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四十八文字の話『セ』清和源氏 「太田道灌」公も「江川英龍」公もそして明治の文豪「夏目漱石」も源氏の末裔

日本の歴史上、幾多の武門の家が有りますがその中で「実力と名声」が高く、世間に広く知られている武家は皆さんもご存知でしょうが

「源氏」と「平家」かと思われます。


今回はその一つ「源氏」を取り上げさせて頂きます。


●天皇の一族                   「源氏」と言っても多くの系統が有ります。      それまで「皇族」の一員であった「宮様」が           臣下(天皇の部下、一般の貴族に相当)に降下する場合に            「時の天皇」から下賜されるのが「姓」(かばね)です。 🌺天皇を始めとして、皇族の方々は、「名字」というものを持ちません。

「姓」にも多くの種類が有るのですが                 その中で代表的な「姓」が             「平」(たいら)                   「橘」(たちばな)                  「藤原」(ふじわら)                  そして「源」(みなもと)です。

ですので                     「清和源氏」(せいわげんじ)と言うのは               平安時代前期                    第五十六代「清和天皇」(せいわてんのう)の御世に    臣下になり、姓「源」を下賜された          元皇族の方の子孫です。


清和天皇

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例えばその「清和源氏」の流派を名乗る武家の一つに       江戸幕府を開いた                  「徳川家」が有ります。                🌺この点については、事実かどうか分かりませんがね  

自分達の御先祖様が平安時代に            天皇から下賜された「姓」は             自らの出自、氏族、そして「誉れ」を示す       大変貴重な物です。


普段は自らを「徳川~」や「松平~」と        名乗りますが                    宮中での重要な式典や                天皇の御前に出る時には

「徳川家康」公であれば              「源家康」(みなもと の いえやす)と          名乗ります。                    「徳川慶喜」公だったら              「源慶喜」(みなもと の よしのぶ)と    名乗る具合です。


来年の大河ドラマ「鎌倉殿と13人」の主人公    「北条義時」(ほうじょうよしとき)公の場合。        

北条氏は平安京を造営し蝦夷征討を行った             第五十代「桓武天皇」(かんむてんのう)の御世に         姓「平」を下賜された流派である             「桓武平氏」(かんむへいし)の末裔を称しているため      この場合は                    「平義時」(たいら の よしとき)と名乗ります。

桓武天皇

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「姓」とは               それ程重要な物なのです。


                 


●「清和源氏」からの支流                すいませんが、以降の話は少しややこしくなります。

この「清和源氏」が後年               更に❗大きく「三つの支流」に別れます。

○まず「摂津源氏」(せっつげんじ)

有名な人物としては、「源頼政」(みなもとよりまさ)公。  時の実力者「平清盛」(たいらきよもり)公からも            厚い信頼を得ていましたが              平家の専横に堪えきれず「討伐」を計画。         似仁王(もちひとおう:後白河天皇の皇子)からの      令旨(りょうじ: 命令書)を受け             全国の源氏に決起を促しました。           結果、それが平家滅亡、鎌倉幕府成立に        繋がっていきます。


また「源頼政」公に関して、実に興味深く語り伝えられて いる「伝説」が有るんですよ。


○妖怪「鵺」(ぬえ)退治

夜な夜な京都の街にあらわれる、妖怪「鵺」(ぬえ)。    人々を恐怖に陥れたこの妖怪を倒したのが       この「源頼政」公。        

実際「鵺」(のような生き物?)がホントにいたのかどうかは解りませんが、この様な「伝説」に名を残すほどの武将です。    


鵺(ぬえ) 

顔は猿 胴体は狸 手足は虎 尾は蛇         鳴き声は「ヒョウヒョウ」              こんな怪物には出会いたくないですね         

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源頼政公

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○次はこの系統の末裔「太田道灌」(おおたどうかん)公

室町時代後期の頃に活躍した武蔵国の名将です。    文武にかなり秀でており、また数々の詩歌を残してます。


○「山吹の里」伝説

太田道灌公が、自分の「歌」に関する無学さのあまり  せっかくのメッセージを「奥ゆかしく」送ってくれた女性に対し、何と無礼な態度を取ってしまったのかと痛感し、その後、歌道に勤しむきっかけとなった逸話。


「山吹の里」歴史公園(埼玉県越生町)

山吹の里歴史公園-2


そして築城にも才能を発揮します。

「川越城」、更に現在の大きさには及びませんが            最初に「江戸城」(現 皇居)の原形を築いた方です。   今でも皇居には「道灌掘」という名のお掘が      残っています。   


またJR日暮里駅には「太田道灌」公の堂々とした     銅像が建っております。


太田道灌

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お隣のJR西日暮里駅にはちょっとした高台がありますが            それは当時太田道灌公の出城があった所とされ                 江戸時代には遠く日光の山々まで見えるその眺望の良さ、                鈴虫などの鳴き声を聞く「虫鳴き」の名所だった   「道灌山」です。

道灌山(画:安藤広重)

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そしてその谷あいの下には             「道灌山通り」などの地名が残っています。


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人名がこんなにも多く「地名」として          現代でも残っている。          ましてや、山手線の駅前で       「銅像」にもなっている人物です。          そんな人物、並みの方ではない❗と    思います。               

こう言った「偉人」が                     教科書に載るのはいつでしょうね?         ホントに残念です。


JR西日暮里駅 「道灌山」と手前は「道灌山通り」

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○その次に「大和源氏」(やまとげんじ)。         

その末裔には江戸時代後期              伊豆の韮山代官                  「江川太郎左衛門英龍」(えがわ たろうざえもん ひでたつ) 公がいます。

伝 自画像

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この人物、兎に角、「凄い‼️」の一言   まったくの「超人」デスヨ‼️


以外なところでは                  パン屋さん達に「パン祖」と言われてます(ホントに)。  「乾パン」を日本で初めて作った人、なので      そう言われていますが                ごれだけで済む様な人物ではないです。

幕末期の勘定奉行「小栗上野介」に先んじ、     「鉄の必要性」、そしてどんどんやって来る欧米諸国艦船から日本を守る「海防」を重視します。


まず、「鉄」に関して。

オランダから取り寄せた技術書を読みながら( この方蘭語も読めるんですね ) 、                   鉄を溶解する施設「反射炉」を作ります (韮山反射炉)。


韮山反射炉

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この施設は現在も残っており、当時の最先端技術の粋、面影が残っています。 



そしてこの「韮山反射炉」が        2015年に「世界遺産‼️」に      認定されました。


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そして、「海防」。

皆さんもご存知でしょう❗              某民放テレビ局が有る東京の「お台場」。

先程の「太田道灌」公もそうですが           もはや超有名な地名にもなっている「お台場」。    ですが、元々の意味は               「大砲を載せて撃つために作った人工の島」です。

   

幕末、黒船ペリーが来ってきて、日本中を震撼させ        「また来るね」と帰った後、             その「江戸湾」に短期間の内に            「お台場」を七つも作りました。

その後再来したペリーが                   八ヶ月前には何も無かった江戸湾に          人工島「お台場」が七つも有るのを見て       腰を抜かす‼️ほど驚き              これ以来「日本は侮れない国だ」と          認識したエピソードが有ります。


当初、将軍のお膝元、江戸湾の奥深くまで潜入し    威圧感を与えながら上陸し条約を結ぶ、というペリーの 思惑は見事に外れ、やむなく隣の相模国浦賀まで引き返し        そこに上陸せざえるを得なかったペリー艦隊。     正に見事な「海防❗」です。


ペリー上陸

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第三台場(現 台場公園)

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第六台場

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品川台場

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短期間で江戸湾に七つもの人工島「お台場」を作り   アメリカに無言の圧力を掛けた「江川英龍」公。        正にこの方も「日本の偉人❗」の一人だと思います。


またこの方の本来のお役目は伊豆韮山「代官」です。              そちらの業績にも素晴らしい物が有ります。


かの「二宮尊徳」を領内に招聘し農地の改良をしたり  飢饉の際にも領民の救援を行い                  そして江戸時代後期                「天然痘」が流行った時期に             逸早く「種痘」(予防注射)を取り入れ          領民達を救いました。


🌺この「コロナ禍」の時代。       正に現在のワクチン接種の場面と     同じ状況で              「代官」としての職務を         真っ当うしようとする「江川英龍」公の      素晴らしいエピソードが有ります。


本当に「種痘」が安全かどうか?     後遺症があるか否か?

やはりハッキリしないため        それらを確認しようと           領民達に打つ前に            知り合いの医者に依頼し         何と‼️                 「自らの二人の子供達‼️」に打ち、         安全性を確認しました。

これは「種痘」という          当時の日本人にとって          得体の知れない物に対する       「恐怖感」、「先入観」などを      打ち払うために             敢えて実施した様です。


自分の子供達を実験台にするなんて!

当然そう思う方々も           いらっしゃるでしょうね。        私からは何も言えませんが。

ですか、これにより           領民達の命を守った事は事実であります。          


こういった功績により          世間からは「世直し江川大明神」と    呼ばれました。



🌺上記以外にもまだまだ素晴らしい実績を持つ方デス。 とても書き切れません。               また改めて別のコラムで書かせて頂きます。


話が唐突になりますが。

9月7日に放映されたテレビ東京「開運!何でも鑑定団」。そこで「江川英龍」公の扇面と書二点が        出品されました。

                           鑑定額はなんと「百八十万円❗」とされました。

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ですが皆様、皆様にお伝えしたいのはここからです。❗              

この番組を観た事が有る方はご存知でしょうが、    鑑定される前段階でテレビには            出品された品に関わる人物の「生い立ち」や「業績」等を簡単に紹介していますよね。             この時もいつもの様に「江川英龍」の人物像、実績などが     紹介されてました。

これを観ていた番組MCでお笑い芸人の「今田耕司」さん。

おそらくそれまで「江川英龍」の           存在すら知らなかった様ですが            これを観た後、こう言いました。


「スゴい人やな~。           こんな人を大河ドラマの主人公に     すべきやないのかな~」


私も勿論‼️同感です。              


領民の安全を守り本来の職務を勤めながら       当時亜細亜に怖いものなし!で来航していた      アメリカを「お台場築造」で震撼させ          更に今から百六十年前に、後の世で    「世界遺産」に選ばれる「遺産」を    遺すなど                とても一人の人間に出来る事ではない‼️  と思います。


そしていつもの通り、                またまた、ここでも言わせて頂きますが

歴史の教科書に載るのはいつでしょうか?


実際、戦前の教科書には載っていたそうですが     戦後になると、消された様です。           どちらかの「圧力」が掛かったんでしょうね。

再々年の大河ドラマでどうかな?           二年後まで決まっているので、早くても、       三年先ですかね。


○そして「河内源氏」(かわちげんじ)

世間で一番知られているであろうの系統です。     

「前九年の役」「後三年の役」で活躍した       鎮守府将軍「源為義」(ためよし)公と         「源義家」(よしいえ)公の親子。

義家の弟、戦国大名「武田信玄」公のご先祖     「源義光」(よしみつ 甲斐源氏武田氏の祖)。

大河ドラマ「鎌倉殿と十三人」に出てくる世代として   鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(よりとも)公        弟の義経(よしつね)公                 従兄弟の「源(木曽)義仲」(よしなか)公

源頼朝公

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更にその支流となる                「新田」氏 (新田義貞公など)              室町幕府を開いた「足利」氏

足利尊氏公

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「吉良」氏(忠臣蔵:吉良上野介など)         「今川」氏(戦国大名:今川義元など)

「細川」氏(大河ドラマ「麒麟が来る」では、眞島秀和さんが演じたに「細川藤孝」(ほそかわふじたか)公など)

第七十九代内閣総理大臣 細川護煕(もりひろ)氏は        河内源氏「細川」氏の末裔

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「河内源氏」はその名前からも分かりますが、       文字通り現在の大阪「河内」地方等を基盤としてます。が、当時既に河内地方に勢力を持っていた大寺院とは土地問題などの「一悶着」が度々有り、まだまだ貴族に仕える立場にあって其程高い地位になかった「武士」にとっては、あまり住み心地が良くなかったのではないのでしょうか?

そんな時、朝廷からの勅令により、東北地方への派遣(前九年の役等)での戦いに赴き、活躍した河内源氏は、河内と別な地に基盤を築きたい、そう思っていた頃と思われ、正に自分等の発展の好機❗、と思ったのではと推察されます。


これが日本の歴史における華々しく、現代にも繋がる「河内源氏」の発展になります。


ですが、私には少し解せない事がありまして。

それは、

頼朝の伊豆への島流しです。


「平清盛」公は、かつて敵対した源氏の「御曹司」を死罪にもせず、それも京都から遠い伊豆へ何故流したのか? 自分が中々手を及ぼせない遠い所に行かせれば、自分等「平家」に対して反旗をかざす勢力に、「神輿」として担いで下さいね、といわんばかりの行為と思われてなりません。


これに関する考察について、次回の記事に載せたいと思います。

では、失礼します。


【後書】

最近なりまして、明治の文豪「夏目漱石」が、源氏の末裔だと知りました。

夏目漱石

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まだ「清和源氏」が三つの流派に分けれる前の    「源満快」(みつよし)公の子孫です。

武家の血筋とは感じませんでしたが          日本文化の中で                   この方自身の分野である「文学」よりも        ご先祖「源頼朝」が開いた「鎌倉時代」の      「美術」、慶派の「仏像彫刻」の分野を            かなり高く評価していたそうです。


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