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橋本徹(SUBURBIA)コンパイラー人生30周年記念インタヴュー

構成・文/waltzanova

V.A.『Blessing ~ SUBURBIA meets P-VINE "Free Soul × Cafe Apres-midi × Mellow Beats × Jazz Supreme"』

橋本徹(SUBURBIA)コンパイラー人生30周年記念インタヴュー

── 橋本さんのコンパイラー生活30周年を記念するコンピレイションがリリースされます。30周年、感慨深いことも多いと思いますが、いかがでしょうか?

橋本 そうですね、過去のアニヴァーサリーのときはあっという間と感じることが多かったんですが、さすがに30周年となると「いろいろあったな」という印象や、山あり谷ありだったけど、30年間選曲やコンパイルという仕事を続けてこられたことに感謝したいなという気持ちが一番大きいです。

── パイオニアである橋本さんが、30年間コンパイラーの世界でトップを走り続けているということは決して簡単なことではないと思いますし、本当に素晴らしいことだと思います。

橋本 そもそもコンパイラーという仕事が当時はなかったですしね。選曲ということでさえレコード会社の支払いの明細の項目になかったり、税務署でもフリーランスの選曲家という職業は認知されていなくて、「こういう仕事をされている方は初めてです」と言われたりしてました(笑)。自分でやりたいこと、楽しいことを続けていくために、環境を切り拓いてきたというところはあったと思います。

── 切り拓いてきたというのは、本当にその通りですね。

橋本 自分の中では自然に前に進んできたという感覚の方が強いですけどね。

「Suburbia Suite」フリーペーパーの創刊

── では、30年間をクロノロジカルに振り返っていきたいんですが、ポイントを絞りながら伺っていければと思います。まず、1990年の10月に「Suburbia Suite」フリーペーパーの創刊というのがありました。

橋本 大学を卒業してその年の4月に出版社に入社して、編集者として仕事を始めたんですけど、学生時代から好きだった音楽や映画、カルチャー全般について、メジャーな一般誌では自分が好きで掘り下げてきたことや夢中になってきたことを反映させていくのはなかなか難しいなと思ったところもあったので、自分の趣味性みたいなものを、今でいうインディペンデント・マガジンみたいなもので表現できたらいいなと思っていました。たまたま雑誌や本――いわゆるプリンテッド・マターの編集から執筆、デザイン、印刷を通して出版に至るプロセスを学んだところだったので、今でいうZineみたいな感覚かもしれないんですけど、フリーペーパーを作ってみようと思ったのが、最初は4ページしかなかった「Suburbia Suite」のきっかけでしたね。

── それはどういうところに置かれたりしていたんですか?

橋本 当時、CDの時代が訪れてまもない頃で、大型の輸入盤CDショップがたくさんできていて、勢いよく音楽ソフトの小売業が発展していってる時期だったので、レコードショップやCDショップに置いてもらえたらいいなと思っていました。象徴的なのはWAVE六本木店だったんですけど、それ以外にもタワーレコード、HMV、ヴァージン・メガストアとかが次々にできていたので、そういうところに置いてもらったり、僕たちの周りのアーティストのライヴで折り込みをさせてもらって配ったりとか。ピチカート・ファイヴやオリジナル・ラヴだったりとか、のちに「渋谷系」と総称されるようなアーティストたちが多かったですけど。

── そこで取り上げられていたのは、具体的にはどういう音楽だったんですか?

橋本 フリーペーパーの最初の3号くらいで反映させていたのは、当時現在進行形で盛り上がっていたUKソウル~グラウンド・ビートとか、アシッド・ジャズに連なっていくようなイギリスの音楽シーンを紹介するということと、一方で大学生の頃に中古盤屋に通ってアルバイト代をつぎ込んで買い集めて聴いてきたような古い音楽、50年代から70年代の音楽――特に映画音楽とかサントラであるとか、あるいはジャズやムード音楽だったりとか、ラテン・ジャズ、ブラジリアン・ジャズといったものが一番多かったですね。その中でも、それまで日本のメディアでほとんど取り上げられることがなかったものに意図的にフォーカスして、カウンター的な存在感というか、よりエッジの効いた見え方になったらいいなと。あとは何を取り上げるか、ということ以上にどう見せるかへのこだわりの方が強かったです。現状の音楽シーンや、自分の好きな音楽があまり知られていないという状況に対する不満や苛立ちのようなものが根っこにはありつつ、それを表現としてはフレンドリーでソフィスティケイトされたものにしたいという意識を強く持っていました。あとは音楽マニアやコレクターに対してではなく、もっとフラットな視線で音楽と接している、女性も含めたカジュアルな音楽好きたちに興味を持ってもらえるような誌面作りはすごく意識していましたね。編集においても執筆においてもデザインにおいても、それを届ける場所や場面や媒体においても。

── すごく編集者的な視点を意識して作られていたということですね。

橋本 文章の文体ひとつ取っても、グラフィカルなデザインにおいてもそうでしたね。

FM番組「Suburbia’s Party」からファースト・コンピCDリリースとレコードガイド発刊へ

── それが反響を呼んで、1992年の10月にファースト・コンピレイションCDが発売されます。そして翌月に「Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise」というレコードガイドが出るという。橋本さんのひとつのブレイク・ポイントですね。

橋本 そこにつながっていくのは、前の年の夏から始めた、渋谷のDJ Bar InkstickでのDJパーティーが礎になっているかなと。それともっと大きいのが92年の4月に始まったTOKYO FMでの「Suburbia’s Party」という選曲番組で、それまでフリーペーパーでたくさんコラムを作ってきたんですが、独自の切り口で紹介してきたそのコラムのテーマを毎週の選曲のテーマにして。それはスキャット〜ハミング〜ウィッスルとか、ヴァイブやオルガンにスポットを当てたりして、イタリアーノ・チネ・ジャズとかフレンチ・シネマもあるし、ハリウッド・ムーヴィーもあるし、いわゆるソウル・ミュージックとジャズとの接点だとメロウ・グルーヴ、レゲエとの間だったらラヴァーズ・ロックだったりっていう切り口だったりするんですけど。「Suburbia Suite」のフリーペーパー時代にコラムを作ってきたものを、30分の選曲番組にしていくというある種の再編集の作業がそこでできて、そうしたテーマにのっとって今度はディスクガイドとしてまとめようというのが92年11月の「Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise」という1冊目のレコードガイドです。その頃、少しずつメディアの露出とかも増えてきて、TBSの「Catch Up」での「Suburbia Suite」特集とかもまさにそうですが、そういう状況の中でコンピCDの選曲をしないかというお話をいただき、初めてコンパイルしたのが92年10月21日発売の『’Tis Blue Drops; A Sense Of Suburbia Sweet』です。今回のコンピのジャケットでは、そのときのアートワークをリデザインしたりしているんですが、これが当時の東京っぽいなと思ったのは、僕とコンテムポラリー・プロダクションのグラフィック・デザイナーの信藤三雄さん、「Olive」のタマちゃんとかで人気だったイラストレイターの森本美由紀さんとのシリーズで、いわゆる音楽だけの専門家というよりも編集者とデザイナー、イラストレイターという仕事をしている3人が、当時の東京や渋谷の空気を音楽を通して形にするという企画だったということですね。「Suburbia」でもすごくジャケットの魅力を重要視して選盤や誌面作りをしてきたので、その3枚もジャケットがどれも印象的なものになっていたのが時代性を反映しているなと思います。

90年代渋谷の空気感とSuburbiaという言葉にこめた思い

── 90年代前半の渋谷で印象に残っていることがあれば教えてください。

橋本 とにかく時代の波というか、勢いを感じましたね。レコードショップやCDショップに行っても若い音楽ファンや女性が増えていました。業界人だけでなくそういう人たちが六本木WAVEのSuburbiaコーナーで、よく試聴していたりとか。

── 自分たちが紹介しているものが響いているという手応えがあった。

橋本 手応えはものすごくありました。

── それがどんどん広がっていくのが、93~94年ですね。

橋本 92年の「Suburbia Suite; Especial Sweet Reprise」をきっかけに、レコード会社の方からすごくたくさんの連絡をいただいて、リイシューのシリーズを監修するようになったのが93年のキングの「Cool Exotic Breeze」とか「Moog Electrical Parade」だったり、EMIの「Brazilian Saudade Breeze」や「Soft Rock Parade」だったりといったシリーズで、BEATレーベルのイタリアン・サントラのリイシューやレキシントンのロジャー・ニコルズはじめA&Mソフト・ロックのアナログ6枚、それからジャズ・ファンク・リヴァイヴァルとリンクしたようなプーチョ&ザ・ラテン・ソウル・ブラザーズのリイシューとかですね。CDの時代になって、歴史が横になったような感じで旧譜をフレッシュに再評価する、違う角度から光を当てて現在進行形の音楽として輝かせるという作業が花開いたのがこの頃でした。92年冬の『黄金の七人』のリイシューに始まり、94年3月の、BMGのボブ・トンプソンなどの「テクニカラー・ドリーミン」まで、立て続けにリイシュー・シリーズを監修したのを憶えています。自分の好きなことを仕事にしていけるんじゃないかいう気持ちも大きくなってきて、そこに集中するために93年の7月に出版社を退社して、独立してフリーランスになり、「Suburbia Factory」という会社をスタートさせました。

── ちょっと話が前後しますが、「Suburbia Suite」という名前の由来について、改めてお話いただけますか。

橋本 「Suburbia Suite」というのは、学生の頃に好きだったトット・テイラーが主宰していたコンパクト・オーガニゼイションというレーベルから来ていて、僕は「Suburbia Suite」の前にピチカート・マニア向けのファン・ボックスを大学時代に作ったんですが、ポストカードや写真、カセットにブックレットが入っていたりと、コンパクト・オーガニゼイションに多大なる影響を受けたものだったんですね。そのレーベルのサウンド・バリアーというグループの『The Suburbia Suite』というアルバムがとても好きで、ポスト・パンク~ニュー・ウェイヴの時代にイージー・リスニング・ジャズのアルバムを出していたユニットなんです。それで最初のフリーペーパーを作るとき、コンパクト・オーガニゼイションのキャッチフレーズをもじって、サブタイトルを「Earbenders for Easy Listeners」ってしたんですよね。で、「Suburbia Suite」はサウンド・バリアーから取っていて。読者やリスナー対象としても、イージー・リスナーズって言葉をすごく意識してたのは憶えています。要はある種のムード音楽としての再解釈というか、すべての音楽を気分や雰囲気、アンビエンスに応じて捉え直したかったんです。それがコレクター的だったり、権威主義的で父権的な音楽マニアの在り方に対するカウンターにもなると思ったんですね。ある意味ではフラワー・チルドレン的な意識というか。「Earbenders for Easy Listeners」と「Suburbia Suite」は、当時考えていたことを何となく言葉にしたものですが、今考えると大切ですね。あとはサバービアってことに関しては、郊外という意味なんだけど、いわゆるアメリカでイメージするところの荒涼としたサバービアではなく、音楽シーンにおける郊外というか、東京における郊外というところに、僕らみたいなセンスや聴き方に共感してくれる人がたくさんいるんじゃないか、というのが大きくて。それはドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』のインナー・スリーヴに書かれていた「50年代後半から60年代初めにかけて、アメリカ北東部にある街の郊外で育った若者が抱いていたはずの、ある種のファンタジー」という一文ともつながるものだと思ってました。

── あとは「中心と周縁」ではないですが、音楽シーンにおけるカウンター的なイメージというのもあったんですかね?

橋本 ありましたね。何せこの時代は邦楽だったらバンド・ブーム、洋楽だったらユーロビートみたいな感じでしたからね(笑)。でも、本当にいろんなものへのカウンター意識があって、メインストリームだけでなく音楽に詳しい人とか音楽業界の人たちに対する違和感もありました。

Free SoulのコンピCD×DJパーティー×ディスクガイドの大ヒット

── で、そういう再発の仕事が増えてきて、サバービア的なものに対してファンが盛り上がっていく中で、いよいよ1994年春にFree Soulがスタートします。

橋本 1冊目のレコードガイドは、意図的とはいえテイストにかなり偏りがあったので、自分の中での“白っぽいセンス”というか、そういうものばかりを監修や原稿依頼で求められていました。一方で現在進行形のイギリスの音楽、UKソウルからアシッド・ジャズへの流れみたいなものとシンクロする音楽も大好きだったんですよね。

── そもそも最初のフリーペーパーでもUKソウルを取り上げられていました。

橋本 ファースト・コンピのオープニングもマッシヴ・アタックやクリーヴランド・ワトキッスがカヴァーしていたウィリアム・ディヴォーンだしね。そっちをしっかりやりたいなっていうのは93年を通して思っていて、BMGからボブ・トンプソンなどのリイシュー監修の依頼があったとき、「70年代のソウル・ミュージック周辺のコンピレイションも出しませんか?」って逆に提案したのがFree Soulの始まりです。DJパーティーもスタートするし、コンピCDのリリースに合わせて「Suburbia Suite」の2冊目のレコードガイドも作りますからって言って。

── 今振り返ると、コンピレイション、ディスクガイド、DJパーティーというのは、ひと昔前に言われたメディア・ミックス的な方法論を先駆けてやってらっしゃるなと思いました。

橋本 僕にはメディア・ミックスという意識はそんなになくて、コンピレイションCDをいろんな人に聴いてもらうために有効だったのがDJパーティーとディスクガイドだったということですけどね。1冊目のレコードガイドでは封印していたテイストだったので、水を得た魚という感じで取り組めたなというところはありますね。

── CDを聴く層とガイド本を読む層、パーティーに来る層というのは、被っているところももちろんありますが、そうでない部分も多いですよね。

橋本 それはすごく感じましたね。

ピースフルな無血革命=一般教養の書き換えと新しいスタンダードの誕生

── そしてFree Soulは一大ムーヴメントになります。96年1月には「渋谷系のメッカ」と言われていたHMV渋谷店の邦楽売り場で1位を獲得するという。

橋本 『Free Soul Parade』そして『Free Soul Lights』ですね。なぜ邦楽売り場にFree Soulのコンピが置かれていたかという話ともつながりますが、パーティーに遊びに来てくれる人もコンピレイションを聴いてくれる人も、洋楽も邦楽も古い音楽も新しい音楽も分け隔てなく聴いているリスナーが多かった。そういう時代だったんですね。

── ピチカート・ファイヴやオリジナル・ラヴや小沢健二が70年代のソウルをインスピレイション元にした曲を出したりしていましたね。

橋本 この時代はヒップホップやUKソウルでのサンプリングやカヴァーが魅力的でもありましたが、それを辿ることによって個のリスナーもシーン全体も縦横無尽に好奇心を広げていけるような状況でしたね。80年代までの権威主義的な系統を追うような音楽の聴き方ではなく、自由に、大胆に横断することができるようになったので、例えばソウル・ミュージックの中でのアーティストのプライオリティーも変わってきたし、同じアーティストの中での楽曲やアルバムのプライオリティーも変わりました。音楽に関する一般教養が書き換えられていく時代でしたね。レコードショップやCDショップの品揃えが変わっていって、それがいちばんピースフルな出来事というか、無血革命ってことなんだと思うんですが。

── 本当に劇的にそういう印象を持ちました。Free Soul前夜の橋本さんのモティヴェイションが素晴らしい形で結実したと思いますし、30年近く経った現在ではある種のスタンダードになっている。

橋本 そこでの価値観の書き換えが今もベースになっていますね。

── 当時のコンピレイションで言うと、『Groovy Isleys』と『Mellow Isleys』、『Free Soul 90s』シリーズなんかが新旧をつなぐうえで特に重要だと思います。価値観の書き換えという意味でも。

橋本 当時は新しい音楽と古い音楽を自在に行き来できるようなリスニング体験を提供することを、CDというメディアでも「Suburbia Suite」や「bounce」みたいな紙メディアでも、クラブDJでもひたすらやっていたという。新旧や国や地域やジャンルを乗り越えて、ジャイルス・ピーターソンの言葉“Joining The Dots”じゃないけど「点と点を結んで線にする」という、音楽の地図や年表を自分なりのものに書き換えていく、アップデイトしていくということですね。その手助けをリスナーに対して提案していた時期でした。

タワーレコードのフリーマガジン「bounce」編集長就任とフィロソフィーの結実

── 今「bounce」の話が出たんですけど、96年の4月に編集長に就任されて。僕も当時、毎号愛読していたんですが、どんどん雑誌が厚くなっていくという(笑)。

橋本 音楽シーン全体の集合知も広がっていったというか、CDショップやレコードショップも増えていって、渋谷はギネスブックに登録されるくらい、世界一レコードやCDが溢れている街になって。そういうものの受け皿というかガイドブックとして「bounce」の誌面も質量ともに充実していきましたね。熱意のある優秀な編集者も揃っていましたし。最後は190ページまで行って。

── 僕が印象に残っているのは、フリーマガジンである「bounce」の特集の切り口が有料で売っている雑誌よりも鋭いものだったことです。

橋本 さっきも話しましたが、音楽メディアに対するカウンター的な意識はすごくあって。ひとことで言うと、ダサいなってことに尽きるんですけど。せっかくカッコいい音楽や素敵な音楽について取り上げてるのに、メディア自体がカッコ悪いな、野暮だなと。メディアもまたカッコよかったり心地よかったりするべきだと思うので、コンピCDのときもそうですが、雑誌は特にエディトリアル・デザインやグラフィカルであることを念頭に置いて作っていました。

── 橋本さんはそこにこだわっていた、と。

橋本 写真もデザインもしょぼくて文字ばかり、みたいな音楽誌が多くて、プロの編集者から見るとレヴェルが低すぎると軽蔑や苛立ちを覚えていました。一方、タワーレコードは店舗がどんどん増えて部数も伸びていき、誌面の充実で広告の出稿量もすごく伸びていったので、リクープ・ラインも越えて、制作費をきちんと得ることができて、優秀で熱意のある編集者もいて、という感じでいいサイクルで回っていましたね。

── 当時の橋本さんは20代を終えて30代に入るくらいの頃ですが、旧来の価値観に対するカウンターとか、それを刷新したいという思いを強く持っていたところに、橋本青年の熱さを感じますね。

橋本 うん、熱い気持ちなんだけど、それをスマートに見せたいと思っていましたね。スタイル・カウンシルみたいに。

──「bounce」の話は橋本さんのこれまでのインタヴューでもそれほど出てこないので、新鮮ですね。

橋本 すごくSuburbiaやFree Soulのフィロソフィーというのは「bounce」に結実していて、あえて象徴的なレギュラー・ページを言うとするなら「People Tree」とかですかね。

── 僕もそれを言おうと思っていました。ひとりのアーティストがいて、関連コラムがあって、そこから連想されるディスクが紹介されて、どうリンクしているのかと人脈的にも音楽的にもエピソード的にもつながっていくという。

橋本 当時は連想ゲームをひたすらやることを重要視していたというか。「敷居は低く、奥は深く」というのをキャッチフレーズにしていましたが、メジャーな音楽もマニアックな音楽も等価に扱い、ポジティヴなリスニング・スタイルをどこまでもサポートしていけるメディアでありたいという気持ちがありました。

── マクロな視点でフラットに柔軟に、愛情豊かに物事を見ていくことの楽しさ、面白さを大切にしていくという姿勢は、編集方針として一貫していますよね。

橋本 僕はエディターとしてもコンパイラーとしてもストロング・ポイントをひとつ挙げるとすると、それは「音楽が好きだ」ってことになると思うんですが、もうひとつ言うと、固定観念や既成概念に捉われないようにといつも思っていることなのかなと思います。

── お話を伺っていて、SuburbiaやFree Soulから「bounce」へ、という流れがすごくしっくりきました。

橋本 フィロソフィー的にシンパシーを感じあえる関係だと思います。

カフェ・アプレミディのオープンから空前のカフェ・ブームへ

── さて、そんな怒涛の90年代後半を過ぎて、1999年春に「bounce」編集長を辞められて、普通なら一段落するような感じになりますけども。

橋本 この頃までは3年おきに新しいことをやっていましたね。90年、93年、96年までは3年ごとにいろいろ始めてるなって感じで。次が1999年の11月、カフェ・アプレミディのオープンです。99年の春に「bounce」編集長を退任して、クレモンティーヌのパブリシティーとしてAfternoon Teaのお店に置かれるフリーペーパーを編集してほしいという仕事が舞い込み、5月にパリに行ったことが大きかったですね。東京に帰ってきて、どうしようかなっていうときにカフェをやってみようかとふと思ったんですね。

── その頃はわりとノー・プランだったんですか?

橋本 ノー・プラン(笑)。それまでの3年間、Free Soulは引き続き盛り上がっていて、DJもものすごい数やっていて、「bounce」の編集も根を詰めてやっていたので、99年夏はわりとゆっくりして。そんなときに岡本仁さんが編集していたカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュのフリーペーパーをたまたま持って代々木公園に行って、山本タケシさんのレコードにまつわるエッセイを読んでいて、自分もカフェでレコードを聴きたくなったんです。で、すぐ物件を探しに行って。

── 初代アプレミディ、公園ビルですね。

橋本 公園通りの雑居ビルの5階。自分たちの居心地の良い場所を作れたらなっていうことで始めたのがカフェ・アプレミディです。飲食店の基本は大切にしつつ、僕がやるからには音楽やインテリア、シチュエイションや気分を大切にした心地よい空間でありたいなという思いがありました。

── ある意味では「Suburbia Suite」のコンセプトの三次元版という感じですね。

橋本 それによって自分自身のリスニング・ライフも変わりましたね。パブリック・イメージ的にも90年代のFree Soul一色みたいなところから多様化していく、初期「Suburbia Suite」で紹介していたようなものにも再び光を当てたり、みたいな。

── 10年が経過して、またリスニング寄りになっていったという感じですね。そのアプレミディがまた社会的に、空前の大ブームになるという。カフェ・ミュージック、カフェ・ブームですね。

橋本 当時は当たり前だと思っていましたが、今から考えるとなぜあんな社会的にも大きな現象が起きたんだろうなって思うくらいですね。時代の空気が自分を押してくれていたなと感じます。「bounce」とFree Soulでとにかく忙しかった90年代後半から、カフェでゆっくり過ごしたり、インテリア・デザインや家具、食事やワインに興味を持っていって、そういう趣味やセンスを共感できる人と交流したりっていうのが2000年代の前半は楽しかったですね。

マガジンハウスの雑誌「relax」での「Suburbia Suite」復活とカフェ・アプレミディのコンピCDの影響力

── 2000年にはマガジンハウスから「relax」の「Suburbia Suite 2000」という特集号も出ています。

橋本 そうそう、カフェ・アプレミディのオープンより前にすでに岡本仁さんが「relax」の編集長に返り咲くってことがわかってて、もう「bounce」は辞めてたから「サバービアの特集を頼むよ」ってことは言われてたんですよね。そこでカフェ・アプレミディを開いたんで、お店の時間軸に合わせて選盤するっていうアイディアが生まれてきました。それも新しい音楽紹介の切り口ですね。昼に聴きたい音楽、夕方を経て夜、真夜中、そして夜明けに聴きたい音楽。今でこそそういう切り口って普通になっていますが、それまではなかったんですよね。

── カフェ・アプレミディのコンピ・シリーズは、最初の「Suburbia Suite」から10年近く経っているので、新鮮に受け止められているなという印象がすごくありましたね。

橋本 そうですね。CDショップの棚をFree Soulのロゴがずらっと飾ったように、フランスの伝統色をあしらった色違いの幸せそうな老人のポートレイトのジャケットがずらっと並んだときは壮観でしたね。時代を象徴する光景として憶えています。ちょうど同じ頃、モンド・グロッソのCDも老人ジャケだったんですよね。

──「LIFE」ですね、birdをフィーチャーした。何かシンクロニシティ―を感じたのを憶えています。

橋本 アプレミディのあのCDデザインは、その後の佐藤可士和さんのSMAPのジャケットにもインスピレイションを与えたんでしょうね(笑)。

── ああ、2001年の『Vest』ですね。あれは色違いが12種類あったみたいです。当時はそういったデザイン的な部分でのつながりも楽しい時代でした。その頃、印象的だった出来事などはありますか?

橋本 カフェを始めたことによってインタヴューを受ける機会がカルチャー誌や音楽誌だけでなく、一般誌や女性誌含めすごく多くなりました。お店もカフェ・グランプリ日本一に選ばれたり、毎日のように取材を受けてましたし、僕も「GINZA」「Hanako WEST」では連載もあって、J-WAVEの「カフェ・アプレミニュイ」はじめFM番組に出演することも増えて。いわゆるカフェ・ブームの盛り上がりを先導していた存在として光を当ててもらう機会が多くて、音楽業界だけでなく活動の場が広がった印象がありましたね。

「usen for Cafe Apres-midi」の開設とアプレミディ・グラン・クリュ&アプレミディ・セレソンの開店

── 橋本さんの名前は音楽業界ではもちろん知られていましたが、それが一般層に広がったという印象です。橋本さんのキャリアを考えるうえで、けっこう大事な時期だったのかもしれない、と今感じました。その翌年、2001年春には「usen for Cafe Apres-midi」チャンネルも始まるんですよね。

橋本 これは今振り返ると、とても大きいスタートでしたね。それまでは自分の好きな空間、カフェや趣味の近いショップ、友人の家や友人と過ごす場所を自分の好きな音楽で満たして心地よくしたいと思っていたんですが、それを街に広げていくという意識が生まれました。街や時代の空気感に直接的にコミットすること、BGMの基準値を上げることや常識を塗り替えていくことをめざしましたね。「usen for Cafe Apres-midi」チャンネル開設以降、チェーン店などでも最低限の意識を持って店内BGMを考えるようになりましたよね。飲食店だけでなく、ファッション、雑貨、インテリア・ショップなどもそうですね。さらには大型の商業施設、銀行や役所、スーパーマーケットまで、その後開設された「usen for Free Soul」ともども使用してくれるようになりました。

── 一時期「西友やドトールのBGMがオシャレだ」と、ネットで話題になったりもしましたよね。そのくらい影響力があった。当時から手応えはありましたか?

橋本 最初の頃は知り合いの店や趣味が近いなっていう空間で「usen for Cafe Apres-midi」が流れているという印象でしたが、2000年代半ばくらいからそれが急速に広がっていって。

── 90年代の「Suburbia Suite」に始まり、Free Soulや「bounce」とも似たものがありますね。君塚洋一さんの『選曲の社会史』という本がありましたが、そこに書かれていたように日本の店舗選曲におけるひとつの転換点だったように思います。それと並行するような形ですが、この時期は橋本さんがコンパイラーとして数多くの仕事をされています。

橋本 カフェ・アプレミディ、2002年春にオープンしたダイニング・サロンのアプレミディ・グラン・クリュ、同年秋に渋谷PARCOで始めたセレクトショップのアプレミディ・セレソンと、自分の作ったお店との関連でタイトル数が増えていくというのはありました。最初の3年間で世間的にはカフェ・ブームが最高潮に達して、自分の中では食やインテリアに対する興味が沸騰していたんですが、それを形にしたのがアプレミディ・グラン・クリュだったり、アプレミディ・セレソンだったりというところです。

── 食、雑貨、インテリア、そしてそこに音楽ソフトをどう組み合わせていくかというトライだったんですね。

橋本 その3年間で夢中になって掘り下げ好奇心を広げていったものが、その二つのお店につながっていきました。それぞれのお店の価値観やテイストに合わせて、コンピレイションのスタイリング・ヴァリエイションも増えていくという。「relax」でも引き続き、そういった経緯に合わせて特集を組んでくれてましたし。

── Free Soulなどに比べると、より大人っぽい感じになっていきましたよね。あとは「JET STREAM」シリーズみたいに、真夜中に聴くテイストのものもありました。

橋本 そういうダブルネームとかコラボレイションのオファーが一気に増えたのは、やはりカフェ・ブームからですね。「RESORT+MUSIC」はANAとで、「JET STREAM」はJALとだったりとか。この頃は時代のキーパーソン的に注目度が高かったんでしょうね。自分の執筆・編集した原稿を集めた本を出さないかっていう話が来たり、クレモンティーヌに続いてフレンチ・ブラジリアンのカチアのプロデュースの依頼が来たり。もっと言えばいろんなディヴェロッパーから新店舗の誘いも次々に来て。香水をプロデュースしてくださいという話まで来てましたね(笑)。

── 香水! それはすごいです。

橋本 自分も調子に乗っていろいろやってしまって(笑)。今では反省してます。

「Suburbia Suite」の集大成本出版とコンピCD量産時代

── 先ほど話がありましたが、その結果としてSuburbiaやFree SoulやCafe Apres-midiにまつわる原稿を集大成した『Suburbia Suite; Evergreen Review』そして『Suburbia Suite; Future Antiques』が2003年の10月と12月に出版されます。

橋本 これがまたすごかったですね。あんな分厚い大型本で2,600円かな、初版は各1万部ですぐに売り切れました。なぜそんなに安くできたかというと、タワーレコードが表3の中見開きにそれぞれ広告を入れてくれて、カフェ・アプレミディとアプレミディ・グラン・クリュの写真に、“TORU HASHIMOTO (SUBURBIA FACTORY) meets TOWOR RECORDS bounce EDITOR IN CHIEF 1996.6~1999.4”と小さく入れただけのもので。粋な計らいでしたね。それで200万円出してくれたので、版元もあの価格にできたそうです。そのときの写真をこのコンパイラー生活30周年記念コンピのアートワークにも使えたらなと思っていて。感謝の気持ちをこめて。

── いろいろめぐりめぐってますね。とてもいい話です。次のトピックは「Mellow Beats」ですかね。

橋本 その前に、グラン・クリュやセレソンをやっていく中で、カチアのプロデュースやクラシック・アプレミディのシリーズとか、幅が広がっていったんですよね。パリやリオに海外レコーディングに行ったりとか。その部分がカフェ・ブームの遺産という感じですね。それと並行してFree Soulの10周年を記念したCDブック『We ♡ Free Soul』とか、ブルーノートやモータウンといった名門レーベルのアニヴァーサリーを祝う企画のアンソロジー系もやっていたのが2000年代半ばですね。僕自身が学生時代に大好きだったネオアコやポール・ウェラーなどにも初めてフォーカスしたり。あと、当時の自分自身は全く無縁の生活だったんですが、インターネット媒体からの仕事依頼が増えてきましたね。

── 僕自身としては、橋本さんのインタヴュー記事をよくネットで読んでいたという印象があります。「ネオ・アコースティック」シリーズのインタヴューと、それに合わせてのプレイリストとか。

橋本 そうですね。インターネット上のメディアに連載したり、取材を受けたりということが始まるのが2000年代半ばでしたね。

「Mellow Beats」〜「Jazz Supreme」とアプレミディ・ライブラリー

──「Web 2.0」と言われていたのがこの時代でした。SNSやブログが一般化して、携帯電話でネット記事を読むことも多くなっていきました。橋本さんの仕事もその流れに対応している感じですね。

橋本 僕の中で2000年代半ばを総括するような年が2007年です。3月にリオに行ったり、一年で32枚コンピレイションを制作したり。カフェ・ブームの遺産みたいなものでいろいろやらせてもらった集大成がアントニオ・カルロス・ジョビンの生誕80周年を記念したコンピレイション・シリーズだったり、プロデュースを手がけた日本のアーティストにたくさん参加してもらった『ジョビニアーナ』だったり、カチアの『Catia Canta Jobim』だったり。あとは「Suburbia Favourite Shop」のリイシュー・シリーズとフリーペーパーもありましたね。そしてやはり、大きなトピックは「Mellow Beats」シリーズです。2007年秋スタートですね。新しいシリーズが始まるというのは自分の中でもフレッシュだったし、コンピCDも本当によく売れましたね。それで改めて自分に注目してくれる層が開拓できた感じもありました。

── なるほど。それまでちょっと「カフェの人」みたいになっていたのが……。

橋本 そうそう、「カフェでボッサでサロン・ジャズで……」みたいなイメージに偏り始めたところに、いい塩梅で揺り戻しができたというか。テイスト的にもメロウ・ビーツだったので、自分もすごく楽しかったです。仕事はカフェから広がるようなテイストのものが増えていましたが、個人的なリスニング・ライフでは2000年代前半はマッドリブとJ・ディラ、2004年からのビルド・アン・アークっていうところが大きいんです。そういうLAビート~LAジャズを中心に“ジャズとヒップホップの蜜月”というテーマでコンピを作れたのは、プライヴェイトでもよく聴いていたものが形になったという意味でも嬉しかったですし、パブリック・イメージの段落変えという点でもサバービアの1号目からFree Soulへの流れにすごく似ていますね。

── 機が熟して形になり、それがすごく支持されたというところですね。ディスクガイドも出ましたし。

橋本 そうですね。それが2008年からの「Jazz Supreme」シリーズへと続く感じです。あと、『公園通りみぎひだり』などアプレミディ・ライブラリーで書籍を4冊作ったり、「Jazz Supreme」や「MUSICAÄNOSSA」の単行本を出したのも大きいかな。背景的にもNujabesを起点とした2000年代半ばからのジャジー・ヒップホップの盛り上がりはすごかったですから、そこともシンクロする形でした。それが2000年代後半のイメージです。

── 僕はホームページ掲載の「アプレミディ・ダイアリー」を読んでいたので、最近の橋本さんがレコメンドするのはこういうものなんだってわかりつつという中で「Mellow Beats」や「Jazz Supreme」シリーズが始まって、すごくワクワクしましたね。

アプレミディ・レコーズのスタートと「音楽のある風景」の浸透力

橋本 そして2010年代に向けて大きいのは、2009年のアプレミディ・レコーズのスタートです。これはその他のシリーズで形になっていなかったものをピックアップするという意義もあったので、「usen for Cafe Apres-midi」で定番になっているようなジャンルやテイストに光を当てることが出発点になっています。お店や街中で流れているだけだと見えづらいので、それを形にすることに意味があるというのが最初の段階でのアイディアでした。それまでは昼、夕方、夜というように時間帯による選盤というのはしてきましたが、「音楽のある風景」シリーズという、今度は3か月に一度のリリースで季節感を描いていこうという試みでしたね。それは「usen for Cafe Apres-midi」が時間帯とともに季節感も重視して選曲するということをやっていたので、それを反映させたんです。これも本当に、現役復帰も含め、新しいリスナーを開拓できたと思いますね。

── 2000年からの「カフェ・アプレミディ」コンピCDシリーズがアップデイトされたような印象を受けました。

橋本 より実際にお店で流れているものに近づきましたね。「カフェ・アプレミディ」のコンピはかなりスタイリッシュにプレゼンテイションしていたので、「音楽のある風景」の方がより自然体というかリアルになりましたね。

── 普段着っぽいというか、柔らかな印象を受けました。

橋本 「カフェ・アプレミディ」シリーズはまだDJ的な視点が残っていますが、「音楽のある風景」シリーズはそれを完全に消し去っています。そこから2010年にかけての『美しきメランコリーのアルゼンチン』『Chill-Out Mellow Beats』『素晴らしきメランコリーの世界』あたりは、音楽から最近離れていた人を戻せたな、という部分も含め、新しいリスナー層を掘り起こせたという手応えを感じました。30代になって結婚して、子育てもあって、そんな中でも安らぐ時間をという人に重宝してもらえるものとしてプレゼンできた感じがします。

──「音楽のある風景」シリーズでは、特典ブックレットも制作されていましたね。世界地図があって、それぞれのミュージシャンがどこに位置するのか、みたいな。そこと『美しきメランコリーのアルゼンチン』への流れがつながるんですよね。

橋本 アプレミディ・レコーズを始めた2009年は徐々にCDの売り上げが落ちてきている時代で、敢えてコンピレイションCDを作るならば特典やパッケージにちょっと素敵な何かがあったらいいよね、というところで冊子を編集しましたね。

── HMV渋谷店が一回閉店する前、スタッフの河野洋志さんや山本勇樹さんがやっていた「素晴らしきメランコリーの世界」コーナーとの共振性も感じましたね。カルロス・アギーレはまさにその中心で、じわじわと人気を集めるようになっていきました。

橋本 アルゼンチン~ネオ・フォルクローレへの注目の高まりの先鞭をつけた感じはありましたね。『美しきメランコリーのアルゼンチン』は反響がすごく良くて、数が多いわけではありませんが、心のこもった本当に真摯なメッセージがいくつも届いたのを憶えています。かけがえのない、確かな浸透力があったというか、そういう連絡を下さった人たちが2010年代に各地方で拠点となって、カルロス・アギーレやその周辺の音楽の素晴らしさを広めていくことにつながったと思いますね。

2010年代音楽シーンの充実が「Free Soul〜2010s Urban」シリーズに発展

── 2011年には「usen for Cafe Apres-midi」チャンネルが10周年を迎えます。

橋本 10周年まではサロン・ジャズのコンピCDシリーズだったり、10周年記念コンピ『Haven’t We Met?』だったり、「音楽のある風景」からの流れを総決算していくような感じですね。で、2011年3月に東日本大震災が起こって。それ以前から、アプレミディ・レコーズでの選曲にも多少反映されていた部分があるんですが、Nujabesが2010年2月に亡くなったりしたこともあって、個人的にはわりとダウナーというか、内省感を強めていた時期でした。そこで地震が起こったんですが、翌2012年春の『ブルー・モノローグ』で、自分の気持ちは底をついたというか、一区切りつけられたというのはよく憶えています。

──『ブルー・モノローグ』は、すごく心の深いところに響いてくるコンピレイションでしたね。胸を震わせるような。気持ちが落ち込んでいるときは、聴ける音楽が限られてきたりするんですが、このCDはそういう中でも聴ける数少ない一枚だと思います。

橋本 実際、地震のあとは音楽を聴けなくなった時期がありました。自分がそうだったくらいだから、皆さんもあったのではないかと思うんですが、そういうところに寄り添える音楽って何だろう? と考えていた時期でしたね。ジェイムス・ブレイクのファースト・アルバムとか、『ブルー・モノローグ』のサブタイトルにもしたテイラー・アイグスティの『Daylight At Midnight』とか、そういう世界観が琴線に触れる感じでした。僕は音楽ファンであることに救われてきているんですが、『ブルー・モノローグ』を作ったことで、2012年夏くらいから、現在進行形の音楽シーンともリンクする形で、自分の気持ちにも光が射してきたというイメージがありますね。この年はロバート・グラスパーの『Black Radio』とか、フランク・オーシャンの『Channel Orange』とかがトピックになりましたけれど、空前の豊作となっていく2010年代のシーンを楽しめるようになっていきました。並行してUNITED ARROWSなどのショップBGMや連載コラムを手がけるようになって、もう一回、街の音楽を意識する音楽活動ができるようになっていきましたね。そういう経緯を受けて象徴的なのが、2013年にスタートした『Free Soul~2010s Urban』シリーズです。そのときに「Free Soul Perspective 2013」という「Suburbia Suite」の別冊的な小冊子も作りましたね。

── 節目でそういうディスクガイドが出てますね。

橋本 自分が好きで夢中になった音楽が蓄積されていってコンピレイション・シリーズがスタートしたり、ディスクガイドにまとめたりするので、各シリーズのファースト・コンピというのは自分の中で思い入れ深いものになることが多いですね。

── ここまで話を聞いてきて思ったんですが、やはり思いつきやひらめきでやっているわけではなくて、橋本さんの中に一定のストックができて溢れでるものを形にしているんだな、とよくわかりましたね。マイルス・デイヴィスもいろいろ実験してから、「ここで行けるな」っていうタイミングで次のフェイズに移行して歴史的名作と言われるものを残していますが、それと似ていますよね。

橋本 あの頃だと「FM」シリーズにもそういう現在進行形の感じはありますね。「2010s Urban」のアプレミディ・レコーズ版というか。

── 非常によくわかります。カフェ・アプレミディや「usen for Cafe Apres-midi」でかけているいい曲を架空のFMステイションというお題でパッケージしているという。「音楽のある風景」シリーズよりはグルーヴィーで陽な感じがありますね。

橋本 「FM」シリーズは車の中とかドライヴを意識していましたね。以前、メイズやボビー・コールドウェルを編んだ「Free Soul Drive」というシリーズがありましたが、「音楽のある風景」はショップやリヴィングルームのイメージだし、アルゼンチンや「素晴らしきメランコリーの世界」的なものはインドアな世界観だったので。「FM」シリーズは移動中に聴いて心地よいものという基準は何となく意識してまとめてましたね。

── そういう意味ではある意味、「2010s Urban」と兄弟シリーズ的なニュアンスもあるんですね。

Suburbia Recordsの始動と「Good Mellows」によるチルアウトの提案

橋本 2010年代以降の自分の象徴といえば「Good Mellows」シリーズもそうですが、街で聴く音楽ということと併せて、海辺であったりアウトドア、オープンエアであったりというリスニング・シチュエイションが、選曲イメージの中に大きく入ってきました。これは選曲するうえでエポック・メイキングでしたね。そのインスピレイションに影響を与えたのは、チルアウトやバレアリックといった観点でもあるんですけれど。

──「Mellow Beats」はジャジー・ヒップホップが核になっているとしたら、「Good Mellows」はチルアウトやバレアリックが音楽的キーワードになりますね。これもまた以前のものをアップデイトしている感覚があります。

橋本 テーマ設定としてはそうなんですが、個人的な動機としては、さっきの「溜まったものが溢れちゃってる」という感じです。実際1990年代から2010年代後半までは、最も買っている音楽ソフトは12インチ・レコードで、30年間くらいそうだったのですが、そういう音源をコンピレイションにまとめる機会が少なかったんです。ディスクユニオンからオファーがあって「Suburbia Records」を始めるっていうタイミングで、せっかくだからたくさん買ってるクラブ・ミュージック以降の12インチ音源を使いたいというのもあって、それがシーサイドやアウトドアというパースペクティヴでも活用できるなと思ったんですね。12インチというフォーマットはどうしてもクラブやそれに伴うアンダーグラウンドなイメージも強いと思うんですが、実はドライヴはもちろん海辺やバルコニーやテラスで聴いても気持ちいいものがたくさんあるよっていう思いがありました。

── なるほど。そこはニュー・パースペクティヴを提示したいという、昔からずっと続いている橋本さんの気持ちの表れですね。

橋本 それはとても大きいですね。

── このシリーズはCDだけでなく、12インチのEPも発売されました。

橋本 自分の聴く音楽も、年齢を重ねるにつれ、チルアウト寄りになっていって、12インチも出せたことで、関連するイヴェントやパーティーもすごく楽しくやれて。海外からレジェンドDJを招聘したりね。それまでのクラブやカフェだけじゃなくて、楽しいことがたくさん起きましたね。江ノ島のシーキャンドルサンセットテラスや鎌倉のハンバーガーショップやイタリアンレストラン、葉山のホテルなど海辺でDJをする機会もすごく増えて、選曲やDJのロケイションがぐっと広がるきっかけになったと思います。

── 思い出深い風景もとても多いですね。

橋本 サンセットという時間帯に対しての愛情がとても深まって、自分をアイデンティファイするシチュエイションのひとつとして夕暮れを強く意識するようになりました。チルアウトや海辺への思い入れやこだわりも強くなりましたね。

── 橋本さんの新しい一面がここで開かれたという印象も受けます。

街の音楽・海辺の音楽との蜜月から選曲活動が多角化

橋本 インドアで自分の好きな音楽や家具だったり雑貨に、食べ物や飲み物という世界観を作るのも楽しかったんですが、外に意識が広がったことは大きかったですね。それとシンクロして相互影響を与える形で「usen for Cafe Apres-midi」も街に出ていくイメージを強めていきました。

── 2011年に10周年で一回総括的なことをして、そこから今伺ったような現在進行形の音楽や開放感のある音楽、イヴェントとの関係も密になり、新しいフェイズに入っていったと。

橋本 2010年代の音楽がメインストリーム含め自分の好みのテイストが多かったので、そことシンクロしながら街の音楽を鳴らしていきたいという気持ちが「usen for Cafe Apres-midi」においては大切になりましたね。その集大成として作ったのが15周年記念のコンピ『Music City Lovers〜Soundtracks For Comfortable Life』です。

── 橋本さんはカマシ・ワシントンの「The Rhythm Changes」を選んでいましたが、非常に象徴的でしたね。

橋本 その間にも、Free SoulやSuburbia、EXTRAVAGANZAなどのシリーズでアナログを中心としたリイシューも引き続きやりつつという感じです。でも自分の軸足は「Good Mellows」と「usen for Cafe Apres-midi」においていて、どちらも街の音楽、海辺の音楽と選曲家として自分がどう関わっていくかという視点を高めてくれましたね。あと、日本のアーティストの仕事は新鮮な気持ちで取り組むことができました。オリジナル・ラヴやクレイジーケンバンド、NujabesだったりOrigami Productions、キリンジやスガ シカオなどの仕事はとても良いスパイスになりました。

── 浜口庫之助さんやNONA REEVES、bird、Monday満ちるさんなどを除けば、それまで橋本さんは日本のアーティストのコンピって比較的少ないですよね。また新しい魅力に気づかされた企画でした。

橋本 「Good Mellows」コンピや「usen for Cafe Apres-midi」がきっかけで選曲の機会をいただくことも増えていったんですよね。伊勢丹やBARNEYS NEW YORKでのDJや店内BGM選曲など、アパレル関係の仕事も楽しんでやらせていただきました。

インターネット・ラジオ「dublab.jp suburbia radio」やSpotifyプレイリストを機に新時代へ

── そして2010年代後半からはdublab.jp やSpotifyでのセレクションは外せませんね。

橋本 リイシューやコンピはアナログ・リヴァイヴァルとリンクした形でお話をいただいている印象ですが、個人のミュージック・ライフにおいては、ソニーのMusic Unlimitedの「Free Soul 1000」「Cafe Apres-midi 1000」を引き継ぐ感じでPlayStation Musicの依頼でSpotifyプレイリストをいくつも選曲させてもらっていたので、そういう中で自分もサブスクリプション・サーヴィスで音楽を聴くということに少しずつ慣れていきました。そこから情報を得て好きな曲を知るケースも増えましたし、その恩恵は選曲においても当然受けていますね。聴くだけでなく情報収集という意味でも。

──「溜まってきたものが溢れてくる」。

橋本 溢れすぎてしまって困りますね(笑)。でもその受け皿として「dublab.jp suburbia radio」が2017年夏に始まってくれたことは大きくて。さらにインプットが増大していく中でアウトプットできる場があることで、音楽好きとしてやりがいを持って取り組めています。毎月コンピレイションCDを作っているようなものですから(笑)。

── しかも2枚組くらいのヴォリュームですしね(笑)。

橋本 そうそう。そしてアーカイヴを作成していくという意味もありますね。自分の好きなもの、好きだったものを選曲リストにすることは、コンピレイションCDの制作にも役立ちますから。

── すごく興味深い30年間のお話を伺いましたが、少し個別の質問をさせてください。冒頭の質問と被りますが、この30年を振り返って改めてどうですか?

橋本 30年間でオフィシャル・コンピレイションも350タイトルを越えましたが、何よりも続けられていることに感謝ということに尽きますね。大学生の頃にはずっと音楽に携わっていられるなんて想像もできなかったので、今もこうして選曲の仕事ができていることは奇跡だと思っています。僕のやりたいことを手助けしてくれた方や作ったものを好きになってくれた方への感謝の思いはとても言葉では表せないくらいありますね。

── そもそもフリーランスの選曲家という仕事が存在しないところから始められて、今ではそういう職業が認知されている。改めて本当にすごいことだと思います。そして、基本的に同じことをやっていないというのもすごいと感じます。

橋本 僕は逆で、やっていることはずっと同じだなと今振り返って感じています(笑)。夢中になり好奇心を抱く対象が移り変わってはいますが、自分の好きなものの魅力を分かち合いたいという気持ちが常に衝動の源泉になっていて、それを形にしていく中でどういう風に表現したら共感してくれる人が増えるかなということを常に考えていますね。

── 音楽的な変遷はいろいろあるけれども、その根っこの部分は変わらないと。

橋本 螺旋階段を上がってきたような感じで、その根っこ、そこにある哲学は一貫していると思います。「この曲いいよね」って言い合えることが好きというシンプルな在り方が、本当に大切にしている思いです。

── それでは締めのお言葉をいただければと。2024年にはFree Soulの30周年です。

橋本 時代の流れの中でコンピレイションCDのオファーをいただくことがとても減ってしまったので、でもなんとかFree Soul 30周年くらいまでは作り続けられたらいいなと近い将来の希望として感じていますね。

── 橋本さんの音楽的好奇心は衰えるどころか、むしろ盛んになっていますよね。

橋本 その通りです。フォーマットは変わっても自分の好きなものをみんなと分かち合いたいという気持ちは変わらないですね。でもやっぱり、コンピレイションCDがあと数年続いてほしいなという気持ちはあるなあ。未練がましいかもしれませんが(笑)。

── いえいえ、それは当然のお気持ちですよね。

橋本 アニヴァーサリーを大切にしたいという気持ちも以前に比べて増していますね。現在進行形の勢いがあったFree Soulの10周年のときは、「そんなのやらなくていいよ」って思っていましたが、Free Soulの20周年くらいから、そういう機会が与えられることはありがたいことだし、そこをネクスト・チャンスにつなげていかなければと思うようになりました。だから、今回も同じ気持ちでコンピ制作に携わっています。それと、リスナーの方がいなければこういうことはできないというのもつくづく感じますね。30年間聴いてくれる方がいたことに改めて本当に感謝しつつ、今後も「間口は広く、奥は深く」という気持ちでがんばっていきたいと思っています。

── 今日は本当に長い間ありがとうございました。

2022年11月25日 カフェ・アプレミディにて

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