紅玉の渚 序

「町外れの浜辺にはまやかしがいますからね、みだりに近付いてはいけませんよ」

ばあやの忠告が、ぐるぐる、ぐるぐると頭を回る。
いつの間にこんなところまで来てしまったのだろう。
どこをどう走ったのかも覚えていない。
ざわ、と不安が小さな鎌首をもたげる。

でも、どうでも良かった。
もうあの家には帰りたくない。
自分には最初から居場所などなかったのだ。
あのまま天涯孤独の身として生きれば良かったのだ。
何故情けなどかけた。凍てつくような眼差しを向けるのなら。嘲りの言葉をぶつけるのなら。
どうでもいい。

海はその身に沈み込む赤い輝きを今にも抱き止めようとしている。波の音だけが耳に届く。そこは世界の果てだった。少年がポケットにしのばせた小さな地図には、ここから先は描かれていなかった。

ふう、と息を吐く。
世界の果ての向こうに歩いていけば、自分はこの世の地図から消えるはずだ。
誰も悲しみはしない。
白い飛沫が足元にまとわりつく。
小さな身体を拐おうと、波は勢いをつけて彼方から迫る。

「泳ぐにはまだ早いわ」

心臓が止まるのではないか、とはこの事だった。
歌うような、微笑むような、泣き出すような、やわらかい声。
引き寄せられるように、振り向く。

女が立っていた。
こんな美しい女は、見たことがなかった。
星の裏へと帰ろうとする太陽の色に染まる瞳が、かすかに驚きの色をはらんでいる。

屋敷からの迎えか。
探しに来るなどと思わなかった。
見たことのない顔だが、きっと新人のメイドだろう。口のきき方もなっていない。

「…帰らない」
何も喋るつもりはなかったはずが、思わず喉が唸りを上げていた。
「帰るもんか、あんな家!どうせ俺のことなんて家族だとは思っていないくせに!」

妾の子のくせに。
どうせ妾の子のくせに。

うわんうわんと音が回る。金属が奏でる歪んだ音。あの音のように、かきむしりたくなるほど不快なあの音のように、冷たい声が頭を回る。

「邪魔なら邪魔ってはっきり言えばいいじゃないか!要らないなら要らないってそう言えよ!俺は母さんのところへ行く!俺の家族は母さんだけだ!お前らなんてこっちから願い下げだ!」
叫び声に応えるかのように、強い波が打ち寄せて砕け散った。頬を熱いものが伝った。彼の意思に逆らうかのように、あとからあとから流れた。

「お母様は海の向こうにはいないわ」
歌うように、微笑むように、泣き出すように、やわらかい声が響く。
「だからあなたの行くところもそこじゃない。少なくとも今じゃないわ。あなたはこれから何年もかけて大人になる。お母様がいる場所はその先よ」
長い髪が潮風に揺れる。口の端にこぼれる笑みからは、寂しさの薫りがした。自分と同じ、尽きることのない孤独。かすかに薫る風が怒りの炎を吹き消す。

「だからここにいて。あなたが海の向こうに行ってしまったら、私はきっと寂しいわ」
「俺はお前なんか知らない」
「私も知らなかった。でも今はもう知ってるわ」
「さっきまで知らなかったくせに寂しいなんて嘘だ」
「嘘じゃないわ。寂しさは時間だけが生むものじゃないわ」
白い手が幼い手を包む。春まだ浅い夕暮れの風に冷えきった手。振りほどこうと思ったけれど、幼い孤独はその手を離せなかった。

「さあ、もう日が暮れる。あなたがちゃんと帰れるように、おまじないをしてあげる」
今日の太陽の命が尽きる。その深紅を写し出したかのように、彼女の瞳が赤く揺れた。



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