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さつきのこと 後半

 夏美はB4のノートに、日記らしきものをつける習慣があった。いろいろあったときにはすらすら進むが、あまりなかったときにはまるで進まない。
 さつきといた日々は、また違った意味で、ノートにあまり記録が残されていない。それは、毎日が新鮮すぎて、目新しいことが多すぎて、書くひまがなったからなのだろうか。もしくは、日々変わっていくさつきの印象が、ひとたび書いてしまうとそれが固定されてしまい、翌日会ったときに、自然な気持ちで接することができなくなってしまうことを恐れていたのだろうか。高校生になって、さつきが日々の生活からいなくなってからも、しばしば、あれはなんだったのだろう思った。「あれはなんだったんだろう」の次に続く一文は、なかなかみつけられないままでいる。
 中学校を卒業すると、夏美はその町を出ることになった。父の仕事の都合で、同じ県内ではあったものの、バスと電車に乗らないとさつきに会えない街に引っ越した。
 新しい街には、人がたくさんいて、深夜になっても車の音がしたままで、明かりも夜通しついたままだった。時計は引っ越し前と同じように、日々時間を表示するけれども、その時計が置かれた場所の状況はまるで違っている。
 一瞬たりともしいんとすることがなく、星も見えない。
 学校帰りに制服を着たままデパートに寄れる。あの町ではどこの店にも置いていなくて、バスに乗らないと見ることもできなかったアロマオイルも、徒歩で買いにいける。
 視界に山が入らない。自転車で川に行けない。ちょっと一人になりたいと思ったら、裏山へ行くのではなく、カフェにでも入るのだろうか。しかし高校生は、そんなお金は持っていない。
中学生のころからここにいたら、こんな違和感を覚えることはなかったのだろうか。多分ある程度楽しい状況にいるのだろうけれど、ただ慣れていないだけなのだろうけど、夏美の中のなにかが、慣れることを拒もうとしているかのようだ。
 ここに慣れたからさつきと遠ざかるというわけではないけれど、さつきだって高校生なのだから、多かれ少なかれ、中学生のときよりは行動範囲が広がっていて、夏美の見知った町で、夏美の知らないものにたくさん出会っているはずなのだけど。ただ、なんでここにはさつきがいないのか、それは実に不思議なことだった。
 新しい街で、新しい高校で、夏美は自分が見て感じたものを、さつきがどう思うか知りたかった。さつきが夏美の新しい居場所をどんな目で見るのか、それらに対してどんな皮肉を言うのか聞きたかった。
 一緒にいたければ、さつきと同じ高校に行けばよかったのだが、あいにく彼女とは志望校が違った。さつきは通学時間の短い地元の高校に行くことをはっきりと決めていた。あえて学力の高くない高校へ行けば、勉強しなくてもいい成績が取れて、推薦で大学に入れるのだと言っていた。
「私、あんまり無駄なことはしたくないんだよね。必要なことに割く時間や労力が減っちゃう気がして」
「だったら、なにに時間や労力を割きたいの?」
「さあね」
 掃除の時間、そんなことを言いながら、気づくと多目的室の後ろで丸くなって寝ていた。
 高校に入ってから新たに出てきた倫理という科目は、世の中にある様々な哲学者や思想などについて解説されるものだった。たまにはっとさせられるような言葉が出てきて、こういうのを聞いたら、さつきは喜んで揚げ足をとったことだろうとよく思っていた。
 ある日、黒板に書かれた「愛別離苦」という言葉を見て、はっとした。先生がなにか話しているのが、なにも耳に入ってこなくなった。
 けんかをしたわけでもないし、無理やり引き裂かれたわけでもなかった。すべての出会いは別れにつながっているのは世の常だと知ってはいたけれど、知らぬ間に、一緒にいられる時間は終わっていたのだった。
 住む場所も遠く離れてしまえば、関係が変わらないわけにはいかず、自分たちはそうはならないと思っていたが、夏美もさつきもしょせんは多くの十代のうちの一人にすぎなかった。
 さつきといたのはごく短い間だったけど、毎日話して大きな声で笑って、しかしその裏には自分とは相いれない性質があることに、薄々気づいてはいた。これから先、他人に合わせて意見を変えたり捻じ曲げたりすることはたくさんあるにしても、さつきの前だけではあまりそういうことはしたくなかった。仲良くいるために、無理して言いたいことをすごく我慢したり、したくないこといやいやするのは、彼女に対してはしたくなかった。正直であることが誠意を見せることだと、そう思っていた。もし高校が同じで、ずっと一緒にいたらいたで、頑張りすぎて、けっきょくは離れることになったかもしれない。
 先生の声を遠くに聞きながら、夏美はふと、いつかさつきが言ったことを思い出していた。
「アメリカ横断とか、してみたいよね、一回は」
「だったら、もっと英語の勉強したほうがいいんじゃない?」
「行ってからのほうが、切羽詰まって頑張れそうじゃん」
 さつきはそう言ってにっこりした。
 そんな彼女も、冗談でも「同じ高校行こうよ」と言うことはなかった。
「なっちゃん、そんな顔しないでよ」
 さつきが明るくささやく声が聞こえた。いつの間にか、制服のスカートに涙が一粒落ちていた。

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