走り書き ※加筆修正済

私はフィギュアスケートのファンでいるにあたって、ひとつだけ心に決めていることがある。
それは、競技そのものに敬意を払うことだ。

どこの世界もそうかもしれないが、フィギュアスケートにはアンチが多い。大抵はとても好きなスケーターがいて、その人を絶対視している。その人にまつわることなら何でも肯定するし、その人を褒め称える人はすべて味方だと思っている。そのスケーターが地球を滅ぼしても、あの子は悪くないというだろう。

これは愛ではない。執着であり、盲目である。

彼らにとって、大好きなスケーターを不利な状況に陥らせるものはすべて敵である。少しでも気に入らないと敵視する。
テレビ局や出版社、連盟、ライバル、関係者、ジャッジ、ありとあらゆる人間や団体を責め立てる。事実かどうか確かめられる立場にない者がほとんどであるが、事実かどうかはどうでもいいらしい。
だって、彼らは「大好きな人を守ってる自分」に酔えれば、何でもいいのだから。スケーターのことなど実はまったく見ていないのである。

極端な書き方をしたが、程度の差こそあれ、こういう心境に陥ったことのある人は多いのではないか。スケート以外の分野でもよくあることだろう。だが、「○○ファンは怖い」と言われる要因はそこだと思う。妄想が激しすぎる。妄想を妄想だと気付ける、客観的視点にあまりにも欠けている。

こういった心境には簡単に落ちてしまいやすい。だから私は鉄則として決めた。
よっぽどのことがない限り、競技を成立させる要因を信用すること。好き嫌いや、個人的な感情とは別に、それを大原則としようと。

連盟がいなければ試合も開催されない。選手の強化もされない。テレビ局がなければ試合の放送はない。出版社がいなければ記事や写真を拝めない。
その事に思いが至ることない人間に「公平な視点がある」と言える根拠は何だろうか?そんなものはない。

おそらくもっとも多いのが、採点への不満だろう。

私にも「何で?」と思うことはある。ごく一部の人と疑問について語り合うことはある。でも、表だっては言わない。言うまいと決めている。だって私は素人だから。私が採点に疑問を持ったところで、それは単なる好き嫌いからの感情でしかない。まったく正確性はない。

フィギュアスケートはスポーツである。スポーツは、競技はルールに基づいて行われるものだ。そうでなければスポーツとして成り立たなくなってしまう。
スケートに限らず、スポーツにはよく意義がわからないと感じるルールもあるし、審判が間違っていると思うこともある。審判のミスで取り返しのつかない事態になってしまう場合がないとも言わない。実際に起きてもいる。
特に、フィギュアスケートは採点競技である。ゴールに入れば点が入る、というわかりやすい競技ではない。見ている側の主観が入りやすいので、疑問に感じる人が多いのはわからないでもない。

だからこそ、ルールや採点は不可侵の領域として踏み込まないように徹底しなければならない。フィギュアスケートは芸術ではない。芸術性の高いスポーツである。勝ち負けを決めるためにやっている。勝ち負けを決めるためには、その基準となるものが必要だ。それがルールであり、ジャッジだ。自分が好きだからこの人が優勝、という主張は通用しない。
自分が好きなスケーターが評価されれば文句を言わないのに、評価されなければ文句を言う。その基準は何だ?個人の感情だろう。それはそれで大切なものだ。でも、個人の主観でしか語れない者が、ジャッジに難癖をつける権利があるだろうか?専門知識がないから個人の主観でしか語れない、という声もあるだろう。それは正しい。専門知識がないのに、ジャッジに判断が間違っていると言える根拠は何だ?矛盾している。

どんなに納得いかなくても、まず受け入れる。そのまま受け入れる。それと自分の主観とは別に置く。それを徹底しなければ、スポーツとして楽しめない、と私は思っている。

原則を厳守した上で、自由に感じ取るのは構わないと思う。むしろ、自由に感じ取るために原則を厳守する。そういったことから解放されたければ、アイスショーに行けばいい。自分の感性で評価しても誰も文句は言わない。
でも、ルールの中で戦うことを選んでいる選手に、ルールがおかしいだの採点がおかしいだの言うことは、選手の努力への否定ではないのだろうか。採点がおかしいだけであなたは本当は素晴らしいのよ、とファンに言われて喜ぶような選手ではそもそも勝てないのではないか。そしてたぶん喜ぶ選手なんていない。純粋に好きだと言ってもらえることに対しては喜んでくれると思うけど、連盟やジャッジなど、自分たちを支えている存在を否定してかかるような人に褒められても、嬉しくはないのではないか。自分が好きなものに、人生をかけて向き合っているものに対して悪口を言われて、気持ちがいい人間なんているか?

1位だろうが100位だろうが好きなら粛々と応援すればいい。でもその人が勝てないことを外的要因に求め、その人のせいじゃないとすることは愛じゃない。しかもその外的要因に、技術的な知識の話ではなく、たとえば国の話を持ち出し国のせいだとすることは、話が歪んでしまっている。

外野がごねれば判定が変わるようなことは、本来あってはならないのだ。ごねれば判定が変わってしまうなら、スポーツとしての大前提が崩れてしまう。そんなことにファンが加担すべきじゃない。
スポーツをスポーツとして楽しむために、ファンにも守るべきルールがある。それを踏み越えてはいけない。私はそう思ってる。

そして、競技に興味が持てず敬意も払えず、ただ好きな誰かに固執したり過去ばかり懐かしむようになれば、潔くファンであることから退こうと思ってる。何故なら、そういう人間は強烈なアンチと化することがあるから。もしこういう傾向が自分に強く表れ始めた時は、注意してもらえたら嬉しい。

こう考えるようになったのには理由があるのだけど、今回は割愛する。いつか、ちゃんと書こうと思っている。そのことを含めて、書きなおそうと思っている。

自分と考えの違う人をねじ伏せたいわけでも、責めたいわけでもない。これが正しいとも思っていない。考え方は人それぞれだ。ただ、一度自分の考えを整理して、書いておこうと思った。
大好きな人にはいつでも頭の中でフルに加点をあげたらいい。私もいつもあげている。でも、「それとこれとは別」。勝負の世界は勝負の世界として厳粛に存在し、それは大前提として尊重すべきだと思う。
大好きです素敵です、と言うことは我々ファンにもできるし我々ファンだからできる。でもそれ以外はできない。たぶん、するべきじゃない。
たとえ間違っていても、声の大きな人の言うことがおかしな方向へ広がってしまうことがある。声の大きい人の言葉を、悲しく苦しく見つめることも多い。声の大きい人にならないためにはどうすればいいのか、私なりに考えて意識している、というだけの話だ。大好きです、と言うために。
ブログをやっている以上、誰かが自分の考えを曲解するかもしれないし、あまり深く考えない人に「これが正しいんだ」と正しいとは言えないかもしれないことを思わせる可能性はある。どうしようもない時はあるけど、そうならないために、できるだけフラットでいようと思っている。どうしてそうなるの?というファンに実際にたくさん出会ったからこそ、慎重になっている。みんなで楽しみたいからこそ、慎重でいたい。

とりあえず、走り書きです。深夜だし誰も読まないからね。

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