ターニングポイントのひとつめは冬の終わり、ふたつめは春の終わり

「あんたはたくさん勉強して、語学をたくさん勉強して、本を書きなさい」

これは小学校を卒業する時に、当時の担任が私にかけた言葉です。私はこの言葉が何故か忘れられず、「本なんて特別な人が書くんだから私にできるわけないじゃん」と生活を優先するために普通に働いていた時期にも、ずっとどこかで引っ掛かり続けていました。

引っ掛かり続けた結果、ブログやnoteを毎日のように更新し続けているのだと思います。
本を書く、とは職業作家という意味だろうとは思っていましたが、そんな芽が出るかどうかもわからない世界を目指す人間を支える余裕は私の家にはなかった。好き勝手している身内を私は苦々しく思っていたし、その気持ちはたぶん消えない。でも、本当に色々なことがあって、私は「普通になりたくて」走っていたレールを外れることになってしまった。その結果、始めたブログ。
本を書く代わりに、とにかく今ブログを書いているような気がします。職業とは呼べないかもしれませんが。


人生の様々なタイミングで、「自分はこの道を走り続けていいのだろうか」とふと立ち止まる度に、私は先生の言葉を思い返していました。
たぶん、この先生がいなかったら今の私はいません。正直、生きていたかどうかもわかりません。詳しくはこちらの記事を読んでいただければと思います。→「平成最後の冬までを語り続けて自己紹介⑥ ―嵐と熱意と約束と―

人生に躓く度に、悩む度に、私は先生と話がしたいと思っていた。何かが解決するわけではないけれど、たぶん何かが見つかるだろうと思ったのです。でも、卒業してから、大人になってから先生に会ったのは、とあるデパートの前ですれ違った時だけ。何故かずっとその機会はなかったのです。

しかし、私の置かれたあまりの窮状を知った同級生たちが、先生に繋いでくれたのです。先生ならいい知恵を貸してくれるかもしれないと。同窓会をやるから、とつい最近になって久しぶりに連絡が来たのは何かの運命だったのかもしれません。


電話の向こうの先生は全然変わっていなかった。お互いに言いたい放題だった小学生の頃のように話ができました。不思議な時間だった。もうとっくに小学生じゃないのにね。
本当はもっと相談したいことがあったはずだけど、私はいちばんに聞いてみたのです。卒業する時に、私に言った言葉を覚えているか、と。

すると先生は、覚えていたのです。覚えていたどころか、何故そう言ったのかを教えてくれたのです。初めて聞く話でした。いえ、もしかしたら当時も話してくれたのかもしれないけど、私が忘れてしまったのかもしれない。


私は、先生がそう言ったのは、私が読書好きな子供だったからだろうと思っていました。本を読むのが好きなら、書いたらいいんじゃない?という意味だと思っていた。でも、そうじゃなかったんです。先生は私の文章の特徴から、そう思ったというのです。

私の書くものには、一本筋が通っていたのだそうです。なおかつ自分の気持ちを、とても素直に書いていたと。
私はこの先生が担任になるまでの四年間ずっといじめに遭っていて、はじめはそのつらい気持ちを書いていた。けど、その気持ちがだんだん変化していく過程がとても素直に書いてあったのだと。気持ちが変化したのは、先生がクラスからいじめを根絶したからです。いじめやパワハラに本気で向き合って根絶した人を、私はこの先生以外に知りません。この先生に会ったからこそ、「見て見ぬふり」「見ているだけ」は何もしていないどころかいじめと同じだと気付いたのです。

私は10歳や11歳の子供だったけど、自分の気持ちを言葉にできていた。それだけでなく、私の文章にはこんな特徴もあったというのです。
私はつらい気持ちを書いていても、誰も恨んでいなかったと。誰かのせいにはしていなかったと。事実を書いて自分の気持ちを整理してはいても、経験したことから自分がどう考えたか、どう捉えたかを書いていたのだと。だから読めるのだと。

先生は、先生と生徒ではなく、人と人として私の書くものを読んでいた。ついコメントを書きたくなる文章だった。いいと思ったものはみんなの前でも読んでいた(※覚えてないです)。この年齢でこれだけ書けるなら、この子は作家になると思った。人が共感できるものが書けると思った。だから卒業する時に、そう言ったのだと。

皆さんも書いていたかもしれませんが、小学生の頃は毎日のように日記を書いて提出しなければならなかった記憶があります。日記というより、先生への手紙のようなものだったかもしれません。私の通っていた学校は田舎で、担任は2年に一度しか変わりませんでした。高学年の2年間を受け持っている間に、ずっと私の日記や作文を読んでいた先生は、もしかしたら誰よりもたくさん私の書いたものを読んだ人物かもしれません。もしかしたら誰よりも、私の文章を知っているのかもしれない。

でも、私はまったくその頃書いたもののことは覚えていません。本当にまったく覚えていないです。むしろ先生がそんなによく覚えていることに驚愕したのです。何十年も前の生徒の文章ですよ?さすが学校の先生だ、と感心しましたが、それにしても本人も覚えていないことをこれほど覚えているとは。


私にはもうひとつ驚いたことがありました。当時書いたもののことはまったく覚えていなくても、先生の話から想像できた。
私は小学生の頃から全然変わっていない。私の書くものの特徴は、今とまったく同じだと。自分で自覚していることと、こうしてブログやnoteに書くことでいただいたご意見やご感想とをあわせて考えると。

自分でも不思議なんですけど、どんなに嫌な思いをしても、その人にもう会いたくないし怖いと思っていても、私はその嫌な人を心底憎むことができないんですよ。自分の心は傷付いたし、人生がめちゃくちゃになってしまったことすらある。それでも、その人にはその人の意思や主張があるのだと思ってしまう。絶対悪だと思うことができないのです。
私が体験したことは、事実として書きます。それを書かなければ、私の感じたことが書けないから。事実を書いているだけで、誰かを糾弾する目的ではない。実質的にそうなってしまうかもしれないけど、本当に糾弾するつもりなら、名指しするか、そこまで行かなくてももっと具体的に書きます。

たぶん、私は子供の頃からいじめに遭ったり母親が悪口ばかり言う人だったりしたことから、「理不尽に他人を嫌う」という行為にとても抵抗があったのだと思います。話を聞いてももらえず、一方的に決め付けられることは本当に心を傷付ける。自分が嫌だったことを人にはしたくない。自分にも想いや意見があるように、相手にも想いや意見がある。話してみなければ、聞いてみなければわからない。それを想像してみると、本当にどうしようもない人って、たぶんほとんどいないんですよ。それと同時に、ほとんどの人が一歩間違えば、簡単にどうしようもない人になってしまうのです。
先生がいじめを根絶してくれたおかげで、同級生を誰も恨まずに済んだ経験が大きいのかと思っていたんです。心についた傷は消えないけど、でも個人単位で恨もうとはちっとも思っていない。しかし、先生の話からすると、私は恨んでいたかもしれない時期からそうだったようです。じゃあ、これはもう生まれもっての性格なのかもしれない。根本的に能天気でお人好しなのかもしれません。色々ありすぎて、警戒心が強くなっちゃっただけで。

それが文章にも出ていたことを見抜いていたとは。驚愕しかない。親や兄弟だってそこまで見ていないんじゃないか。間違いなく見てない。


私がもう作家になってるのかと先生は思ってたらしい。だから、私が「散々迷ったけど書くことを仕事にしようと思った」と告げると賛成してくれた。そうなるはずだと。でも全然駄目なんだ、どん底なんだと言うと、苦労もせず作家になった人間の書くものなんか面白くないだろうと。うっ、それはその通りだ…。
発信していれば(先生はインターネットはまったくわからないそうだが)、必ずわかってくれる人が見つかる。自分を殺して個性がなくなってしまったら面白くない。その個性が生きられる道が必ずあると。追い詰められてどん底を知ったから書けることがあり、どん底ならもうあとは上がるだけだと。

今までにも同じ事を話してくれた人はきっといると思う。でも「そうは言っても無理だよ」といつも思ってきたのに、先生の言葉はすうっと頭と胸に入ってきた。

色々な人に話も聞いてもらえずゴミのように切り捨てられて、もう私は何もかもを諦めるしかないと思っていた。牢獄の中で生きるしかないかもしれないと思い詰めていた。でも、どれだけ馬鹿にされてもいい。愚直でもいいから、書き続けていこうと、覚悟ができた。
自分の見たもの、聞いたもの、経験したもの。足枷のない世界で、自分が自由に受け止めたものを、自分の言葉で、自分の感性で、素直に書いていこうと。
先生が見つけてくれた私の個性を、本当にほんの少しだけど、これまでの人生で会ったこともなかった人たちが、同じように見つけてくれている。それは間違ってないんじゃないかって。

全然お金もないし、まともに仕事にもなっていない。お前は穀潰しでろくでなしで邪魔者だ、と言われたら本当にその通りかもしれない。私は間違ってるのかもしれない。このままだと死んでしまうかもしれないくらいだから。
それでも、私は私をちゃんと見つけてくれた人たちのことを信じたい。信じてもいいかもしれない、そう思えた。
これで良かったんだと。きっと、決断は間違ってなかったと思える日が来ると。

私の人生のターニングポイントは、間違いなく先生との出会いだったけど、もしかしたらもうひとつのターニングポイントが、訪れたのかもしれない。


私は書くことは好きだったけど、実は本当に個人的な日記の形ではまともに続けられなかったんです。日記をつける習慣がある人はすごいと思っちゃう。でも、先生という読者がいる形での、宿題としての日記なら書けていた。むしろ喜んで書いていたと思う。だって先生という読者が必ずいるもの。私は先生に面白いと思ってほしくて書いていたような気がする。たったひとりでも、読んでくれる人のために、その人に面白いと思ってもらいたくて書く。その気持ちも全然変わってないな、と思ってしまった。だから、とにかくブログという形をまず選んだんだろうな、と。

私が夏の同窓会に来られるように、お金が何とかなるように、同級生たちは信じて待ってくれるらしい。会いたい、と言ってくれる。同窓会には先生も出席する。私はみんなに会いたい。先生に会いたい。今はそんなの絵空事だけど、私とみんなの願いが叶うことを信じるしかない。
誰かが振りほどいた私の手を、誰かが繋ごうとしてくれる。いつもギリギリだけれど、誰かが助けてくれたから、私は生きてこられた。その誰かに巡り会うこと、たぶんそれを、運命と呼ぶのだと思う。


この文章は自分の記憶を書きとめるために書いた自分のための文章だけど、私を切り捨てた人にも、読んでもらえてたらいいなと思う。そんなことは、ないと思うけれど。あなたがもう私を信じてくれなくても、私は自分を信じよう、そう思う。

これを読んでくれたあなたが、ほんの少しでも面白いと思ってくださったなら、私は何よりも嬉しいです。


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