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ほんとうのこと、たてまえ。

肌感覚で感じている、最近のアレコレ。
カフェの窓から道ゆく人をぼんやりと眺めている時。
ふと、世の中の動向に思いを馳せる。

様々な差がなくなり、不浄なものや尖ったものは排除され、
フラットでつるりとした平滑な世の中が訪れる。
そんな気はしていた。

人間の本質は変わらないが、人々の価値観は変わる。
価値観や美意識は土地、時代によって大きく変わる。
それは否応にも歴史が証明しているように思う。

不純は表舞台から姿を消すだろうか。
完全なものが世の中に溢れ、人間性は秘められることになるだろうか。
性は秘め事、宗教観、近代化の流れと共にタブー視され、
既に蓋をされたものは沢山ある。
歴史が繰り返す、それだけの話だろうか。

なくなれば求められるものもある。
この先アナログな媒体が世の中から減れば、
高級品として需要が高まるだろうと思う。

職人の手仕事も失われれば、きっと求められる。
失って初めて、とは言うまい。
便利で完璧で、綺麗なものが溢れれば、
人の手垢のついた、プリミティブな魅力に漸く気が付く。
勿体無い話。

悲観的だけど。

意識してないだけで同じような美意識や価値観を持つ人は
少なくないだろうとも思う。
だから、そんな悲観する必要ないと思いたい。

人間の動向は全く合理的なことばかりではない。
人間の感情は時に合理性を欠く。
それで当たり前、それが本質。
人間は不完全であって当たり前。

不完全さは愛おしいと思う。
けれど、不完全を抱えて生きていることを
隠さざるを得なくなったとき、
本音は建前に消え去ってしまうのではないか。
そんな不安はある。

インターネット上の交流と、その中で必要な倫理観も、
生身でのコミュニケーションに必要な倫理観と基本は同じだろう。
けれど、物理的な隔たりが少ない分、インターネット上の方が生身よりも、
アクセスされやすさはある。
その点においてインターネット上のコミュニケーションは
生身よりもオープンだ。

そして、そんなオープンな土壌において。
今後、人々の本音はどこまで出せるだろうか。
出逢うべきではない機会が存在しやすい世界に、
本音の居場所はあるだろうか。

誰一人として悲しみを抱えてほしくはない。
皆そうだろうが、そう思いたいが、
我々の不完全さはそのリスクを消し去れない。

故に、インターネット上でのコミュニケーションにおいて
必要な倫理観は、生身とはちょっと違うのではないかと。
そんなふうに思ったりもする。


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