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私が「科学エデュケーター」を名乗るワケ

私は最近自分のことを「科学エデュケーター」と名乗っています。

別にこういう肩書きがあるわけではなく、ただ名乗っているだけ。この記事を書いている時点では「科学コミュニケーター」という別の肩書きを持っていながら、敢えてこの肩書きを名乗っているのには理由があります。


教師(ティーチャー)ではない

現職の前は、理科の教師をしていました。その時は「教師」とか「教員」と名乗っていればよかったのですが(もっと正確に言えば「教諭」)、現在は科学館に勤めているので、その肩書きを使うのは誤解を招くため使っていません。

もし仮に今も理科の教員であったとしても、もはや「教師」と名乗るのは古臭いとすら思います。

教師とは英訳すればteacher、つまり教える人。けれど現在の学校教育では「教える」こと(教授)は教育手段の1つではあるけれど、すべてではありません。現在の学校教育における子どもの成長像とは、端的に言えば「自分で学びつつづける人」です。

学ぶのは子ども。教員は教えることから、学びを促し支援することへとその役目を変化させています

ですから、教員は肩書きとして"教諭"であっても、"教師"と名乗るにはふさわしくないと思うのです。したがって「ティーチャー」ではなく「エデュケーター」と名乗っています。


理科ではない

あと、私は「理科」という言葉をなるべく使わないようにしています。「理科」という言葉は、元をたどれば福沢諭吉が名付けた学校教育の教科の1つに過ぎません。自然科学の教科版といったところでしょうか。

それに対し「科学」は「学術」に近い意味です。私はこの言葉を使う時には、自然科学だけでなく人文・社会科学や芸術も含んだより広範な意味で使っています。すでに学校に勤めているわけではないのだから、教科の枠組みの中にいつまでも閉じこもっている理由など、ないのです。


科学コミュニケーターの大半は学びを促すプロではない

ではなぜ、現在職場からいただいている肩書き「科学コミュニケーター」とだけ名乗らないのか。

実はこちらを説明する方がよほど厄介です。

まず、「科学コミュニケーター」がどんな仕事をしているのか、一般の認知度はまだかなり低いと思います。一応「科学と社会をつなぐ人」と説明することが多いのですが、ほとんどの人はまだしっくりこないでしょう。

少し説明すると、今科学は高度に専門化・細分化されていて、1つ一つを全て理解することは現状難しくなってきています。けれど中には自然災害や気候変動、ゲノム編集から生じる生命倫理に至るまで、現実には科学と社会の間に位置する未来の課題が多く存在しますよね。

「科学と社会をつなぐ」とは、その仲介に入って色々することです。色々とは、時に科学を一般の方にわかりやすく伝えることもあれば、一般の方が考えている希望や不安を科学者や関係者に伝えること、一般の方と科学者が対話できる場を作ること、さらには課題解決のために共に未来を作る場をデザインすることもあります。手段は状況によって様々。それらを考え作り上げる仕事と言っていいでしょう。

ただし、科学コミュニケーターの大半は学びを促すプロではありません。科学リテラシーを身につけるために、一般の方に情報提供したり科学知識を伝えたりする行為は発生するので、科学教育や理科教育にまたがる行為をすることがあります。けれど、それが専門というわけではありません。「科学」について先述した通りで、プロの科学コミュニケーターになる人もまた、様々なバックグラウンドを持ち、個々の専門性や趣向、得意分野で仕事をします。

残念ながら、私には個々の自然科学領域についての深い専門性は何一つ持っていません。その代わり、学際的に広く浅い理解の他に、教育学の知識、特に学びの文脈、教えるー学ぶがどのようなプロセスを経ればうまく進んでいくのかという教授学習過程についての知識と実践の両方を持ち合わせています。これが私の唯一の武器です。

ですから、科学コミュニケーターとは区別して、自分のことを「科学エデュケーター」と名乗っています。


みんな経験しているからこそ、教育は間違えやすい

教育は他の学術領域に比べてイマイチその専門性を正確に理解されていないと感じることが多くあります。実際、私は専門的な意見を述べても、知識ではなく経験と勘違いされてしまうことが多いという悩みを持っています。

日本に住む人の大多数は、学校で教育を受けた経験を持っています。学校でなくても、職場の研修や引き継ぎなど、ちょっとした場面で誰かに何かを教える機会は多いでしょう。

その気になれば、行為自体は誰でもできる。それが「教える」ということです。たとえば医療行為なら医師にしかできませんが、教育には教える人を限定するルールは存在しないので、無免許でも関係なく誰でも教える行為そのものはできます。

そして教育の重要性を真っ向から否定する人もほとんどいません。教育のことを知っているから、教育について熱く持論を述べる人もたくさんいます。

もし、単なる経験と専門としての教育とを隔てる何かがあるとすれば、それは「知識の妥当性」の違いです。

もっとも大きな間違いは、自分が受けてきた教育の経験が日本全国どこでも同じと拡大解釈してしまうことです。

確かに日本は文部科学省が教育課程を統括しているので、制度上大きな不平等は起きません。けれど、あなたの経験は、あなただけの経験であって、隣に座っていた人とはたとえ同じ空間を共有していても見ている世界が異なるのが教育というものです。

私が仕事上関わる多くの人は大変勉学のできる方が多いです。みんな「学びのプロ」です。ただし「学びを促すプロ」は多くありません。なぜ%(百分率)の計算でつまずくのか、どうして原子やイオンの理解で苦しむのか。努力してきた人ほどそのつまずきそのものを"理解"あるいは"共感"するのは容易でないというジレンマを抱えています。そして多くの人の場合、相手が理解できないのは年齢や努力、知能のせいにして逃げてしまいます。

もし、私が科学エデュケーターとして他の人には持っていない専門スキルがあるとすれば、それは「正しくない理解」の生まれ方についての理解があることです

それは、教授・学習のプロセスの研究の積み上げによって支えられています。そして、実践者でもあるので、誤理解のプロセスさえ見えれば、そのプロセスを正しい理解への導き方を修正することも必ずできます。


二刀流で未来づくりに関わりたい

学びを促し支援する「科学エデュケーター」、科学と社会をつなぐ「科学コミュニケーター」、それが私が選んだ二刀流の姿です。

そんな私が実現したいのは「誰もがワクワクしながら深く学び、より良い未来の選択を導くことができる社会」です。

科学と社会をつなぐためには学びが必要です。でも、学んだことを活用できる場も必要です。私が理科教員という仕事から飛び出してしまったのは、未来をつくるためには二刀流である必要があると感じたからです。

・・・少し欲張りでしょうか? でもこの二刀流の通り名で、多くの人の明日が明るくなるような仕事に従事し続けたいと強く願っています。

最後まで読んでくださってありがとうございます!