進といった様相となって、いつしかそれは最後の出口へと向かって脇目もふらずにずんずんとひたすらに突き進んでゆく。この楽曲の展開は、巨大なひとつの塊となったバンドの歌と演奏が、内側からマグマのように湧き上がってくる力をみなぎらせ熱を放出しながら、徐々にスピードを上げてこちらに迫ってくる情景をイメージさせる。まさに進撃するフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムである。ここで歌われているのは、そのタイトルにある通り最後の出口についてだ。それは、終局的な場面において究極の喪失をともなうことになる最終出口である。ここで、巨人/ネフィリムは最終出口に向かって何かを求めそれに縋り付こうとするかのように進撃している(そこにあるのは喪失であり無であることをわかっていて、それでも敢て進撃している。実に悲愴で物哀しい進撃でもある)。そして、人間としての有限なる生を生きているわれわれもまた同じようにそうした最後の出口に向かってただひたすらに突き進んでいる存在だと考えることができる。最後の出口が最終的な喪失であるところの絶対的な無へと直結している場合、その出口までの起点から終点までにあったあらゆる事物はもはや(意識あるものにとっての)意識されえぬものとして喪失されてしまうことになる。もしも、起点と終点がある行程の終点の出口というものであったならば、それは最後の出口にはなりえない。それは無ではなく、その出口は何度も繰り返し反復して出口となり、終点ではあるものの最終の出口とはならないであろう。最後の出口というものは、その終点となる出口そのものまでをも喪失してしまわない場合には、(起点よりも以前の一切の)無なる出口としては成立しえないのである。それは、破局であり救済でもある。どこまでもどこまでも絶対的な。
最後の喪失の出口へ向けて、カール・マッコイ率いるネフィリムたち一同は、内にこもり高まるだけ高まった熱と一体化し疾走するバンドのサウンドの錐揉み状態の中でまさに己の身を投げ打ち身を削るかのようにして熱へと光へと無へと登り詰めてゆく。「Last Exit For The Lost」は、巨人族の末裔であるかのようなフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムの真骨頂ともいえる楽曲であり、ここでは常に渇望する巨人(ガルガンチュアの第一声は「飲ませろ、飲ませろ」であった)が立ち上がり進撃する際の重々しいエネルギーの放出と悲哀、深い虚無感などが、見事なまでに表現されていた。そして、この楽曲には、どこか『風の谷のナウシカ』の巨神兵を思い起こさせるものがある。と、昔から常々思っていた。神話や伝説の世界から、再び世界を焼きつくす最終兵器として復活させられることが企てられていた巨神兵。しかし、眩い光にあふれる創造的な生から湧き上がる抑止の力によってそれが阻止されると、起点も終点もない永劫の無としての究極的な最後の喪失へと脆くも崩れ落ち消え去ってゆくのである。まさに「Last Exit For The Lost」の世界に最も近いイメージのものとして巨神兵の姿がわたしの中ではとらえられていた。これまでは。
「進撃の巨人 Season 3」のオープニング曲は、YOSHIKI feat. HYDEによる「Red Swan」である。これは、X JAPANのドラマーとL'Arc~en~Cielのヴォーカリストという日本のロック界の超大御所同士による奇蹟のコラボレーション曲だ。X JAPANもL'Arc~en~Cielも90年代という多くのヴィジュアル系バンドが台頭し人気を博した時代にメジャー・シーンでの地位を確立したバンドであり、ある意味ではあのヴィジュアル系の時代を象徴するような存在でもある。ヴィジュアル系とは、ハード・ロックやヘヴィ・メタル(長髪系ロック)の血を引きつつ、ニュー・ウェイヴやポジティヴ・パンク~ゴシック・ロックの系譜にも連なる、日本独特のガラパゴス的な発展をみせて進化を遂げていった変種中の変種のロック・バンドの種族である。L'Arc~en~CielのHYDEは、その中でも最もピュアにゴス濃度の高いアーティストだと目されている。おそらくフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムなどは往時にしっかりと聴き込んでいたであろうし、黒づくめのもっさりとした(ズタボロ系)衣装でカール・マッコイをどこかで意識しつつマイクの前に立ったこともあるだろう。ただし、フィールズ・オブ・ザ・ネフィリムの場合は、よくありがちなバッド・ケイヴの流れを汲むゴシック系のバンドとは一線を画すために(シスターズ・オブ・マーシーのフォロワーとして見られることを積極的に忌避していたために)、バンドの衣装のコンセプトやキャラクターを相当に(非ゴス的に)作り込みすぎていたという面もある。そのせいでステージでライヴを行なう際の彼らのスタイルは、マカロニ・ウェスタン調のサスペンス・ホラー映画に登場する墓場から蘇ったばかりのゾンビのような風体なってしまっていた(それはプロレスラーのザ・マミーのようにちょっとでも叩けば積もりに積もった埃が盛大に舞い立つような衣装であった)。こうしたギミック満載のバンド活動が何かと問題含みであったためか、91年にフロントマンのマッコイがひとり袂を分かつという形で脱退をしバンドは解散する(その後、マッコイはソロでのプロジェクトとなるネフィリムを新たに編成して活動を続け、90年代末に長らく解散状態にあったフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムを復活させている)。今になって考えると、フィールズ・オブ・ザ・ネフィリムはもしかするとその後のヴィジュアル系バンドの元祖であったのだともいえそうである(最初期から扮装やコスプレに傾いていたという点では明らかにヴィジュアル重視のバンドではあった。美醜でいうと極めて醜の方面に傾いたヴィジュアルであったが)。基本的に彼らがパフォーマンスするステージは全体に薄暗く、あまりバンドのメンバーの衣装などは細かいところまでよく見えないのだが、それでもヴィジュアル面に相当にこだわりをもっていたというところが、実にパラドキシカルな立ち位置(ゴシック・ロックであることを頑なに否定しながら十二分にダークなサウンドを身上とする姿勢など)にあったネフィリムらしくはないだろうか。そして、最初はほとんど音を出さずに「進撃の巨人 Season 3」をちらちらと見ていただけであったのに、内容をあまりはっきりと把握しないままでありながら何となくそこにフィールズ・オブ・ザ・ネフィリムを連想していたというのは、あながちそれほど見当外れなものではなかったということなのかもしれない。いや、見事なまでに見当は大外れである。だがまあ、当たらずも遠からずといったところぐらいまではいけていたのではなかろうか。
今では、「つくもがみ貸します」も「進撃の巨人 Season 3」もしっかりと普通に視聴をしている。のだったが、そうこうしているうちに、どちらのアニメも放送が終了してしまった(「進撃の巨人」の続きは半年後に放映されるという)。かわいいうさぎやリヴァイ・アッカーマンの活躍を毎週楽しみにしていたというのに、もう日曜の夜に見れなくなってしまうのは、ちょっぴり寂しい。だが、また静かに読書をする夜に戻るだけの話ではある。めくるページに終わりはこない。出口はどこにあるのか。そして、そこに無はあるのか。日曜日の夜に究極的な終末と救済を。

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