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海外在住ひとりっ子 母の介護

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40代ひとりっ子の介護日記です。子宮頸癌末期の母を、ひとり自宅で介護しています。毎日、母の激しい痛みと戦っています。
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記事一覧

アメリカで四十九日の法要

先週の土曜日、私が住むエリアにあるお寺で、母の四十九日の法要を無事にすませることができた。 旦那の親族、共通の友人など、参列者20数名のうちのほとんどがアメリカ人で、日本式の儀式どころか、お寺にも行ったことがない人ばかりで、お焼香の際には、一人ずつ横に立って説明した。 泣かないでいたかったけど、みんな母のために集まってくれているのに母がいない事実が辛くなり、涙が止められなくなった。 80歳の誕生日にみんな集まったとかだったら、どんなによかったか…。 お坊さんは、とても

母が旅立ってから、ひと月

日本時間の今日で、母が旅立ってからひと月になる。数日前にアメリカへ戻ってきてから、ひどい時差ボケで、とにかく眠い。起きると悲しくなり、泣いて、また寝るの繰り返し。起きていると悲しくなるので、できればしばらく寝ていたいと思ってしまう。夜中に突然、涙が止まらなくなったり、朝は朝で、起き上がれない日もあった。 旦那は、私が帰ってきたことで、とても嬉しそうで、でも悲しむ私の様子をそっと見守ってくれていて、涙が止まらない時は、抱きしめてくれる。そして、「今きみは、心が傷ついて、ケガを

訪問看護師さんたちのすごさ

母の介護中のことで、もうひとつ書き残しておきたかったことが、訪問看護師さんたちのこと。 自宅介護が始まる前に、病院の主治医の診断書を元に介護プランが決まり、訪問看護師さんは日曜日以外の毎日来るようになって、また、同じクリニックの訪問医が週に一度来ることになった。 訪問看護師さんは4人いて、交代で来てきた。バイタルチェックをして、陰部洗浄、オムツ取り替え、排便、褥瘡にゲーベンという、オロナインのような塗り薬を塗る、腎ろうカテーテルを固定してするテープの交換、清拭、着替え、寝

母がいないディナー

昨夜、母の友人がオーナーシェフをしているフランス料理レストランへ、香典返しの意味も含めて、母の友人とディナーに行ってきた。 シェフは、父と母とは長年の友人で、私のことは、生まれたばかりの赤ちゃんだったころから知っている。 その店には、父が亡くなってからは、よく母と、母の友人と私の3人で行くようになり、母と最後に行ったのは2016年の11月で、その時は旦那も一緒で4人でディナーをした。食事が終わるころに、いつものようにシェフは、私たちのテーブルに座って、一緒に飲みながら時間

母がいない母の日

私の父は、15年前の5月に亡くなった。6月になり、父がいない父の日を迎え、自分だけが父親がいない子どもになったかのように、悲しかったことを覚えている。 そして母も、4月に亡くなり、今日、母がいない母の日を迎えた。母を介護していた時に、せめてもう少しだけ、ゴールデンウィークまで、いや母の日まで生きていてくれたら…と、願っていた。でもそれは、自分のことしか考えない自分勝手な願いだったかもしれない。 今ごろ母は祖母と、あちらで久しぶりに、母の日を過ごせているといいな。 旦那は

家族の歴史を振り返る散歩

日本での滞在も残り1週間となり、母の遺品整理も最終段階に入ってきた。 今朝は、不用品買い取り業者に来てもらい、母のアクセサリー、古いレコード、小型ヒーターなんかも持って行ってもらった。 夕方、船便でアメリカへ送る荷物の集荷も完了したので、ふらっと散歩に出た。アメリカへ戻る前に、地元をゆっくり散歩したいと思っていたし、今日は天気も良かったから、ちょうど良かった。 まずは、私が生まれた時から住んでいたマンションへ向かう。途中、子どものころ母とよく来たお菓子屋さんの前を通ると

死亡後の手続きに走り回る

連休が明けてから、母の銀行、年金などへの死亡による相続手続きと、私にとっては、日本の住所がなくなるため、自分の分の変更手続きもあって走り回っていた。 銀行は、相続する私が海外在住であることを伝えると、どの銀行も 「上のものに確認いたします」 となる。 通常なら、印鑑証明書を提出するが、住民票から抜けた時点で印鑑証明書は消滅しているから提出できないからだ。代わりに提出するものとして、サイン証明書ということだった。これは、アメリカへ戻ってから手に入れなくてはいけないが、母が生

訪問医がお線香あげに

お世話になった訪問医が、ご挨拶かねて、母にお線香をあげさせてほしいとのことで、今朝来てくれました。 母が息を引き取る8時間ぐらい前に、訪問医は母を診に来てきた。その日の夜は、当直ではなかったので、死亡診断書を書いたのは別の医師だったが、こうしてわざわざお線香をあげに来ていただいたことに感謝したい。 「大変でしたか?」ときかれて、今はもうそうは思わないと答えた。病院から家に連れて帰ってきたのだから、もう少し長く生きるかなと思っていたところもある。 すると訪問医が、「亡

辛い…

この2-3日、急に辛くなってきた。母が亡くなったことに加えて、15年前に亡くなった父のことまでがよみがえってきた。二人に、病気をせずに、もっと長生きしてほしかった…、なぜ母と父にはそれが叶わなかったのか…。今はもう二人ともこの世にいない、両親とも失ったという現実が辛すぎて、一日に何度も何度も涙が止まらなくなる。 病気が悪化する前の母の写真を見ていると、亡くなる日までの母の印象とのギャップで、元気だった時の母は本当に存在していたのか、まるで全部が夢の世界だったかのような感覚に

家族を亡くした人への接し方

おとといの夜、夕飯をどうしようか考えていたら、電話がなり、お世話になったあの民生委員さんが、タケノコご飯を作ったからと言って、持ってきてくれた。 「たくさん作ったから、お母さんと一緒に食べてね」と言って、タッパに入ったタケノコご飯を、母の遺影の前に、そっと置いてくれた。母にお線香をあげていただいて、それから少し、お話しした。母の話、地元の話、そして、民生委員さんのお子さんの話など。 民生委員さんは、4人の娘のお母さんだが、一番最初のお子さんは、流産だったそう。でも、それか

母の命日から、ちょうど一週間

母が旅立ってから、一週間が経った。一週間前の今ごろは、母が息を引き取り、訪問看護師と、母の着替えとお化粧を終えて、葬儀屋さんが打ち合わせに来ていた…。 一週間、早かったような、そうでもなかったような…。 今日はベッド会社が、レンタルしていた介護ベッドを引き取りに来た。一カ月半ほど前、納品に来た担当者と同じ人だった。50代ぐらいの男性で、とても丁寧な話し方をする。 部屋に入ると、ベッド解体の前に、まず母の遺影に手を合わせてくださった。おそらく、介護ベッドを使用していて、自

母はお骨になりました

今日の午後、葬儀屋さんが迎えに来て、母と自宅を出発し、斎場へ向かった。色々考えて、結局、親族と親しい友人のみで、小さく見送ることにした。 日曜日で、しかも連休が始まり、近所はいつもより人通りが少なくて、静かで落ち着いて出発できた。 火葬場へ到着後、母をお棺へ移し、旅支度をさせ、母のお気に入りだったフリースブランケット、毛糸編みが好きだったので、毛糸と編み棒、そして好物のシナモンおかきを入れてあげた。 そして、火葬の前に、みんなでお花入れ。自然が大好きな母のために、葬

私は母を介護し、母は祖母を介護した

振替休日の朝、叔父が帰る前に、近所をドライブした。運転しながら、昔とはすっかり変わってしまった風景、まだ面影が残る風景に、感慨深げな表情を見せた。そして、別れ際「お互い頑張ってこうな」と言って、私と握手した。 昨夜は、母が保管していた昔の写真を叔父と見ながら、家系図を書いて、家族の物語をたくさん聞いた。中でもやはり、私が生まれるずっと前に亡くなっていた祖母と、当時の母のことが気になった。 祖母は、43歳の若さで脳溢血で亡くなったが、その時、母は20歳だったということは、母

葬儀屋さんのよもやま話

母が旅立ってから2日目。自宅で安置しているので、火葬日まで毎日、葬儀屋さんがドライアイスを交換に来る。 ドライアイスは、ひとつがレンガほどの大きさで、ガーゼのようなやわらかい白い布で包まれている。1日目は、母のお腹の上に2つ並べて、さらに顔の左右にも1つずつ置いていたが、髪の毛に霜ができ、顔にも少し水滴がついていたので、今日はそれははずして、代わりに胸元あたりに2つ乗せて、太ももの左右にも1つずつ置かれた。幸い、気温もさほど上がっていないので、夕方からは冷房をつけておく必要