春は来て、そしてまた春へ

本日は私がnoteと並行して更新しているブログ「うさぎパイナップル」から、フィギュアスケートに関する記事をピックアップしての再掲記事。時々掲載していたので、ご覧になった方もいらっしゃったかもしれません。

ただし、今回は少し趣向を変えてみます。過去に書いた、羽生結弦選手のエキシビションプログラム『春よ、来い』を見ての感想文を時系列で並べて比較することで、羽生選手の演技の変遷を考察してみようと思います。

あくまで私の個人的な感想であり、しかも相当ポエムが入っておりますが(汗)、これまでの演技を順番に振り返ると羽生選手という幻の桜が日本の春に確かに咲いていくまでの過程が見えるような気がして、自分の記憶をたどって確かめるためにも実行してみました。皆様の記憶にある羽生選手の『春よ、来い』を思い出しながら読んでいただければ幸いです。

感想は元の記事の一部を抜粋しています。抜粋はしておりますが、特に文章に変更は加えておりません。

①Fantasy on Ice 2018 in KOBE

ピアニストの清塚さんとのコラボ。ピアノソロの『春よ、来い』。松任谷由実の名曲ですね。
ピンクが少し入った白い衣装。パンツは黒。腕は少し長めの薄くひらひらとした布がついていて、照明が入る前の暗がりの中でひらひらとたなびくそれは、まるで夜の海をぼんやりと泳ぐ海月の姿のようで、とても幻想的でした。

まるで桜の精みたいだった。とにかく儚い。過去最高に性別がわからなかった。この曲はイントロが白眉で、こぼれるようなピアノの音からリンクに桜が舞い散っていく。その音が羽生君の腕に絡み付き、夏の夜に満開になる幻の桜のように、一瞬だけこの世に儚さが舞い降りてくる。
あまり長くないプログラムなのだろうが、本当に束の間の夢のようだった。顔が氷につきそうなくらい低いハイドロは、そのまま彼の体が氷に吸い込まれていってしまいそうだった。あの世とこの世の境界線が、白い氷に引かれているかのようである。

元の記事→「Fantasy on Ice 2018 in KOBE 雑感③」(2018年6月29日掲載)


②Fantasy on Ice 2018 in NIIGATA

プログラムは清塚さんとのコラボによる『春よ、来い』。神戸の演技とも静岡の演技ともまた印象が違って、桜の花びらを青空いっぱいに両手で振り撒いていく、蒼い春風のようだった。春風の浮かべる笑顔は、少年のようでもあり少女のようでもあり、瞬きをする間に駆けていってしまうのに、ふわりと風の匂いだけが残っているような、確かに此処にある幻だった。薄紅と蒼の混ざり合った、一瞬だけ頬をすり抜けていく幻。
なんというか、山岸凉子の『日出処の天子』の厩戸がひん曲がらずに育ってたらこんな風だったんじゃないかなあ、なんて思いました←意味不明←でも羽生君って江戸時代と言うよりは古代とか平安じゃない?←だから何だよ

元の記事→「Fantasy on Ice 2018 in NIIGATA 雑感」(2018年7月28日掲載)


③Fantasy on Ice 2018 in SHIZUOKA

清塚氏コラボの『春よ、来い』。神戸公演の演技はひたすら儚かったけど、今回は、実体のなかった幻の桜がはっきりと現世で姿を結び、青空の下に咲き誇った、という印象を受けた。そして、競技者・羽生結弦が戻ってきたのだとも。


元の記事→「Fantasy on Ice 2018 in SHIZUOKA 雑感②」(2018年7月15日掲載)※掲載日は逆ですが、ショーの日程は静岡が後なのでこの順番での掲載


④グランプリシリーズ2018 ヘルシンキ大会・エキシビション

オリンピック後の、少し燃える炎が鎮火していた羽生君の演技は、月夜に一晩だけ咲く幻の桜のようだったり、青空に花びらを巻き上げていく少年の笑みをたたえた風のようだったり、どちらかと言うとどこか儚かったんだけれど、今日の『春よ、来い』は彼の「負けたくない」という気持ちがそのまま残っている演技だな、と感じた。あの鬼のような難易度のフリーを演じてからそれほど時間も経ってないし、切り替えるのも難しかったかもしれない。

ピアノの音の強弱もそのままブレードの上に落とし込んだような、絶対に春は来るんだと信じて果てしない雪原から桜の園へ駆け出していこうとするような、これまでに見た中ではいちばん「強い」春よ来い、だった気がする。織田君が解説していたように、リンクが広いからこそ出せるスピードがまたプログラムにヴァリエーションを生んだのかもしれない。

誰もそんな話はしてないと思うんだけど、このプログラムには空を覆いつくす満開の桜の姿が見える。いつもそんな気がする。だけどいつ見てもその桜の姿は違っていて、羽生結弦という人の世にもたらされた桜の神の気まぐれ次第、という感じがする。次に披露される時もきっとまた全然違う『春よ、来い』なんだろうな。

ところで、今シーズンの羽生君のプログラムは、ショート、フリー、エキシビションの3つでひとつの流れを作っているような印象を受ける。単純にフィギュアスケートのシーズンを表していると考えてもいいかもしれないな。秋に本格的にシーズンインして冬にかけて激戦が繰り広げられて、春先に「また来年」と締め括られていく、フィギュアスケートのシーズンの繰り返し。それをショート、フリー、エキシビションの一連の流れの中に見ると考える。そしてまた次の試合でそのサイクルが始まるのだと。羽生君は今シーズンもそのサイクルの中にいるんだなあ、って改めて幸せを噛み締めてしまう。
また別の解釈をすれば、心の死を呼ぶ絶望的に美しい少年(滅びの序曲)→魔王大降臨(世界崩壊)→春を呼ぶ桜の神(世界再生)、みたいな流れにも思える。まるで神話。ついに神話の世界の人になってしまわれたか感。まあ、全部勝手な妄想ですけどね(笑)。
何にしろ、「美しい羽生君」「俺様な羽生君」「そもそも人間なのかどうかを疑う羽生君」という夢の豪華三本立て。最高過ぎ。はあああ試合行きたいいいいいいい←今のところ私がチケット取った試合はもれなく羽生君が欠場しており恐ろしくて申し込みすらできない昨今←その前に諭吉が滅亡してる

前にも書いたことあるけど、羽生君にこの曲で滑って欲しいなあ、と色々妄想してきた(笑)中でも相当ガチで思ってるのが、宇多田ヒカルの『桜流し』だったりする。でも桜っぽいプログラムはここで滑っちゃったからもうないだろうなあ、と切なく思っていたりして。いや、完全に私の妄想なんでいいですけどね(笑)。

元の記事→「グランプリシリーズ2018 ヘルシンキ大会 雑感⑥」(2018年11月12日掲載)


⑤世界選手権2019・エキシビション

日本で、春先に、桜の季節に開催される大会のエキシビションとしてこれ以上ふさわしいプログラムはないかもしれない。そのためにファンタジー・オン・アイスでこれを選択したのかと少し思った。
テレビ放送は羽生君がトリだったんだけど、どうせ録画放送だしそれで正解だったと思う。花びらを撒き散らしながら去っていった春風の余韻の中で、人はすぐそこに迫った春に、ほころびかけた花の季節に想いを馳せるのだ。それはまだ来ぬ春を待ち望む人々への希望でもある。5日間の熱狂は醒め、日々は現実に還る。その毎日に、余韻のように希望が残る。そのために、このプログラムはこの日に演じられるよう、神が筆を走らせたのだと思うから。

ショーのテレビ放送を見るたびに、演技から感じる印象が違ったのだが、今日この場所にいる「春」は、羽生結弦そのものなのだと思った。氷の中に眠らせてきた炎は黒く蒼く燃え上がり、羽生結弦として春浅い桜の国に再生したのだ。競技者・羽生結弦が。
ハイドロは過去最高に美しかったのでは…。ちょっとゾクッとした…。「耽美なハイドロ」という新ジャンル…←混乱

ほんの1日前、氷の大地を支配した漆黒と金色の魔王が、今日は頬を薄い桃色の春に染める少女のように、儚く繊細に佇んでいる。あの狂気じみた鬼の眼差しは、柔らかな光の宿る漆黒の瞳に変わっている。まるで別人だ。
これだけ表現に差をつけられるのが、羽生結弦の最大の魅力かもしれない。

すごく上手いけど、曲と振付を変えただけで、何を滑ってもあまり差がない、という選手は正直なところかなり多いと思う。得意なジャンルや好きな曲調を選ぶのは大切なことでもあるが、そればかり続くとよほど演技が好みでもなければ印象には残りにくい。
羽生君にも得意なジャンルはあると思うしそれを中心に選んでいると思うが、秋の街角ですれ違った、手に入らない美少年の冷たい横顔のようなショート、大地に赤く溶岩の流れる魔界の扉を開け放って降臨する、死を司る王のようなフリー、そしてこの、春の夜にぼんやりと浮かび上がり、闇にその薄い色の花びらを散らす桜のようなエキシビション。今シーズンのプログラムだけでもこれだけ違う。フィギュアスケートの楽しみ方は人によって様々で、見るポイントも異なると思うけど、技術的なことは何もわからなくても、物語や情感を演技から読み取れるということは、フィギュアスケートや舞踊の類に興味のない人にも足を止めさせる力を持つ。そしてそれは、意外と誰にでもできることではないようだ。

私は非常にセンチメンタルな人間なので(中二病とも言う)、たぶん自分の感性にフィットするんだろうな、と思っている。これまで好きになったスケーターのうち、3人だけ挙げるとしたらヤグディン・ステファン・羽生君だけれど、おそらく私の好みの傾向としては同列だろうと考えている。私がそう思うだけの話です、念のため。

…はあ、このプログラム、生で見たかったなあ(泣)。ここから再スタート切りたかったなあ…。羽生君の演技は、時に折れた心にも寄り添うのだ。そう、希望の光として。


元の記事→「世界選手権2019雑感⑳」(2019年4月11日掲載)


⑥総括

以上です。厳密にはショーは各公演ごとに複数回行われるため、羽生君の演技も収録日以外に披露されたものは少しずつ内容や印象が異なるだろうと考えられますが、会場に足を運んでいないのでそこまで把握はできず、視聴する事のできた放送の演技のみで比較します。

最初の披露となった神戸公演ではひたすら儚い印象でしたが、シーズンインが近付くにつれ競技者としての彼の本能が顔を覗かせ、おそらく当面は最後の演技となるだろう(またアイスショーなどで滑る機会はあるかもしれませんが)世界選手権のエキシビションでは、完全に「羽生結弦」として一体化した、満開の桜が目に浮かんでくるような気がしました。

春の闇夜に儚く開いた桜の花は、夏の情熱に戯れ、秋の風に睫毛を伏せ、その薄紅を冬の氷に眠らせる。そして最後に「羽生結弦」として、競技者・羽生結弦として彼の生まれた国で再生するのだ。彼自身の、そして我々の、希望の花が咲くように。

オータムクラシックまで競技用のプログラムの全容はハッキリしていなかったため、ショーの感想には記述がありませんが、2018‐19シーズンの羽生君のプログラムは、3つあわせてひとつの流れがあるように感じていました。そのあたりの考察についてもカットせずに掲載しています。もちろん、あくまで私の解釈です。

2019‐20シーズンも試合で彼の演技が見られる喜びを噛み締めながら、もうすぐやってくる新シーズンも、ポエム…もとい(笑)、魂を込めた記事を綴っていこうと思っています。

このように、フィギュアスケートの記事は相当気合を入れて書いております。フィギュアスケートについては主にはてなブログで綴っておりますので、ご興味のある方は目を通していただければ幸いです。
以前は毎日更新していた「うさぎパイナップル」とこの「うさぎパイナップルnote分室」ですが、現在は曜日を決めて交互に更新しています(日曜日はどちらかを臨機応変に更新)。両方あわせて楽しんでいただければ、とても嬉しいです。

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