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のんびり史跡訪問 江戸城本丸跡

大手門(三の丸大手門)

江戸城は、江戸時代と呼ばれた徳川幕府将軍家であった徳川家の居城であり、徳川幕府の中央政庁でした。
現在は皇居として、天皇陛下のお住まいであります。
かつては、武蔵国豊嶋郡江戸にあった江戸城、別名を千代田城ともいいます。

本丸前にある百人番所
天守の代わりだった富士見櫓

長禄元年(1457年)に麹町台地の東端に太田道灌(おおたどうかん)によって建てられた平山城(ひらやまじろ)に始まります。
徳川家康が江戸に入封してからは、度重なる普請、拡張工事が行われ、日本最大の城郭になりました。
現在の外堀通りから、墨田川(大川)や東京湾を自然の要害とした部分からが江戸城の縄張りです。
ここで、徳川将軍十五代に渡り政務を執り行って来たのです。
但し、十五代将軍徳川慶喜公は征夷大将軍となって以降、一度も江戸城には入城しませんでした。
将軍としての執務は、そのほとんどを京都の二条城で行っていたそうです。

松の大廊下跡に残る案内板

大奥などで繰り広げられた愛憎劇、開かずの間伝説とそれにまつわる将軍の不審死、五代将軍徳川綱吉暗殺事件など、現代に語り継がれる有名な事件の舞台も、いまは夢のあと。
松之大廊下があったであろう場所に、小さな石板が残るのみです。

江戸城天守台

江戸城の天守閣ですが、勿論現在は存在しません。
というより、江戸時代も初期の頃からとっくにありませんでした。
江戸城が建造された当初、慶長十一年(1606年)より着工された初代天守閣は5重とも7重とも9重ともいわれた大きなものだったそうです。
大阪城や名古屋城の天守より大きかったそうですから、そのスケールたるや相当なものだったでしょう。

その後、度々火災や落雷によって焼失し、慶長(けいちょう)、元和(げんな)、寛永(かんえい)年間にそれぞれ3度築かれていますが、明暦(めいれき)の大火(明暦三年(1657年))の大火によって焼失して以降は、再建計画はあったようですが、天守の再建よりも江戸の町の復興の方が先だとする保科正之(二代将軍徳川秀忠の子、三代将軍家光の異母弟)の意見により中止され、現在に至っています。
城郭における天守閣の必要性に対する疑問を投げかけたともいわれています。
かくして、本丸跡には天守台が残るのみというわけです。

ちなみに、天守閣無きあとは、本丸に現存する富士見櫓(ふじみやぐら)を天守の代用としてきたのだそうです。

江戸城本丸御殿跡

また、同時に本丸御殿も約5回に及ぶ火災で焼失し、最後の文久(ぶんきゅう)三年(1863年)の火災で焼失して以降は再建されず、本丸の機能は西の丸に遷されました。
つまり、文久年間以降、こちらも既にさら地だったのです。
歴史好きにとっては、とても拍子抜けしてしまう話ですね。

長谷川平蔵も、旗本だったので江戸城には出仕していました。
江戸城の荒れ果てた本丸の風景を見たであろう平蔵も、さぞがっかりしたことでしょう。
ちなみに、長谷川家は四百石の旗本ですからお目見え以上(将軍に拝謁できる身分)であり、しかも役付きだったので江戸城への出仕もありました。
江戸城への出仕は、基本的に午前中だけでした。
江戸城内で勤務する文官の日々の勤務時間も午前中までだったのです。
御家人はお目見え以下だったので、将軍には拝謁できませんでした。

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