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音大生とネイル

 社会人になって、密かにたのしみのひとつになったことが、ネイルである。もっぱらセルフネイルではあるが、自分に似合う色を探したり、プチプラでどこまでキレイにできるか追求したりするのが楽しい。高校生の頃は校則で禁止だったが、なぜ社会人になってからなのかと言われれば、それは音大では他大よりもはるかにネイルが歓迎されないから、である。

 たとえばピアニストの場合、爪を長く伸ばすことはご法度といわれている。カチカチと爪が鍵盤に当たる音のせいで、試験を減点になった同期もいたくらいだ。短くても可愛くする方法がないわけではないが、思い通りにデザインできないフラストレーションを嫌う人は、いっそ素爪でいようと思うのかもしれない。ピアノの場合、10本の指を常に視界に入れて演奏するため、気が散るからという理由でみずからネイルを敬遠する女子もいた。弦楽器の場合、ネイルはさらに遠い存在となる。爪で弦をはじく奏法があったりするので、余計なものを爪に塗るわけにはいかないのだ。ピアノ女子もヴァイオリン女子もハープ女子も、皆一様に、顔にはねんいりにメイクをしても、爪だけはすっぴんというわけだ。
 管楽器科の学生はちょっとゆるく、楽器に傷をつける可能性があるので爪を伸ばすことはできないが、視界に入るわけではないため、プロでも人によっては爪をおしゃれにしている人がいる。しかし、楽器に関わらず彼女たちの前に立ち塞がるものがいる。レッスンの先生という存在である。

 人によりけりだが、もっとも厳格な先生のクラスの子は、ネイルどころか、レッスンの時の服装に文句を言われる。ジーンズばきNG、スニーカーNG、ノーメイクNG…大学生にもなれば制服に縛られることなく、着たい服が着られるはずなのだが、こと音大生に限ってはそれが当たり前でない場合がある。いろんな先生のいろんな逸話を聞きながら、おお怖っ、と首を縮めていた我々音大女子にとって、ネイルとは「なるべくしないでいたほうが、師匠との波風を立てずにすむもの」であったのだ。管楽器専攻だった私も例外に漏れず、ネイルはしたかったが、レッスンに行ったときの師匠の反応を考えるとやはり怖かった。今思えばサバサバした先生だったので、何も言わない可能性もあったが、ただでさえ出来の悪い弟子が、曲をさらわず爪を塗っているなど、師匠の機嫌を損ねる以外の何であろうか。というわけで、一度も実行することなく卒業し、演奏を生業としないことが確定して初めてネイル解禁となった次第である。
 とりたてて手の混んだことをするわけではない。ただ単色で明度の高い色を塗るとか、さもなきゃフレンチネイルくらいがせいぜいだが、アクセサリーより邪魔にならないし、うまくできたら気分もあがる。出産のときにネイルは落とせとお医者さんから指示があったりして一度離れているが、秋に後輩の結婚式が予定されているので、そのあたりには久しぶりにちょっと頑張ってみようかと思う。

「音大生」も「母親」も、華美なよそおいに眉をひそめられがちな存在だと言うことができるかもしれない。電車などで派手な服装のお母さんが白い目で見られがちなのも知っている。われわれはとかく外見で判断されがちなのだ。しかし、本来の目的に支障がないなら、なにを気に病むことがあろうか。音大生だったあの頃、萎縮していたカリを返すときがいま来たのだ…なんていうと大仰だが、気持ちを明るくたもつために、子どもの寝ているときを見計らって、ひさびさに爪磨きからリスタートしてみたい。


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