- 3 -

 次に彼女に会ったのは、年が明けて一月のことでした。彼女は私より先に来ていて、マスターと話をしていました。前回は、髪をポニーテールにして柄物のワンピースを着ていたのが、そのときは、髪を下ろしてスーツを着ていました。前髪も分けられる程度に長く、シャツには機械ではなく手でアイロンが掛けてあったことに、私は、さらに魅力を感じました。
 改めて見ると彼女は背が高く、スツールに姿勢ただしく座っていました。また、前回の写真で、口角を上げたために見える笑窪や、綺麗に並んだ白い歯に、私は、すっかり魅せられていました。本当に、彼女は私にとって唯一の女性でした。きっと、両親が見たら、こんな女性に私が相手にされるわけがないと一笑に付し、馬鹿にし、二度と会わせないでしょう。
 「どうしたの?」
 と彼女が訊きました。
 「……素敵な人」
 私は、とっさに口にしました。
 「素敵な人……ですか?」
 彼女は苦笑しました。
 「で、マスターと、何を話していたの?」
 訊いてみると、彼女は神田の学校に通っていて、英国人とのハーフであるマスターに、英語のことをいろいろ教わっているとのことでした。私も神田駅前の英語専門学校の出身なので、そこかと思って訊いてみると、駿河台にある大学とのことでした。
 「あれ? 駿河台を御茶ノ水じゃなくて神田って言う人、珍しいね」
 私は、素直に、そう思いました。何となく、代々、東京に住んでいる人間は、親から、昔の町名とか、何番の都電が通っていたとか、そんなことを吹き込まれて育つものです。
 どうせ彼女は大学名を出さないだろうと思い、私は、自分の学生時代の話をしました。
 「私は、麻布の仙台坂上にある母の実家から自転車で通っていたんですよ」
 「なんで自転車なんですか?」
 「バスがあったんですけど、一時限がないときは、銀座通りが凄い混んで、二時間くらい掛かるんですよ」
 「地下鉄は?」
 「広尾まで歩いて二十分くらいなので、二十分歩いて、電車を待って、乗り換えて、さらに移動なら、自転車の方が良いかなと思って」
 実際は、親が交通費を出してくれなかったのでした。
 「で、自転車だと何分くらい掛かるんですか?」
 「それが、驚くことに、慣れると四十分かからないんです」
 「慣れるって、何に慣れるんですか?」
 「まず、道に。どのタイミングで赤信号になるから、ここで渡っておこうとか、こちら側の歩道を走っていると信号がないぞ、とか。あと、神田橋を渡ってからの細かい道ですね。」
 「私、好きなんです、そういう駆け引きみたいなの。なんか、通っぽくて」
 「メッセンジャーみたいなところ、ありますよね。そうそう、あとはママチャリで仙台坂を上るのに苦労しましたね。最初は全然、上れなくて。それが段々、上れるようになって、上りきれるようになったら外人に『グレート』とか言われるのが快感でした」
 「けっこう、楽しそうですね」
 「でも、私の家は内風呂がなかったので、広尾にしても麻布十番にしても、いちいち銭湯に行くのに坂を下りたり上ったりするのが大変でしたよ」
 「え? 仙台坂上に住んでいて風呂がないんですか?」
 「そうです、戦前の家なので。外人が来ると『ジャパニーズ・トラディショナル・ハウス、メード・オブ・ウッド・アンド・ペーパー』なんて言ったりして」
 実は、祖母が亡き後に住んでいる叔父が、家を荒らしっぱなしにして台所も風呂場も使えなくしてしまったのでした。口ばかりで行動が伴わないのは、うちの家族に共通です。しかし、すべて正直に言えば自分が惨めになる。
 「まだ、その家に住んでいるのですか?」
 「いえ、借地だったので立ち退きになり、今は白金の小さいアパートに住んでいます」
 これも、本当は白金なんかに住みたくなかったのです。私も育ちは千葉県松戸市の郊外で、世田谷辺りに行けば同じ値段で倍の面積の新築マンションが買えます。それを、親が麻布近辺に拘泥したために、築三十年の狭いマンションを買うことになったのでした。落ち着く間もなく建て替えの話が出ているのです。
 「でも、あの辺は、まだ住宅地でしょう?」
 「いや、山の上はともかく、だいぶ再開発が進みましたよ。私の住んでいるところなど、商店街ですしね」
 「あ、魚籃坂のほうに行くと、そうですね」
 「魚籃坂なんて、よく知っていますね」
 「うちの墓が、あっちの方なんです」
 そんな話をしているうちに、彼女が
 「そろそろ失礼します」
 と言って席を立ちました。
 「あ、これ……」
 私は、魘されて書いた手紙を渡しました。

この続きをみるには

この続き:0文字

- 3 -

瓜ヶ谷 文彦 (ゆー)

100円

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

いやぁ照れるな。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。