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連載小説【フリーランス】#30:おかえり私

 二日目の朝、幸代が旅館のフロントに降りていくと、先にチェックアウトを済ませていた正和が「女性は支度に時間がかかるよね」と声をかけた。幸代は「そう?」とだけ言った。  駅前でお土産を買って、最後にお昼ごはんを食べようということになった。帰りの電車の時間もあるし、近場で手頃な店を探そうとしたのだが、適当なときに適当な店というのは見つからないものだ。  結果、二人が入ったのは、店主が無愛想で不味いハンバーグ屋だった。先に扉を開けた幸代が「2人なんですけど」と告げると、店主は黙

    • 連載小説【フリーランス】#29:Google Earthより遠い背中

       旅館で出された夕食を食べ、食後の温泉に入ってしまうと、もうすることはなかった。観光地とはいえ田舎の夜は早い。ろくに体も動かしていないので、和食のフルコースが思いのほかお腹にもたれてしまい、お酒を飲みに出かける気分でもなくなって、幸代は早々に布団を敷いて横になった。旅先でそんな事態になっても、正和からは嫌な顔ひとつ、文句ひとつ向けられない代わりに、幸代も申し訳ないとは思わなかった。  引き戸を隔てた次の間では正和が一人でビールを飲みながらスマホでゲームをしている。一人で外で

      • 連載小説【フリーランス】#28:荒波を立ててでも

         せっかく遠出したのに、昼間から旅館にこもっているのは勿体ない気もしたが、陽の高いうちから温泉へ浸かるというのは思いのほか悪くなかった。夕暮れ前の露天風呂には人がいなくて、浴場は空だった。いつもより丁寧に時間をかけ、髪と体をじっくり洗う。シャワーで肌の石鹸を流していると、腕の内側に見たこともない点のようなほくろができていた。いつからあったのだろう。  浴室のガラス戸から見える外では温泉が十分に温まって待っていた。掛け湯をして片足ずつ浴槽へ入ると、広い湯の中で存分に体をのばす

        • 連載小説【フリーランス】#27:旅先のカレー

           チェックインを済ませて旅館に荷物を置いた二人は食事に出た。昼時を過ぎた目抜き通りは思った以上に閑散としている。多くの店が夜の営業に向けて準備中になっていたが、まだ開いているところを何軒かのぞいて、なんとなくの成り行きで決めた。 「カレーライス」  メニューを一読するなり正和は言った。店先の看板には日替わり定食が三種類も書かれていて、地元で獲れた旬の海鮮を使った丼も、ご当地名物の郷土料理もあった。幸代はメニューの冊子を一ページずつゆっくりとめくって熟読し、壁のお品書きにも

        連載小説【フリーランス】#30:おかえり私

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          10本

        記事

          連載小説【フリーランス】#26:何を言ってるのかよくわからない

           黄金連休の初日、正和はいつものフィットで迎えに来た。一泊だからとたかをくくっていた幸代の荷物は思ったよりも膨らみ、一回り大きなボストンバッグが急遽クローゼットの奥から召喚された。正和はちらりと見て「やっぱり女性は荷物が多いね」とだけ言った。だから何だというのだろう。幸代がトランクを開けると先客として収まっていた正和の荷物はデイユースサイズのバックパック一つ。それに比べたら確かに多いけれども。  サービスエリアで幸代が手洗いから出てくると、正和は自販機スペースの横に設けられ

          連載小説【フリーランス】#26:何を言ってるのかよくわからない

          連載小説【フリーランス】#25:部屋の人質

           蔵石さんが退居したCLOSETは次の主を待っていた。自分の個展の日程が近づいてきたミヤちゃんは準備に集中するためバイトを休んでいる。  幸代は久々に新しい部屋に足を向けた。ドアを開けると覚えのある匂いに出迎えられたが懐かしさは感じなかった。正和が来た形跡もなかった。  一通り室内を回るとすぐに手持ち無沙汰になってしまった。しかも今日の幸代はこの部屋のために何かを持ってきてさえいなかった。そのことに気づくとにわかに不安になり、トートバッグを探って、こけしが手に触れた。不意

          連載小説【フリーランス】#25:部屋の人質

          連載小説【フリーランス】#24:名前をつけるな

          「それでね」  その夜の帰り、幸代は遅番上がりのピカスをつかまえた。このまま真っ直ぐ家に帰りたくなかった。さっきの余韻をもう少しだけ引きずっていたかった。時刻は日付けを回ったばかり。今はまだ自分の中に残っている炎も一晩寝たら絶対に消えてしまう。完全に消えてしまう前に、それがあった事実を、現実のアルバムに残しておきたい。でも心の火をスマホのカメラで撮ることはできない。無論、一眼レフでも。こういうときは誰か証人を見つけるしかない。  メッセージアプリで正和のアカウントを開く。

          連載小説【フリーランス】#24:名前をつけるな

          連載小説【フリーランス】#23:口に出されなかった言葉たち

           それでも時は正しく流れる。CLOSETは蔵石さんの家から運び込まれてきたものたちに着々と侵食されて、ピアノを中心にステージが設営されつつあった。床にはフェイクの畳を六枚敷き、中央に堂々と構えるグランドピアノの回りを、折りたたみ式のちゃぶ台や本棚で飾り込んでいく。本棚の中身も蔵石さんのもので、私物の文庫本や漫画が並べられた。  セット作りには幸代もミヤちゃんも参加した。取り外し用の壁となるパネルは内側に壁紙のシートを貼り、蔵石さんが撮ってきた部屋の写真からイメージを膨らませ

          連載小説【フリーランス】#23:口に出されなかった言葉たち

          連載小説【フリーランス】#22:似ている誰か

           マグカップが割れた。酔いざましのコーヒーを飲んでシンクの中に置いたら音もなく真っ二つになった。結婚式の引き出物でもらったそれはペアだった。一人暮らしの部屋で使うのは幸代だけだったので、一つしかおろしていなかったのだ。二つの破片を重ねて捨て、箱に入ったままだった二個目を初めて出してきた。ギフト用の食器やグラスはだいたいペアでワンセットになっているが、今の幸代に必要なのは、ペアではなくスペアだった。  1Kのこの部屋を借りたのは風船男と別れた直後だった。学生時代から同棲してい

          連載小説【フリーランス】#22:似ている誰か

          連載小説【フリーランス】#21:同じカテゴリの男

           正和のボランティアは思いもよらない形で打ち切られた。正和がダンスのワークショップを受け持っていた自治体の一つで、フィールドワーク教室の引率に来ていたボランティアの男性が、女子児童の体を触るという事件が起こったのだ。子供たちはもちろん、保護者の間にも不安が広がっているので、事態が落ち着くまで男性ボランティアは当分の間来訪を控えて欲しいと要請があったらしい。 「本当にいい迷惑だよ」  馴染みの居酒屋のカウンターで、噛み潰した枝豆のさやを口から吐き捨てながら、正和はこぼした。

          連載小説【フリーランス】#21:同じカテゴリの男

          連載小説【フリーランス】#20:食べた気がしない

           手帳を開くたびにゴールデンウィークが近づいてきて、一つの体に二つの家を持つ幸代の二重生活は続いていたが、二軒目の部屋からはしばらく遠ざかっていた。 「先輩、かけすぎじゃないですか?」  ミヤちゃんが大きな目をさらに丸くしてピザを見つめている。 「え、そう?」  タバスコの赤はすでにトマトソースの赤に溶け込んでいる。CLOSETの近くに新しくピザパーラーがオープンしたので、ミヤちゃんと休憩時間を合わせて食べに来た。小型のマルゲリータとクアトロフォルマッジを頼んで、先に

          連載小説【フリーランス】#20:食べた気がしない

          連載小説【フリーランス】#19:私だけのこけし

           あれからバイト上がりのピカスとはたびたび一緒に帰るようになっていて、ときには二人の家に向かう途中にある公園で、仕事終わりの一杯のビール缶をかたむけることもあった。 「それ何?」  ベンチの上で半開きになったピカスのリュックの中に小型の木彫りの人形がのぞけた。それは台座のないオスカー像のような形をしていて、本体に彫られた装飾に合わせて鮮やかな塗料で色づけされている。ピカスは幸代の目線を追って人形を手に取った。 「これ?」 「うん。あなたの?」 「そうだよ。これはね、僕の

          連載小説【フリーランス】#19:私だけのこけし

          連載小説【フリーランス】#18:何もかも似合わない部屋

           蔵石さんのおかげで気分がよかったので、幸代は新しい部屋に寄ろうと思った。引っ越しは五月始め、ゴールデンウィーク後半の予定だったが、契約は済ませてあるから、もういつでも出入りできる。   幸代はこのごろときどき一人で新居を訪れていた。来たからといって特に何をするわけでもない。がらんとした部屋の床で、ぼうっと数時間を過ごすだけだ。仕事が終わってもなんとなく真っ直ぐ帰りたくない夜に寄って、デパ地下でテイクアウトしたガパオライス丼を食べたり、どこへも行く予定のない休みの昼間から、

          連載小説【フリーランス】#18:何もかも似合わない部屋

          連載小説【フリーランス】#17:六畳一間のグランドピアノ

           その頃、CLOSETではある女性ピアニストと共同で演奏会の企画を進めていた。蔵石さんは音大を卒業して、昼間は派遣の事務、夜はジャズバーやホテルのラウンジでピアノを弾きながら、六畳一間の和室でグランドピアノと暮らしているという。 「ピアノのせいで私の生活空間は完全に乗っ取られています。寝るときもピアノの下に布団を敷いてるんですよ」  グランドピアノに“置かれている”六畳間を想像して、幸代は思わず笑ってしまったけれど、実際のところ笑っていいかどうかは五分五分だった。六畳一間

          連載小説【フリーランス】#17:六畳一間のグランドピアノ

          連載小説【フリーランス】#16:かろうじて戦争ではなく

           子供たちが帰った後、図書館の職員たちが、幸代たちのためにささやかなお祝いの席を設けてくれた。数え切れないほどの乾杯を交わし、さらに駄目押しの祝福の言葉とともに送り出されて、二人は図書館を後にした。  帰りの車中、いつものようにハンドルを握りながら、幸代は言った。 「みんなに報告できてよかったね」 「ありがたいよね。急な報告だったのにお祝いの会までしてくれて。俺ボランティアやってて本当によかったよ」  運転のある幸代はアルコールを飲まなかったが、正和はビールや焼酎の杯を

          連載小説【フリーランス】#16:かろうじて戦争ではなく

          連載小説【フリーランス】#15:ユエナは虹の子

           幸代の説明を聞いている間はざわざわと落ち着きのなかった子供たちも、一度ねんどの袋を開けると、目の前の作業に夢中になった。一人一袋ずつ配られた白い紙ねんどをこねて、ちぎって、丸めて形を作り、ヘラやつまようじで模様や凹凸をつけ、最後にアクリル絵の具で色を塗って仕上げる。それぞれの手の中に、飼っている犬、スポーツカー、アイスクリーム、フルーツ盛り合わせ、カブトムシ、ティラノサウルス、魔法少女の変身アイテムなどがだんだんと姿を現してくる。シャリとネタを量産して寿司屋を開こうとしたり

          連載小説【フリーランス】#15:ユエナは虹の子