見田宗介

「新しく転回された〈情報化/消費化社会〉」とオタク

「情報化/消費化社会の転回」
社会学者の見田宗介が、「新しく転回された〈情報化/消費化社会〉」について、(転回するということは)人々が経済競争の強迫から解放され、アートや文学や友情など、自然を破壊しない幸福を追求するイメージであると語っていた(15年1月18日、朝日新聞夕刊「人生の贈りもの―わたしの半生」)。
ここでイメージされいる転回には、ユートピアの展望の思いが込められているように感じられる。そのイメージをオタクの時代というものに重ね合わせてみるとき、そこにはどのような現在と未来の景色(眺望)が浮かび上がってくるであろうか。70年代半ばから90年代半ばにかけての時代のそれは、新しい転回をイメージしていながらも、どこかで経済競争の強迫から解放されてはおらず、アートや文学や友情に内向的な共同性をもってマニアックに没入しつつも、自然を破壊してしまう(反自然的=現実社会的な)幸福の中にとらわれたままになっていたのかもしれない。
しかし、オタクらしいオタクの時代が終わり、オタク文化が終焉することで、情報化や消費化の方向性をより大きく押し進めてゆくような転回もまた可能となってくるのではなかろうか。それは、古いオタクの時代の転回のイメージからの脱却であり、オタクらしいマニアックで内向的な共同性というものは次第に影をひそめてゆくようにもなる。そこでは、より開かれたオタク性をもつものたちによる、外向的な共同性が前面に押し出されてくることにもなるだろう。それが、一般の人々がライトにオタク化してゆく時代であり、一億総オタク活躍社会/一億総オタク社会の到来を待望している状況なのである。
90年代半ば以降、オタクらしいオタクの時代は終わりへと向かっていた。そうしたオタクの聖域が失われてゆく過程で、社会の情報化や消費化の傾向は、より押し進められ、新しい転回の可能性も広がっていったのではないか。ただし、それまでの新しく転回されつつあった社会というのは、オタクがオタクらしく文化を形成し開拓してきた地平に開けていったという面もある。だが、その開拓と発展の事業を受け継ぎ、可能性を大きく押し広げてゆくのは、そうしたオタクの時代以降のオタクたちなのである。そこに、多少の危うさを伴ってしまうことにもなる。今や、一般の人々が最もオタク化している時代である。TVのCMは、ずっとスマホのゲームの宣伝だらけである。どれだけの人が、パズルや戦闘のゲームに夢中になっているのであろうか。どれだけの人が、その予備軍なのだろうか。そして、どれだけの人がどれぐらいの暴利を、その情報化と消費化によって貪っているのであろうか。それが、まさに、一億総オタク社会の偽らざる姿なのである。
そのことを、はっきりと認識させられるようなことが、やにわに起きた。16年1月、アイドル・グループのスマップが解散するという報道がチラッと表面化してきただけで、日本全国が大きく動揺したのである。いつも何があってもスマホでゲームに熱中しているような人たちが、このときばかりは掌の上の小さな機械のゲーム画面から目を離して、スポーツ新聞の紙面やTVの報道、ネット・ニュースの記事に一斉にかぶりついたのである。TVでは、どんな政治や国際関係のニュースよりもスマップの解散問題について、非常に詳しく、裏側や舞台裏にまで踏み込んで伝えられるという状況が続いていた。政治の問題、政党の問題、国会で審議されている事柄、深刻な経済の問題について、これほどまでに詳しく伝えられ、じっくりとわかりやすく解説されたことがこれまでにあったであろうか。
そして、国会では一国の首相が予算委員会の答弁でアイドル・グループの解散騒動についてコメントしていた。そして、その場面が、ほとんどのニュース番組で取り上げられる。このことは、その場所でそれ以上に重要なことはほとんど語られていなかったということを表しているものなのであろうか。この一億総オタク社会は、新しく転回された社会ではあるが、そこで転回されているものが、一般の人々の情報化や消費化の動きに随伴する幸福追求の押し止め難き奔流に完全に飲み込まれてしまっているという性質ももってしまっている。そこでは、本来のオタクによる文化というものが、さらなる転回によって、社会の情報化や消費化を、経済競争の強迫から解放された幸福追求のための土台として、どこまでもユートピア的な未来に向けて前進させてゆく原動力となってゆかなくてはならなかったはずであるのに。
かつてのオタクによる新しい転回は、インディペンデントでマニアックなものであり、内向性を強くもっていたがために、大きな動きにはなってゆかないものであった。殊更に外部にへと踏み出すことを躊躇するのがオタクであった。外の世界とは距離を置いていながらも、そこに付随していたがために、その転回は、経済競争の強迫から解放されていなかったし、自然を破壊してしまう(反自然的)幸福の内部にとらわれたままであった。しかしながら、それは、その後の一億総オタク社会を生み出してゆく転回の動きを引き起こす引き金ぐらいにはなっていたのではなかろうか(オタクによるオタク世界での旺盛な文化的活動を邁進させてゆくことによって)。
オタクの時代とは、まだまだ中途半端な部分を非常に多く抱え込んでいるものでもあった。そして、経済競争の強迫から解放されていない部分や、自然を破壊してしまう(反自然的)幸福の追求などは、そのままその後の新たな大きな転回の動きへと引き継がれていってしまったのである。オタクの活動は、とても旺盛に繰り広げられていたが、その勃興期には極めて小さな規模のものであったがために、中途半端であっても何とか黙認や苦笑いで済まされていた部分はあった。しかし、その経済競争の強迫から完全には解放されていない面が、より大きな規模での情報化や消費化へと向かってゆこうとする社会において、それが反自然的な幸福追求とセットになって押し進められたとき、それは構造的な根の深い社会の歪みを生み出してゆくことにもなってしまうのである。
一億総オタク社会は、ユートピアの夢を見るだろうか。また新たな転回が、もうすでにそこに準備されているのではなかろうか。それを食い止めようとする力が強ければ強いほどに、次にくる転回は壮烈にして苛烈なる比類なきものになるであろう。転回の転回、そして悲劇が始まる。

(資料)『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』岩波書店、96年

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