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スーパーマンじゃないおかあさんだから

持病を持つ息子を生んで、一足先に退院したとき実母にこう言われた。
「困ったらいつでも言ってね。できることは何でもするし、できないことは何もやらないから。」
ふつう「できることは何でもする」で止めとくんじゃない?とも思ったが
母なりの気遣いだということはわかっていた。

親子って不思議なもので、お互いにお互いが幸せじゃないと幸せじゃない。
私は困ったときに母が助けてくれたとしても、それが母の幸せを犠牲にしたものだったとしたら私は100%幸せにはなれない。
母はそんな私の気持ちを知っていて「できないことはやらない」をわざわざ付け加えたのだろうと思った。

そんなことを思い出したのは今日の午前中、
息子のことで悩んでいたのがきっかけ。
息子の発達支援について先生からの何気ない一言を引き金に
ぐるぐる考えが止まらなくなってしまっていた。

息子は「きこえとことばの教室」の先生が大好きだ。
だけど「きこえとことばの教室」は常時混んでいて、1人1時間。
だから、息子の発達支援のメインにすることはできない。
そうなると療育に頼らざるを得ないが、息子はどうも療育があまり好きではないようだった。

これだけ整理して書くと、
「そうは言っても発達のこと考えたら療育メインの今がベストだよね」
と思うのだが、私の罪悪感やコンプレックスが加わるからややこしい。

「きこえとことばの教室」は不便なところにある。
住宅街の中にある細くごちゃごちゃした道を通らないといけないし
駐車場も小学校だからないに等しい。
毎回停める場所が変わって、運転が苦手な私からしたら
「今日は停めれるかな?」「停めれたけど帰り出せるかな?」と
胃がきりきり痛むくらい悩ましいのだ。

だからその憂鬱がどうしても「きこえとことばの教室」の優先度を下げている。それはたぶん、事実としてある。
だって療育は家まで送迎だ。しかも9:00から16:00まで預かってくれる。
その間私は自由で、仕事し放題。「きこえとことばの教室」と比べると、療育のときの私の負担ははるかに軽い。

こういう図式だからどうしても
「息子の気持ちよりも私の気持ちを優先している」みたいな罪悪感が
じわりじわりと私を蝕む。そして凹む。
ここを切り離しても結論は変わらないのだから気にしなきゃいいのに
どうしても凹んでしまう。

ずぶずぶと沼にハマるようにいろんな考えが浮かんでくる。
「運転が上手なお母さんだったらこんなこと思わなくて済むんだろうな。」
「仕事をしてなかったらもう少しきこえとことばにつれていこうって思えるのかもしれない。」
「夫にもっと心置きなくお願いできたら」「実家が近かったら」
「きこえとことばの教室の近くに家を建てれば」
どれもくだらないタラレバで、これまで思考に思考を重ねた現状がベストなのはわかりきっている。
「家を建てるときにはきこえとことばの存在すら知らなかったじゃん」
「夫はこの土地でやりがいのある仕事してばりばり稼いでくれるのが一番でしょうよ。」
「私がもし仕事してなかったらもっと子供のことで右往左往して病んでたに決まってる」
「運転はもうしゃあない!下手なもんは下手だし、事故起こす可能性が減ることは悪いことじゃないっつーの!!!」
と、反論できるようになるまでは半日かかった。
けど、お茶したり図書館行ったり野菜食ったりして何とか立ち直ってきた。

で、思い出したのが冒頭の母の言葉である。
私の母もいろいろ苦手のある人だったが、それに子どもである私が
不満を抱えていたかどうか正直あまり思い出せない。
とりあえず、母はいつも楽しそうな人だった。
私のことをとても愛してくれていたけど全部私に捧げたりはしてなくて
「できることはするけど、できないことはしない」
それが母のスタンスだった。

息子にとって、きっと「きこえのことばの教室」に1日いけないよりも
母が眉間にしわをよせてイライラして過ごしている方が嫌に違いない。
安心できる「家」にはダメダメでもへらへら楽しそうな母が必要なはずだ。
これは息子だけじゃなく、娘にとっても、夫にとっても。

私はスーパーマンじゃない。
できることはやるけど、できないことはできない。
運転苦手で、気軽にいろんなとこ連れていけなくてごめんね。
お仕事してていつもべったりはそばにいれなくてごめんね。
でもそのぶん絵本いっぱい読むし、おいしいものいっぱい作るよ。
いっぱい質問に答えるよ。同じ質問でもイライラしないで、何度でも。

さあ悩むのはおしまい。
今日はとりあえず、息子が大好きなレンコンハンバーグ作ろう。



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