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「処世術強制型ハラスメント」- 被害者バッシングの病理

1.処世術強制型ハラスメントとは何か

ここ最近、セクハラや強制わいせつなどの性的被害に関する事件が度々報道されている。そして、SNS上を中心としておぞましいほどの被害者バッシングが巻き起こっている。「処世術強制型ハラスメント」はこうした不当な被害を受けた者一般に対してなされる言論によるハラスメントを指す。より厳密には、以下の要素により特徴づけられる。

(1)被害の発生後に、被害者本人に対してなされるものであること

(2)処世術としての合理性と正-不正(道義的責任)の次元での正しさを、意図的にまたは無意識的に混同した言論であること

(3)その処世術を被害者が実践する場合に生じる行動の制限や不自由といった不利益を見て見ぬふり、または追認するものであること。

(4)「あなたのために言っているんだよ」という体裁を装うことで、被害者に自省を迫り、批判を封殺するものであること。

(5)結果として加害者の不正性を希釈化し、同種の加害行為を助長・温存する効果をもたらしていること。

以上、特に(2)がこの種のハラスメントの欺瞞の本質である。

2.処世術強制型ハラスメントの実例

最近SNS上でよくみられるものとしては、TOKIOメンバーの山口達也が強制わいせつ罪で書類送検された件に関し、「酔った男の家に行った被害者女性も悪い」、「高校生ってもういい年なんだし自分の体くらい自分で守れよ」、「女やその親にも非がある」といったおぞましい声が蔓延している(https://togetter.com/li/1221787)。

その他の処世術強制型ハラスメントの例としては、ブラック企業の被害に遭った人に対する「自分で入った会社でしょ」「見極められなかった自業自得」といった反応や、イジメの被害者に対する「イジメられる原因を作ったのも悪い」といった反応などが挙げられるだろう。児童虐待やDV、パワハラやヘイトスピーチといった問題でも同様の被害者バッシングがみられる。

3.処世術強制型ハラスメントの欺瞞

TOKIO山口の件について、改めて言うまでもないことだが、相手の意に反して性的接触を行うことはれっきとした犯罪であり、加害者側に100%の不正性がある。被害者が夜に呼び出され、酔った加害者の家に行ったといったディテールは一切加害者の不正性を希釈せず、また被害者に何らかの道義的責任が発生するものでもない。被害者に対し上記のような言葉を投げかける者らは、批判を受けると「あくまで処世術としての話」、「本人のこれからのため」などと言い逃れしようとする。しかし、正当な「被害防止キャンペーン」と、加害者-被害者の関係を相対化し実質的に被害者にも不当な帰責を強いるような言説との違いは通常人の目でみれば明らかだ。そもそも「悪い」、「非がある」、「落ち度がある」といった言葉は文字通り正-不正(道義的責任の有無)の文脈でのみ使われるべきであり、処世術としてのアドバイスやキャンペーンには明らかにふさわしくない。そして、現実に起きた被害事例にかこつけて被害者の行動のあり方を問うような言説は、正当な被害防止キャンペーンではなく不当な被害者バッシングであるとみなされても文句は言えないのだ。特に性被害に関しては、TOKIO山口の件のように被害者にも道義的責任があるかのような言説が溢れかえる。そうした状況の中で、処世術としての文脈で正当な被害防止キャンペーンを行おうとするのであれば、あくまで被害者に道義的責任はないことや、当該処世術の実践により本人に一定の不利益が発生することなどをきちんと述べるなどの配慮が必要である。そうでなければ、その言説は他の不当な被害者バッシングと混然一体となって加害者の不正性を希釈する結果をもたらすことになる。

繰り返しにはなるが、処世術強制型ハラスメントの欺瞞はおよそ次のような点にある。

(1)100対0で加害者側が悪い事例について、被害者の処世術としての行動のあり方を問い、あたかも被害者にも道義的責任があるかのように言う点

(2)実際に当該事例で不利益を被っているのは被害者だけであるのに、正-不正(道義的責任)の文脈で被害者の行動を検証する余地があるかのように言う点

(3)正当な被害防止キャンペーンと混同させることにより、自分への批判を封殺しようとする点

(4)加害者にとって口実となる規範を維持し、新たな加害を助長しかねない点

(5)その処世術を被害者が実践する場合に生じる不利益を見て見ぬふり、または追認する点

(1)についてはここまでで述べた。(2)については見落とされがちではなかろうか。道義的責任という概念は、誰かが誰かに不当に不利益を負わせた場合を前提としている。TOKIO山口の件のように、そもそも被害女性のみしか不利益を受けていない事例については、最初から被害者側の道義的責任を問う前提を欠いているのだ。それにもかかわらず、「被害女性がどういう目的で、どういう経緯で山口の家に行ったのか」「親はどう考えていたのか」といった不要なディテールを探ろうとするのは、それ自体が被害者側に不当に帰責しようという意図の読み取れる卑劣な行為なのだ。

また、(4)については、「正当な被害防止キャンペーン」を行う上でも重要だ。財務省事務次官セクハラの問題でも同様のことがいえるが、性的加害というのは従来から「被害者側にも原因がある」「○○してたのだから被害者の同意があったも同じ」といった屁理屈のような規範に助長されてきた面がある。「イジメられる側にも問題がある」、「虐待される子どもにも問題がある」、「ヘイトスピーチされる側にも問題がある」といった屁理屈も同様である。処世術強制型ハラスメントはそうした不正な規範の維持に加担しているのである。次なる被害を防止するという観点からは、こうした被害者バッシングをきちんと批判していくことこそ重要なのではないか。

(5)については、これまで何度も言われてきたことだ。「痴漢されたくなければスカートは控えて」、「女性は深夜に一人で歩かないように」、「イジメられないためにも大人しくしてたほうがいいよ」、「ヘイトスピーチされたくなければ民族名を名乗らないほうがいい」、などなどいつも自省と自制を迫られるのは被害者のほうだ。一方的に行動の制限を迫られ、それによる不利益はいつも見て見ぬふりされる。

4.なぜ処世術強制型ハラスメントは起きるのか

最後に、なぜこうした被害者バッシングが起きるのかという点について考える。一口に被害者バッシングといってもその態様は様々であり、元の被害事例のタイプごとにも不当なバッシングが起きる原因は様々だろう。

ただし、原因について共通して言えることもある。

ひとつは、「公正世界仮説」とよばれる認知バイアスが大きく関わっているということだ。こちらのスライドが非常に分かりやすい→人はなぜ被害者を責めるのか?(公正世界仮説がもたらすもの) 人は一般に秩序と公正さのある社会(公正世界)で生きていたいという願望を持つ。そうした公正世界への信頼が壊れるのを防ごうとするために、認知にバイアスがかかった結果として被害者非難に走りがちになるのだという。

もうひとつは、各々の被害事例に存在している権力勾配(力や立場の差)に、無意識のうちに取り込まれてしまっているのではないかということだ。アイドル男性と女子学生、いじめる側といじめられる側、企業と労働者、親と子ども、民族的マジョリティとマイノリティ。ここにははっきりとした力や立場の格差がある。そうした権力構造は、しばしば人を従順にさせ力の強い側を正当化(弱い側に帰責化)させようとするはたらきをする。なぜなら力や立場の強い側についたほうが「得」であり、処世術として「合理的」であるからである。そうした自身の打算をごまかそうとする心理的な防衛として、被害者非難に走ってしまうのではないだろうか。

筆者は専門の心理学者などではないため、上記はあくまで私見である。


一刻も早く、処世術強制型ハラスメント(被害者バッシング)がなくなることを願う。

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