10歳の春、そして12歳の春の日に

小学校入学と同時に、私は関西から中国地方に引っ越した。

引っ越し先は田舎で、ほかの子供たちはほとんどが入学前からの知り合いだった。まったくの部外者だった私は、すぐにいじめに遭うようになった。

アトピーで肌は荒れ、運動はまったく出来ない。発音が苦手な音があってうまく喋れず、本ばかり読んでいて成績だけはいい。スッ頓狂なことばかり言う変わった子供。私は完全に異物だった。理解の出来ないものに対して、まだ手加減を知らない子供は容赦しない。

教室では机を2列くっつけて並べていたけど、私はいつも離されていた。汚いからだそうだ。教科書を読むと訛りを笑われ、絵の好きな子供だった私が自分の絵をクラスメイトが見てくれたことを素直に喜んで担任に提出する日記に書くと、生意気だと激昂された。人の日記を勝手に見ていることに対しては何の罪悪感もないらしい。

私はいつもひとりだった。飼育小屋の動物たちと、図書室の本だけが友達だった。


それでも私は学校を休まなかった。家にいると、勉強しないと親に怒られるからだ。学業でいい成績を残さなければ、親は私に何の価値も見出ださないと思った。
インターネットなど遠い未来の話で、近所にほとんど店も無いような田舎。勉強するには学校へ行くしかなかった。私の居場所は世界のどこにも無かった。

ひとりだけ離れて弁当を食べている社会科見学の写真がアルバムに残っている。この写真を見るたびに、周囲の大人は何をしていたのだろう、と他人事のように思う。
まったく覚えていないけれど、私は毎日「きょうもだれもあそんでくれなかった」と日記に書き綴っていたのだそうだ。親はそれを見ていじめに気付いたらしい。当時の私は親に学校の話をしなかったのだろう。

転校させる、と話をつけに行った親に、学校は「何とかするから転校は待ってくれ」と言ったのだそうだ。いじめは四年以上続いた。何とかしようとしてくれた形跡を私は覚えていない。何とかしようとしたのかもしれないけど、いじめは止まらなかったのだから、何もしなかったのと同じだ。学校も社会も、あの頃から何も変わっていないのだな、といじめやパワハラのニュースを目にするたびに暗い気持ちになる。

クラス替えが一度もない、田舎の学校。担任は2年に一度代わるけど、クラスメイトはずっと一緒。私の人生はもう何も変わらないと思っていた。死の概念を理解出来るようになってからは、早く自分が消えてしまえばいいのに、とずっと考えていた。未来も、希望も、私には無かった。


小学校5年生になり、担任が代わった。非常にパワフルで、ユニークで、情熱的な先生だった。
こんなクラスはおかしいと、先生は改革に乗り出した。もう一生変わらないと思っていた毎日は、突然変わった。いじめは、止んだのだ。

「生きているのか死んでいるのかわからないから時々確認しなくちゃいけない」と親が嘆いていたくらい大人しかった私は、弾丸のように喋っては大笑いする、別人のような子供になった。
たぶん、本来の私はそういう人間だったのだろう。今も、人懐っこいとも、人に対して壁があるとも言われるけれど、後者は小学生時代に作った人格のようなものなのかもしれない。

学校は突然楽しくなった。クラスの学力不足を嘆いていた先生の出す宿題の量は相当だったけど、喜んでやっていた。何か喋ると笑われたり、「あいつの出したアイデアが嫌だった」と遠回しに作文に書かれるようなことは無くなった。修学旅行も遠足も、ひとりぼっちになるようなことはもう無かった。

あの先生がいなければ、私は今こうやってnoteを書いていたかどうかわからない。冗談でも何でもなく、自ら人生を諦めていただろう。

周囲の大人は「何もしていない」と断言してもいいと私は思っている。それはこの先生の存在があったからだ。確かに大変なことだったかもしれないけれど、この先生がたったひとりでやり遂げたことがほかの大人には出来なかった、それは事実だ。出来なかったのではない、やらなかったのかもしれない。「助けてもらえなかった」という思いは、今もどこかで私に虚無感を抱かせているような気がする。


小学校を卒業する時に、先生は私に言った。
「あんたはよく勉強して、語学をたくさん勉強して、本を書きなさい」

本を書く人なんて選ばれた人だけだよ、そもそもうちは貧乏でそんな夢みたいなことは言ってられない、と安定したレールの上を歩こうとしていた私は、ドロップアウトを繰り返した挙げ句、物書きを名乗り始めてしまった。
こんなはずではなかったのだけど、こんなことになっているのは、先生の言葉がずっとずっと頭の片隅に残っていたからだろうと思う。

最近になって、この言葉の真意を先生に聞く機会があった。卒業してから初めて聞いた。ずっと聞きたかったのに長い間チャンスがなく、やっとその機会が訪れたのだ。

先生は私に言った言葉を覚えていた。私の日記を読むのが楽しみで、先生と生徒ではなくひとりの人間同士として読んでいた、子供のうちからこれだけ書けるならこの子は作家になると確信した、だからそう告げたのだと、話してくれた。

私の文章の特徴まで覚えていた。私は自分の気持ちをとても素直に書いていて、しかも誰のことも恨んでいなかった。ただ相手のせいにするのではなく、何故そうなったか、自分の気持ちはどうかということを丁寧に書いていたから読めたのだそうだ。その文章はつらい思いを抱えた人などにも届くだろう、そういったことを話してくれた。

何百人、もしかしたら何千人といる教え子の作文や日記をそこまで覚えているなんて、と私は驚嘆した。それと同時に、嬉しかった。私の文章を最初に「見つけて」くれたのは、たぶん先生だ。

自分でも不思議なのだけど、私は嫌な思いをした相手のことを本気で憎むことができない。一時的には憎みも恨みもするし、恐怖や許せない気持ちはどこかに残っていく気もしているけれど、本当に悪い人なんていないだろう、とどこかで思ってしまう。そうでなければいじめられていたクラスメイトと仲良くすることはなかったはずだ。いじめの悲しい思いや心の傷が消えたわけではないけれど、個人の単位での憎しみは残っていない。許さないことと、ずっと恨み続けることは別なのだろう。
それが文章にも出ていて、しかも先生が気付いたということにも驚いた。あんなに忙しかったのに、そこまで丁寧に読み込んでくれていたなんて。

先生は私がとっくに作家になっていると思っていたそうだが、実際には誰も読まないnoteを粛々と綴っているくらいのことだ。それでも、誰も読まなくても文章を書こう、書いていこうと思えるのは、先生の言葉が、12歳のあの日から先生の言葉が、私をずっと支え続けていたからなのだと思う。何度も何度もあの言葉から目をそらしたのに、結局戻ってきてしまった。


私の人生を変えた人。それは間違いなく、小学校の担任だった、先生だ。
私が今こうして生きているのは、先生と出会えたからだ。

この話は以前にも書いたことがあるけれど、先生の話を抜きにしてほかの話は語れないので、今一度綴ってみる。
先生、いつまでも元気でいてください。私は今も、先生が褒めてくれた、文章を書くことが大好きです。今度は、会えるといいな。


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