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家族を亡くした人への接し方

おとといの夜、夕飯をどうしようか考えていたら、電話がなり、お世話になったあの民生委員さんが、タケノコご飯を作ったからと言って、持ってきてくれた。

「たくさん作ったから、お母さんと一緒に食べてね」と言って、タッパに入ったタケノコご飯を、母の遺影の前に、そっと置いてくれた。母にお線香をあげていただいて、それから少し、お話しした。母の話、地元の話、そして、民生委員さんのお子さんの話など。

民生委員さんは、4人の娘のお母さんだが、一番最初のお子さんは、流産だったそう。でも、それから最初に双子が生まれて、その後にも2人生まれたということだった。4姉妹とも、すでに私と同じぐらいの年齢になっている。

たわいもない、短いお喋りだったけど、お互いの人生を知り、何より、私にとっては、とても心が安らいだ。

母が亡くなって1週間が過ぎて、母が亡くなったことを、ほかの連絡のついでに、少しずつ伝えたりした仕事関係の人や友人もいるが、気の利いたことや、ほんのひと言の悔みの言葉ですら、サラッとうまく言える人が少なくて驚いた。

会社の直属の上司(日本人)は、最初から最後までメールやLINEには仕事のやり取りだけで、ご愁傷様ですのひと言もなかった。長い付き合いで、一緒に出張に行ったりもしているのにだ。もちろん、こちらの状況はとてもよく知っている。もともと変な人だが、60歳も近いのに、人として大丈夫だろうかと思わずにはいられなかった。

また、長年付き合いのある女友達は、「何かあるんだろうなと前から感じていたから、こちらからも連絡しないようにしていたし、周りの仲間にも今は連絡しないほうがいいと伝えておいた」とのこと。これには、複雑な気持ちになった。どうもありがとう、気を使ってくれて、と言うべきだろうか? 彼女には、母の最期を看取った話をしても、「そうだったんだー」で、終わった。彼女には重過ぎる話だったか?

一方、アメリカにいる旦那と共通の友人たちは、早くから私や母を気づかうメッセージをくれていた。そして、母が亡くなった日には、温かい思いやりのあるメールをいくつかもらった。そういうところは、さすがアメリカ人と思わずにはいられない。

日本人は、遠慮しすぎたり、気を使いすぎるのか、言葉が足りなすぎる。日本の文化はもちろん尊重するけど、私には合わない。

はたまた、そもそも言葉が出ないのは、やはり人間力の問題かもしれないと思ったり…。

この「人間力」というのは、仕事をいくら頑張って目標を達成しても、養えるものでもなくて、アメリカの名門大学が、勉強以外の活動を重んじているのは、そういう理由からだと私は思う。つまり、勉強だけできる、仕事だけできる人間、そもそもそれだけを目的としている人間はほしくないということだ。

今朝は、母の介護士さんがお花を持って来てくれた。本当は4月分の介護費用を支払う名目があったのに、2人で母の話をして、一緒に泣いてくれた。彼女は私より3つ下の独身で、同じくひとりっ子だと教えてくれた。彼女も海外で暮らした経験がある。実家が北海道で、東京で介護士をしながらも、これから両親の介護が必要な時がくることを覚悟していると話していた。

彼女との関わりは、去年の後半からだが、話していると、ずっと前から知っていたような気がしてホッとする。メール一つにしても、彼女の人を気づかうその姿勢は、その人柄そのものだ。彼女が、母にお線香をあげた時、母が「ありがとう」という声が聞こえたような気がした。

介護士さんや、訪問看護師さんも、患者さんの末期や死に日々直面し、かつ、病院と違って介護する一人ひとりに寄り添っているからか、そういった人間としての素性が、養われるのかもしれない。

母の介護や、母の介護を通して知り合った人たちを通して、私自身が成長させてもらったし、自分の今までの生き方を大きく見直す機会をもらった。

人生の岐路に立つ今、死ぬ時にどうありたいかを意識して、これからの方向性を決めたい。

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