見出し画像

アルルの女 4

 一瞬、なんの話かわからず戸惑った。自分から持ち出した話題だったことを思い出す。

「私は時代背景とか、作者の生い立ちとか全然知らないんだけど、こうじゃないのかなって思ったことがあって」

 最初はドーデーの『風車小屋だより』という短編集に収録されている話を読み、次にそれをもとに書かれたという戯曲を読んでみた。どちらとも、私にとっては、あの音楽が作り出す世界とはしっくりこなかった。映画化された小説が、主人公の名前や大まかな設定は同じなのに、多くの場合が原作とは別物になっているのと似た現象なのかもしれないが。

 コーヒーを一口飲み、再び口を開く。

「きっと、主人公の男の子にとっては、アルルの女の人と会って結婚できることに決まるまでが、人生のピークだったんだと思うんだ。実際にその人と結婚しようがしまいが、それからあとの人生は、彼にとっては余生だったの」

 青野君は私が続きを話すのを待っている。余計なことは言わずに、相手の話が終わったと思うまで、じっと聞いている。このところ、ずっと一緒にいて、こういう人だったことを再び思い出していた。

「だから、もし仮になんのトラブルも起きずにその人と結婚できてたとしても、きっとそのときの、結婚する前よりも幸せになることは、なかったんだと思うよ」

 青野君が黙ったままでいるのを見て、自分の話はまだ終わっていないことを確認する。

「つまり、どう転んだって、彼のそれから先の人生は、ひたすら借金を返すため、みたいなものだったんだと思うんだよね。誰かと結婚しようがしまいが、人生で一番幸せな時期はもう終わってて、まあ、例えるなら、有り金全部はたいただけじゃすまなくて、これから稼げる分まで前借して、それも全部使っちゃったってところ? あとは生きてても、ひたすら借りを返すような日々しか残ってないって、本人もどこかで気づいてたんじゃないかな」

 青野君はようやく「ふうん」と言った。今度は彼の話す番なのではと思ったけど、なにも話そうとしないので、仕方なく、一緒にいた学生時代のことを思い出した。

 青野君とよく話すようになったのは、四年生になって同じ研究室に入ってからだった。そのときは、彼には他の相手がいた。

 作業が終わらなくて、うっかり泣きそうな顔を見せてしまったときには「そんな顔すんなよ」と言って、自分の用事もあったのかもしれないけど、遅くまで研究室に残っていてくれた。そんなことしないでよ、と思いながら、そういうことがあるたびに、それ以上気持ちが進まないように気をつけていた。

「じゃあそいつ、死んで正解だったのか?」

「借金残していなくなったら、残された人が苦労するでしょう」

 彼は苦笑いする。

「ああいう衝動的な行動がとれるのって、やっぱり物語の中だからだよね。現実では、どんなに恋で頭がいっぱいでも、ほかにいろいろあるし、周りのことだって考えちゃうし。月並みだけど」

 私だって、フレデリの気持ちがまったくわからないでもない。しかし、私は反論せずにはいられなかった。ずるいと思わずにはいられなかった。

 ずるいという思いには、うらやましいという思いも入っていたのだろうか。純粋に、したいことだけをして幕を閉じた人生。恋をして、結婚できることになって、恋破れて、だから終わりにした。それではいいとこ取りが過ぎるのではないか。

 そんなにうらやましいなら、自分だってやってみればと言われたら、私はどうするのだろう。私にはあなたしかいなかったんだと見せつけて、相手はそんなことで心を動かされるどころか「うざい」と思って終わりかもしれなくて、しょせん人間のすることすべては自己満足にすぎないのかもしれなくて――、やはりそれは、私にはしっくりこない。子供が大人になって、遊んでばかりいられなくなって、働くのは嫌だから、もうこんな人生いいです、というのと似ていないだろうか。義務だなんだと騒ぎ立てられるほど偉いわけではないけれど、やはり私は声を大にして反論したくなる。

 アルルの女の組曲の中でも、とりわけメヌエットという曲が好きだった。のどかで、平和そのものにも思える、この世で見た美しいものすべてを表そうと試みた、そういう曲に思えた。

 あまりに純度が高くて、狂気と紙一重なまでの繊細な心のかたち。山の奥にある、何時間も、あるいは何日もかけてようやくたどり着けるところにある泉には、見たこともない澄んだ美しい清水が沸いている。たどり着いただけで、もはや帰ってくるだけの食糧も体力も残っていないくらい遠くにあるので、ほとんどの人は着く前に、まだ戻ってくる余力があるうちに、あきらめて帰ってくるような場所。

 多分彼の場合には、自分の力で歩いてそこへ行ったのではなしに、なんらかの偶然の作用が働いてワープして着いてしまった。しかし、一度そんな水を見て、すくって飲んでしまったら、それまで日々飲んでいた水など、その後は飲めたものではなかった。それまでの暮らしに甘んじて生き延びることは、もはや無理だったのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?