ドラマ『ハンニバル』に学ぶ共感と同情

 混同されがちだが、シンパシーと共感は似て非なるものだ。長くなってしまうので詳細は省くが、共感つまりエンパシーは「あなたの痛みを感じる」で、シンパシー=同情は「あなたの痛みに何かしてあげたい」なのである。

 よく本の登場人物だとかに「シンパシーを感じた」と言いがちだけれど、これは"そのキャラクターの境遇が自分のそれと似ているから気持ちがよく分かる"という意味ではなく、ましてや「運命を感じた」でもなく、ただ“可哀想だから助けてあげたい“と同義になってしまう。

 どちらにしろ同じに見えるかもしれないが、エンパシーは純真潔白ではない人物を扱うとき、非常に重要になってくる。
 例えば、殺人鬼が大切な人を喪って悲しんでいたとしたら、物語の受け取り手はその痛みを理解して可哀想だと感じたとしても、同時に自業自得だとも考えるだろう。それ故に、登場人物に愛着を抱かせるには、同情ではなく共感が必要不可欠なのである。

 アメリカのドラマ『ハンニバル』は、これら二つの感情を極めて有効に活用したドラマだ。有名小説が原作の映画『羊たちの沈黙』に登場する人喰い殺人鬼ハンニバル・レクター博士と、FBI特別捜査官のウィル・グレアムとの関係を描いたサスペンスで、わたしが散々褒め称えてきたマッツ・ミケルセンがレクター博士を演じている。

 心を痛めているのを見て「ああ、可哀想!」と思いながら、ボコボコにされる姿を見て「よっしゃ、もっとやったれ!」とボコボコにしている側を応援してしまうキャラクターを好きになるのは初めての経験だった。もちろん、レクター博士の話である。

 ネタバレ防止にざっくり説明すると、彼はシーズン2で心を粉々にされ、シーズン3で身を置く傷心旅行先のイタリアで、かつて傷つけた相手から返り討ちに遭う。
 それもこれも全て彼の自業自得なので、「おお、よしよし可哀想に、毛布を持ってきてあげようね」とは微塵も思わない。むしろもっと痛めつけられて欲しいと思ってしまうくらいだ。(これは、決して、酷い目に遭うマッツが美しいからという理由ではない。)

 ハンニバルへの感情が最初から最後までエンパシーであるのに反して、視聴者のウィルに対する感情は同情から共感へと変わる。共感は両者が同等の立場にないと成り立たず、シーズン1で視聴者はウィルが知らない事実、“レクター博士こそが殺人鬼である”、を知っているため、彼の痛みを感じるというよりも、「自らの情報で彼を救ってやりたい」に近いのだ。

 それがシーズン2でウィルもレクター博士の正体を知ると、視聴者とウィルの立場がついに平等になり、かつ彼自身も内面を晒け出さなくなるために、我々は垣間見えるウィルの感情を推測することしかできなくなる。
 ここで初めて、悪役に近かったレクター博士とその真逆に位置していたウィルの立場も同列となり、追う者と追われる者のサスペンスから、二人の関係そのものが物語として機能し始めるのだ。

 とはいえ、構造的に共感と同情を説明はできても、わたし自身がその二つをどう感じ分けているかについてはハッキリと言えない。
 わたしは慣例的にヒーローよりも悪役の方を好きになるのだが、ロキには常々「毛布をかけてあげたい」と思っている。たぶん殺した人間の数ならロキの方がハンニバルよりよほど多いと思うのだけど、なぜか彼には「シンパシーを感じてしまう」のだ。
 作品のフィクション度合いの問題なのか、それとも、同情を一切求めていなさそうなハンニバル、愛されたがっているロキ、といった登場人物の態度の問題なのか、明確な判断基準は見つからない。

 それが分かるときまで、とりあえず毛布を手に持った日が続く。

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