見出し画像

あなたの知らないイギリス【離婚問題】

こんぺこ~

ぺこらです。本日は、『離婚問題』ということで、16世紀のヘンリー8世(在位:1509年~1547年)を取り上げてみたいと思います。ヘンリー8世は、私がイギリスの歴史を学ぶきっかけのひとつでもあったので、そこにも触れていきます。

1.イギリス史との出会い

私がイギリスの歴史を勉強したいと思い始めたきっかけのひとつにNHK Eテレ「グレーテルのかまど」というテレビ番組があります。本番組は、ヘンゼルとグレーテルのヘンゼル扮した俳優の瀬戸康史さんが様々なお菓子を作りながらお菓子にまつわるエピソードを紹介するという料理(?)番組です。たまたま見ていた時に取り上げられたのが「ヘンリー8世の愛したお菓子 メイズ・オブ・オナー」。メイズ・オブ・オナーは手間がかかりそうで作る気にはならなかったのですが、「ヘンリー8世と6人の妻」についてのエピソードについてはとても興味が惹かれました。

3.第二の妻アン・ブーリン

なぜ、ヘンリー8世は6回も結婚を繰り返したのか。

その理由には、イギリスの世継ぎ問題が深く関わってきます。イギリスではさまざまな貴族が王位継承権を主張し、対立の絶えなかった時代。そこで戦える世継ぎ、つまりは、男の世継ぎをヘンリー8世は強く欲したのです。
しかし、第一の妻「キャサリン・オブ・アラゴン」は、流産や死産を繰り返し、出産に至っても子供達は健康に巡れず……健康な女児はメアリー(のちのメアリー1世)の1人だけでした。その後、年齢的にも子供が見込めなくなった為、彼の目は他の若い女性に移りました。

目をつけたのは、キャサリンの侍女アン・ブーリン

彼女はとても賢い女性だったと言われています。その賢さ故か、アンは愛人になることを拒み、結婚を望みます。それまで拒まれたことがなかったのかヘンリー8世は次第にアンの虜になりました。思えば、アンがここまで結婚に拘ったのはヘンリー8世の愛人だった姉妹のメアリーがいたからかもこそ結婚に拘ったのかもしれません。そして、アンは「自分を王妃にすれば男児を生む」と離婚を迫り、彼は大きな決断を下します。

2.ヘンリー8世、初めての離婚


画像1

イギリスは一夫多妻制の国ではありません。
当時のイギリスの宗教はローマ・カトリック。結婚もさることながら簡単に離婚することもできません。けれど、どうしてもアン・ブーリンと結婚(=男児が欲しい)したかったヘンリー8世はとある理由からローマ教皇に「婚姻の無効」を取り付けようと画策します。

さて、その理由とは?

ヘンリー8世の第一の妻キャサリンとは即位した2か月後に結婚したと言われています。もちろん、恋愛結婚ではなく政略結婚。というのもキャサリンはスペイン王国および神聖ローマ帝国の支配者カール5世の叔母にあたる為、スペインと関係を築くにはもってこいの女性。
また、彼女は、ヘンリー8世の兄アーサー(1502年死去)の未亡人でもありました。そう、つまりは血は繋がっていない親族。なんと兄の元妻であることを理由に婚姻の無効(近親相姦)をローマ教皇に訴えたのです。
キャサリンとの結婚期間は24年(1509年結婚1533年離婚)。今更感がハンパない。
もちろん、ローマ教皇と関わりの深いキャサリンとの離婚をローマ教皇は認めるはずがありません。
そこで困ったヘンリー8世は、
カトリック教会から離脱、自らを長とするイングランド国教会を成立し、離婚を認めさせたのです。

4.アン・ブーリンの処刑

キャサリンと離婚を成し遂げアン・ブーリンと結婚したヘンリー8世でしたが、彼の望む男児は生まれることはありませんでした。生まれ育ったのは、女児エリザベス(のちのエリザベス1世)

次第にアンへの興味も薄れ、ヘンリー8世の興味は第三の妻「ジェーン・シーモア」に移っていきます。そして、ジェーンとの結婚に障害となったアンを処刑してしまいます。結婚期間わずか1000日
あんなに虜だった女性を処刑したことも信じられませんが、アン処刑の翌日にジェーンとの婚約したというのだから更に理解に苦しみます。

その後も第四の妻「アン・オブ・クレーヴズ」、第五の妻「キャサリン・ハワード」、第六の妻「キャサリン・パー」とまだまだネタに尽きないヘンリー8世なのですが、だいぶ長くなってしまったので今回はこの辺で。
機会がありましたらまたこの続きも書いてみたいと思います。
ではでは~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?