アルルの女 3
「ありがちな話だな。現実の世界では、いちいち失恋したくらいで死んでらんないから、そういう劇を見て、みんなすかっとするんだろう? でもそれって、昔だからはやったんじゃねえの? 今上演されたって、死ぬことねえじゃんってみんな思うんだろうな」
思いがけずコメントが長いことに驚いた。言われたことを反芻するのに少し時間がかかり、彼は自分がはっきり言いすぎて私が傷ついたものと誤解したらしく、「言い過ぎたか?」と言った。
「ううん、興味持ってくれてうれしいよ」
本当に言いたかったことを言うタイミングを逃してしまって、なんとなくありきたなことを言って、はぐらかしてしまう。
わざとらしくメニューをもう一度広げてじっくり眺める。青野君がいつまでここにいるつもりなのかはわからないが、私はまだまだ帰るつもりはない。
ここに来るのがもう最後だなんて、現実のこととは思えない。バックパック一つでここに来たので、帰る荷物の整理は、どんなに長く見積もっても二時間もかからないし、ふらっと旅行で来ただけだから、役所関係の手続きだって必要ない。きっと飛行機が飛び立ってしばらくしてから、ようやくもう終わったんだと実感するのだろう。
大学を卒業して疎遠になったときは、同じ日本の中だったけれど、卒業式があったり、引っ越しがあったり、一人減り二人減り、そのようにものごとが進む中で、徐々に現実に馴染んでいった。しかし今回はそうではない。荷物一つでふらりとやってきた私は、再びふらりと帰っていく。飛行機が離陸した瞬間に、ワープするかのように、この地から姿を消す。
海外で一つの街に長居することはあまりないので、こういった場所を去るときにどういう気持ちになるものなのか、よくわからないでいる。醒めたくない、いい夢をみているのに、突然目覚ましのバイブ音で起こされるようなものなのだろうか。時間がきたら、自分の気持ちとは関係なく、否応なしに次へいかないといけないという点では、似ているのかもしれない。帰る日を決めたのも、いろいろなしがらみを捨てて残ることを選ばないのも、自分で選んでいることではあるのだが。
「なんだか信じられないな、明日の今頃、私はもうここにいないだなんて」
「旅行なんだから、いつかはそうなるさ」
「日本にいる自分が想像できないよ」
青野君がなにか言おうとするのを遮って、
「ずっとここにいるわけにはいかないけど」
と言う。ここで家を借りて、働いて、言葉や文化を覚えて、周りの人たちに溶けこんで、日本より物価が安い恩恵を受けるだけでなく、働けば賃金もまた安い。日本に帰ったらしたいと思いながら我慢していたこと、例えば湯舟に浸かりたいだとかみたらしだんごを食べたいだとか、そういうことをこの先も我慢し続けて、そしてここで年をとっていく。ずっとここにいたいというのは、そういうことも含めて、それでもいいと思えるかどうかだ。
実際やってみたら、それまでわからなかった新たな発見があるのかもしれないけど、一時的な感情に身を任せるのは気が引けるし、自分はそういう性質ではないからこそ、そこそこ仕事があって貯金があって、ここに来れているのもまた確かなことだった。
「ウユニ、行けなくて残念だったな」
「まあ、風邪をこじらせて入院、なんてなっても嫌だしね。青野君は楽しんできて」
なかなか体調がよくならなかったのは残念だったけど、今ではむしろ、一緒に行かなくてよかったのではないかという気もしている。
初めて会ったのは十代の終わりころで、会わなくなったのは二十二歳のころだった。単に大学で知り合って、大学を卒業したから疎遠になったということだ。
あれから十年近くのときが過ぎて、こうしてこんなところで会うことになった。あの頃のように毎日会うのが日課になって、青野君も私同様、三十に近いというのが変な感じだ。当時、大学院を卒業した先輩がふらっと遊びに来たときに、「今から同い年の人とつき合うんだったら、結婚を考えないといけないから、自分より若い子とつきあいたい」などと大人ぶって話していたが、私たちはもはやあのときの彼らよりも年をとっていた。
「青野君は、いつ日本に帰るの?」
「早くても、秋になったらだな。帰ったとたんに猛暑は勘弁してほしいし」
「いいね、どんぶり勘定で旅行できて」
「もうここまできたら、数か月くらい、そんなに変わんねえしな」
帰ったら、さすがに今度は定職に就くのだろうか。まあ、この人ならなんでもやっていけそうだ。どんな人が相手なのか知らないけれど、自由な生活を捨ててもいいと思えるほどの人なのだろう。もしくは、そろそろ飽きてきたころで、自由から離れたいのか。いずれにせよ、私には一ミリも関係ないことだけど。
「それで、菊池さんはどう思ったんだよ? その、アルルの女を読んで」
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