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寿命、あるいは時限爆弾

「好き」が時限爆弾になって、幾つも体内に埋め込まれている。

機械仕掛けの感情は、飼い慣らせない。
爆発までの残り時間を私は見ることができない。

ずっと、何かを、誰かを好きになることは爆発を待つことと同義だった。終わりまでの暇つぶしのような時間を大切だと思ってしまうから、怖かった。爆発の跡が虚しく煙を上げていた。

延命治療が効かない好意に、その爆発の威力に、ただの燃えかすになった思い出に、傷つけて傷つけられて、それでも爆弾を新調して息をしている。

旧友の好きな音楽を、英雄ポロネーズの譜面を、好きだった人の歌声を、どうしたって思い出せない。思い出したいとさえ思わない。

爆発したらそれで終わりな私は、冷たい人間なのだと思う。

3年間続けた吹奏楽を嫌いになった。
長い間一緒にいた恋人を愛せなくなった。
推しにお金を落とすのが馬鹿馬鹿しくなった。

毎回、爆発の度に寂しくなる。
私を支えてくれていた「好き」が消えて、もう在庫がどこにもないのではないかと、堪らなく怖くなる。


だけど、時限爆弾化し損なった「好き」がまだ体内にひっそりと棲んでいる気がしている。

音楽に対する好きは、小説に対する好きは、私が必要だと伝えてくれる人に対する好きは、きっと機械仕掛けじゃない。生きた「好き」だ。

生きていたって寿命はあって、いつか終わる。
それでも、必死で延命治療を施す。嫌いになったって、どうにかして好きに戻ろうとする。音楽も、今大事だと思う人たちも、きれいさっぱり忘れてしまってはいけないような気がするから。

爆弾を幾つも抱え込んでいたら、身体が重くてかなわない。無駄な好意は傷の数を増やすだけだ。
生きた好意だって決して飼い慣らせる訳では無い。でも、いつか来る爆発に心を質にとられるよりは平和だからいい。

刺激を孕んだ「好き」を買い足すのは辞める。
運良く爆弾化を免れた、片手で数えられるくらいの「好き」を抱え込んでいたい。

20年の人生で多少は上達したであろう延命治療で、まだまだ寿命を延ばせる自信がある。

音楽を辞めるのが、大切な人を手放すのが、私の人生が終わるのと同じタイミングであってほしいと願うばかり。

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