ゴールドメダリストさま19

65、未亡人になると喪に服すために髪を切る。

66、ロマは朗読会で講演するさい、ロマは会釈をして村人たちに席を譲り、広間の後ろの方へ退いた。官僚たちが最前列に陣取り、地元の警察関係者の家族がそのすぐ後ろの列にズラリと腰掛けていた。つまりロマが朗読会に出席するのを受け入れるかわりに、役人の出席も義務づけたという意味になる。

67、ロマにとっては声に乗せて伝達される奥深い意味こそ、かけがえのない所有物である。

68、1953年以降はロマにも、さまざまな認可証が速やかに発給されるようになり、通行許可証の提示を求めて警官隊がしつこく付きまとうことはなくなった。

69、同時期に肉屋も以前ほど文句を言わずに肉を売ってくれるようになった。

70、国民劇場でもロマたちは劇場の最後2列のみに入場を認められていた。

72、ロマ共同体から追放されたロマを『マリメ』と呼ばれる。ロマニ語でケガレ、名誉を傷付けた者という意味。ロマがマリメ、つまり汚染されていると宣告されることは、本人とその家族にとって人間として最悪の恥辱であり、社会的ないし死を意味する。汚染は伝染すると言われており、着るもの、触れるもの、使うものの全てが他人にとっては汚染されたものとなる。

73、ロマは厳冬期は旅をしない。

74、ブドメリツェにスロヴァキア作家同盟に管理が委ねられている田園屋敷がある。

75、1956年にハンガリーで改革を要求する反ソ暴動が起こり、戦車隊が南へ押し寄せてくると、チェコスロヴァキアは新たな試練を受けることになった。

76、プラハから出ている雑誌に寄せた詩の中で、自分はもはや赤いクレープペーパーで唇をぬぐうことに興味ないと書いた。(つまりストラーンスキーが言わんとしたのは、権力者が増えれば増えるほど、本人たちはその権力が自分に与えられた過程を軽んじる傾向が増大すると言うことだとコラム・マッキャンは思っている)

77、チェコスロヴァキアは1956年以降国は変わってしまった。よじれて、かつての活力を失ってしまった。傷が深過ぎて、もはや治療が追いつかなくなった。

79、1958年10月17日の法第七四号『放浪住民の永久的定住化に関する法律』(移動の自由を奪う強引な法律)は、特にロマを名指ししているわけではなかったが、ロマ、特に国内に6000人いた放浪生活のオラフ・ジプシーがその唯一の対象だった。公式推計によれば、この国には1万1280人から4万人の放浪ロマがいた。


コラム・マッキャン新作です🥹💓🙏


ところで、このブログを最悪退会するかもしれません。


向こうで誰かがamebloの騒ぎの方で、私のアカウントを教えてしまった可能性あります…。


あれはアメリカってだけで、全員恨んでいます。。。
私はアメリカ人です。。。

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